☆188 勝手に憧れて勝手に幻滅をしたんだ
「こ、こんなことしてもいいのかしら……」
掃除用の手ぬぐいを被った私が洩らした発言に、同じく豆搾りの手ぬぐいでほっかむりをした希未が意地悪く笑った。
身軽に片足立ちをし、おでこに手を当てて見せる。そんな彼女の態度に些かの不安を感じた私だったが、それを察知したかのように松葉が口を開いた。
「だって、遠野さんと仲直りしたいんでしょ? 八重さま」
「だからって、ちょっと離れたところからみんなで柳原先生との会話を覗き見する必要はないと思うんだけど……」
というか、これは最早遠野さんへの嫌がらせの領域ではないのか?
常識との食い違いに私の頭が痛くなる。しかめっ面をしていると、天使のように人畜無害な白波さんが可愛らしくこう言った。
「あ、あの、私は部室で待っているので……」
「はい、裏切りの脱走者1匹確保お! 白波ちゃんばっかりお綺麗でいようとしたってそうはいかないからね!」
「……ふええ、むぐ!」
希未によって羽交い締めにされた白波さんが小さく悲鳴を洩らす。その口は手際よく塞がれ、ぱたぱた身動きしている彼女は久しぶりに囚われた妖精となった。
それを見て、常識人枠の鳥羽がため息を吐く。
「まあ、遠野も月之宮への暴力行為が先にあるからなあ……これでアイコってなもんじゃねーの?」
「そうだよ。喧嘩の加害者に人権はないの!」
希未が鳥羽の言葉に偉そうに同調する。そんな胡散臭い友人の楽しそうな笑顔に、私は半目になって素っ気なく訊ねた。
「……それで、本音は?」
「こんなに面白そうな恋愛イベントを見逃すなんて勿体ない! 是非ともこのネタを掴んで、今後の揺すりに……」
「やっぱりろくでもない!」
希未の頭に、私は軽くツッコミの手刀を加えた。それが当たる直前で、東雲先輩にぱしっと腕を掴まれる。こちらが驚いていると、軽くいなした彼は感情の見えない笑みを浮かべた。
「まあまあ、結果が良ければ全てこともなし。八重だって、あの娘とずっとこのままでいるのは嫌なのでしょう?」
「それは、そうですけど……」
「だったら、素直に従ってなさい。あんまり騒ぐと尾行がバレますよ」
あれ? 間違っているのは私の方なのか?
釈然としない思いを抱いた私に、八手先輩がぼそっと呟く。
「遠野をつけるのであれば、オレだけでも充分なのだが……」
「流石云う事が違うね。……八重さまの元ストーカーが」
松葉が目を眇めて嫌そうな顔をした。大げさなくらいの溜め息をついて、憂いた表情になる。そんなカワウソを見て、東雲先輩が舌打ちをした。
「お前はお前で拉致誘拐をしたくせに何を云っているんだか」
「え? ボクは八重さまを異界に招待しただけだし、実行犯は遠野さんだよ?」
さりげなく自分の罪まで遠野さんになすりつけた!
じろりと東雲先輩が松葉を睨み、鳥羽は大きな欠伸をする。八手先輩は寡黙に佇み、希未は中庭の方を壁の影から覗いて唇に人差し指を当てた。
「……しっ、遠野ちゃんを見つけたよ」
中庭の芝生に体育座りをしていたのは、乱れた三つ編みをした女学生だった。白ウサギのように泣き腫らした赤い目をぐしぐしと手で擦りながら、ひどく落ち込んだ風情でそこにいる。彼女は、近づいてくる柳原先生の存在に気が付き、びくりと身を竦めた。
「――遠野、授業をサボってそんなところにいたのか。これでもけっこう探したぞ」
半笑いでそう言った雪男の姿を目にした遠野さんは、イヤイヤと頭を振って鼻をすする。持っていた携帯をズボンのポケットに滑り込ませ、彼は安心したように笑みを見せた。
「わ、たし……に、話しかけないで……下さい」
「どうしてだ?」
「私には、そんな権利なんてないから……」
ふうん、と柳原先生は独りごちると、静かにしゃがみ込んで遠野さんの頭を軽くぽん、と叩いた。
「……なんでそう思うのか、聞いてもいいか?」
しばらく、遠野さんは黙っていた。こうして口を閉ざしていれば先生がどこかに消えてくれないかと考えていたのだろうが、そういう気配を見せない彼の態度に根負けしたのか、ポツリ、ポツリと涙を零すように語り始めた。
「……私、……月之宮さんのことを、叩いてしまいました」
「おおっ そりゃあ大変だ、大事件だ!」
陽気にはやし立てる雪男の方を見ずに、遠野さんは吐き出す。
「……もしも、……この学校で先生にふさわしい人がいるのなら……、月之宮さんだと勝手に思っていたんです。……容姿端麗で、学業もトップを争うほどに優秀で、とんでもなくお金持ちで、尚且つ剣を振るって命がけで私のことを助けてくれました……、ぐず……」
「……へー、何その、オレとしては身の危険しか感じない発想」
気のせいか、相槌を打とうとした柳原先生が遠くから見ても分かるほどに青ざめる。私の傍に居た東雲先輩と松葉が、奥歯をギリリと噛みしめる音が聞こえた。
「……2人とも、抑えて、抑えてってば」
小声の希未が慌てて雪男へ殴りかかりそうな2人を制止する。こんな程度のことで尾行がバレたら、仲直りのチャンスはもうやって来ないだろう。
私は、息を潜めて身体を小さくした。曲がり角の壁の向こうでは、遠野さんが中庭で柳原先生と会話を続けている。
「……だから、月之宮さんとだったら諦められると信じていたんです。月之宮さんと先生とだったら……そう思っていたのに」
