★間章――柳原政雪
人間らしいあの子の話。
仕事を片付けていた柳原の携帯に着信があったのは、夕方のことだった。
月之宮八重のことを平手で叩いたという受け持ちの生徒、遠野ちほのことは頭から離れなかったが、かといって当人を教員の権限で公的に呼び出すのは躊躇を感じていた。
高校生というものは長生きな柳原にとっては、シルクのスカーフのように繊細に慎重に扱ってやらねばならない時期であり、そこを亀の子たわしでゴシゴシこするような粗雑なことをしてはこれまで積み上げてきたものが総て台無しになってしまう。
だからといって、他のクラスの教員に相談するわけにもいかない。恐らく、遠野がそのような乱暴をしてしまったのは自分に対する恋愛感情に起因しているのだから、それが大っぴらになってしまっては困るのだ。
……困る?
いや、実際に困るのは遠野ではなくて、……オレの方なんじゃないのか?
冷静になれ、柳原政雪。これは、非常に重要な局面だ。
ずっとはぐらかし、ぬらりくらりと避けてきたことだが、実のところ、柳原は教え子の遠野のことを異性として意識するようになっていた。
つまり、無意識に柳原は、嫉妬の余りに月之宮に手を出してしまった彼女のことを可愛いと思ってしまったのである。
だが、そんな教員失格な感情を認めるわけにはいかない。
このような小さなことで辞められるほど浅い心構えでこの職に就いているのではないからにして、惚れたはれたでスッパリこの学校から退くことはなっちゃならんのだ。
小さい……、ううむ。小さい感情なのかなあ、こりゃ。
こういう落ち着かない心境のときには煙草が吸いたい。だが、自分しかいない国語資料室をヤニ臭くしちまったら、後で大目玉を喰らうことになるのだが。
ソワソワしながらも、柳原はふと己のしわくちゃのシーツのポケットに入った携帯電話のバイブレーションに気が付いた。
「……ほい、柳原です」
それを受け取って返事をすると、相手からは静かな声が聞こえてきた。
「柳原か」
「そのお声は、東雲さんで?」
ばっと全身から冷や汗が噴きだした。恐怖に引きつりながらも怖々としていると、電話の向こうの妖狐が薄く笑ったのが分かった。
「……お前に用があって連絡した、時間はとれるか」
「は、はっははははははははははははい、はいさ!」
ブルブル震えながら応答すると、東雲がくつくつと笑う。
そりゃ相手にとったらそうかもしれんが、こちらにとってはいつまた制裁を下されるのかと生きた心地がしないのだ。
「用事というのは、八重のことだ。彼女が珍しく僕に頼み事をしてきた」
「……そりゃ珍しいっすな」
思わず、柳原がハッと我に返って素直な感想を洩らす。常日頃から自分だけで何事も解決したがるような性格に見える月之宮家の令嬢が、そんな風に簡単に甘えるとは思えない。そんな彼女が妖狐を頼るとは……、柳原が驚きを感じていると、東雲は機嫌良さげにこう言った。
「どうも八重は、遠野ちほと仲直りがしたいらしい」
「へい?」
……仲直り?
その意外な言葉に目を丸くしていると、
「その為には、あの娘に八重に謝らせるだけではダメだろう。恐らく、無理にそういう方向にもっていけば恨みつらみが残ることになる」
と、東雲は淡々と告げた。
「東雲さんが人間の心をおもんばかるなんて……」
「これは現状を鑑みた単純な推理だ。八重がそう言わなかったら、僕があんな愚かな娘に気なんて遣うか」
単に優しさを見せたわけではないらしい。
むしろ、その言葉の端々から怒りの欠片が伝わってきて、柳原は藪蛇だったかと天を仰いだ。
「じゃあ、オレにどうして欲しいんだい?」
「お前には遠野ちほを懐柔させる」
「怪獣?」
「懐柔の方だ、このバカ」
普段では耳慣れない単語に微妙な表情になった柳原は、口元を押さえて脱力をした。
「……オレ、あの子にはちゃんと待ってるって云ったんだけどなぁ……」
「伝わってなければ意味はないだろう」
「そーっすか」
頭を乱暴にかいた柳原は、どんよりと自嘲した。
「……瀬川松葉の計略に加担していたことといい、今回の喧嘩といい、あんな短気な娘のどこがいいのか僕には分かりかねるものがある」
鼻で笑った東雲に、柳原は思わず庇ってしまった。
そんなつもりはなかったのだが、自然と口はこう動いた。
「いやいや、東雲さん。遠野は、考えようによっちゃあすごく人間らしい女の子ですよ」
「人間らしい?」
不可解なものを聞いたような反応が返ってきて、柳原は思わず笑い出した。
これだから、この妖狐は分かってないのだ。
遠野ちほに何故雪男が惹かれるのかも、月之宮八重があの子のことを好きになるのかも、偏った視点で判断している限りは一生理解できやしないだろう。
「遠野はね、いつでも一生懸命なだけなんですよ。人間はいつだっていい心と悪い心がせめぎ合っているもんです。オレは彼女のそーいうところがとても好きですね」
「……もう、お前は一生あの娘を見張ってろ」
その呆れたような呟きを受けて、柳原はニヤッとようやく悪い笑みを浮かべたのだった。