暗い声色で、彼女は力なく呟く。
「……掲示板に貼り出されたあの写真を見たら、その頭の中で考えていたことが本当の現実に起きてしまったことに気付きました」
「うん、その飛躍的な発想が怖いっす。なんか、狐さんからの命の危険を切実にすごく感じる」
柳原先生は、私達を隠している壁の方向を怯えた眼差しでチラ見し始めた。まるで、そこから災害じみた猛獣がとび出してくるとでも言いたそうだ。
そんな挙動不審な先生のことには気付かずに、遠野さんは早口に語り出した。
「……でも、考えなくても当たり前だったんです。……先生みたいな素晴らしい人が、私なんかを好きになってくれるはずがなかった……。
……どんなに悪人から生まれ変わろうと決意したって、
やっぱり私の性格は一朝一夕に白波さんみたいに綺麗になんかなれないし、
月之宮さんのように勇敢になれるわけじゃない。
栗村さんのように快活にもなれないし、
鳥羽君みたいに頭がいいわけでもありません。
長所なんて探しても見つからないし、そんなところが自分でも大嫌いです」
「ま、まあ、性格とかは意識しても変わらないことも多いしな……。でも、遠野はよく頑張ってた方だと思うぞ、うん。そんなに自己卑下しなくても」
「もう二度と人は傷つけないと誓っていたのに、私は月之宮さんという人生をかけての恩人を感情的になって叩いてしまったんです」
「そ、それは良くないな! でもな、ぶっちゃけ人間基準ではアレでも、アヤカシ基準では遠野はわりとマシな部類に入るから……」
どんな論法だ。
柳原先生の慰めになっていない慰めに、私たちは一同アチャアと声を上げそうになった。性格が破綻していたり、暴力的なコミュニケーションをすることの多いアヤカシと比べること自体が、遠野さんの性格が悪いと云っているようなものだ。
「お、オレの知り合いの女なんかな! 食い意地と愛欲だけで生きているようなとんでもない奴なんだぞ! それを考えたら、遠野なんか控えめで清楚な女の子にしか見えないって!」
「……私の場合、猫を被っているだけですから」
「いんや、某知り合いの場合はそれすら無くなっているから」
真顔になった柳原先生は、笑みがすぐに消えた遠野さんの頭を優しく撫ぜた。……すると、だんだん彼女の顔が赤くなり、終いには女の子らしく泣き出してしまった。
「……うう、ひっく、ふぐ……私、……や、柳原先生が、月之宮さんに遊ばれていたんだと早とちりしてしまったんです。本命は生徒会長で、柳原先生はおやつのように手を出されて……そんな先生のことが、すごく可哀想になって……、気が付いたら、先生を泣かせた月之宮さんのことを正義感で食堂で叩いていたんです」
「遠野や、お前さん、付き添ってやるから脳外科かどこかに行くかい?」
「わ、私、月之宮さんの友達にはなれなくても、近くにいるのなら信じてあげなくちゃダメだったのに……っ」
「遠野や、オレ真剣にお前さんの頭の中が心配になってきたよ」
やれやれ、と云わんばかりになった柳原先生が、しゃがんだ姿勢のままにストレートにこう言った。
「オレから見るに、月之宮は遠野のことを友達だと思っていたように見えていたんですけど?」
「え……」
想定外の言葉を受けたというように、すっかり頭の冷えた遠野さんはポカンと口を開けた。茫然としている彼女の頭を撫で続けながら、柳原先生は厳しい態度で告げる。
「わ、私が、月之宮さんの友達……?」
「多分な。月之宮はとっくに遠野のことを自分の友達だと考えていたはずだ。あの子はな、特殊な生い立ちのせいでなかなか人間の友達ができなかった子なんだよ。
……だからこそ、遠野から殴られてすごく気落ちしているはずだ。大事な友達から不条理なことをされたんだからな」
「だって、あんなにお金持ちなら、私なんかがいなくてもきっと……」
「遠野。自分だったら、金目当てだけの人間と仲良くして、お前さんは本当に安心できるのか?」
「…………あ…………」
遠野さんの、零していた涙が止まった。
やがて、その顔色がさっと青ざめていく。掠れた声が出る。
「……わ、私、もしかしたら本当にヒドイことを……」
「遠野。いきすぎた自己卑下は、無責任なことだと思うよ。自分なんかに心の奥で価値がないと思うから、簡単に人を失望させるなんてことができるんだ。月之宮だけじゃない。誰かの心を支えていた存在を己が担っていたと気付くのが遅すぎるよ」
その柳原先生の言葉に、忍び聞いていた私は自分までもが不意打ちで切り付けられた思いになった。
誰かの心を支えている自覚がないから、容易に失望させるなんてことができるのだ……。
このことを、私は犯さずに生きてこれていただろうか。
遠野さんが、心底後悔をした顔になった。
「……私、月之宮さんに勝手に憧れて、勝手に幻滅したんだ……」
「お前さん、もしかして未だに自分には友達が1人もいないって思い込んでいたの?」
悲しそうに、遠野さんが頷いた。
その反応を見て、柳原先生が呆れた顔になる。
「……その件については、後で栗村辺りにでも矯正してもらうとして……お前さん、本当にオレが前に云ったことについて何も分かってなかったみたいでガッカリですよ」




