☆183 嫌味な教頭
喉が渇く。ひたすらに、乾いている。
緊張から発生した不整脈を感じながら、私はクラスメイトの視線から逃れるように教室から出た。
廊下の生徒たちの目線もこちらに向いている。
……怖い。
その温度の無い白黒の世界で、私は俯きながらも早足で人ごみをすり抜けた。
段々と歩く速度が上がっていく。小走りになる。
こんな風に良くない注目を集めるのは苦手だ。自分は何も悪いことはしていないはずなのに、口の中がカラカラになってしまう。
結構離れた場所にある校長室まで走っていくと、道中の職員室でボロボロになった柳原先生の姿を見つけた。
「……先生?」
恐る恐る声を掛けると、グレーの髪が焦げた雪男がうっとたじろいだのが分かった。スーツのところどころには溶けたような虫食い状の小さな穴が空いており、全体的に石油ストーブで焦がしてしまった雑巾のような佇まいになっている。
「おう……月之宮か」
げっそり頬のこけた先生の目は死んでいた。
魂がそこらへんに逝っちゃってそうな感じになっていた。
その余りの気の毒な姿に、かかっていたはずのプレッシャーがどこかに吹っ飛んでしまう。
「どうしたんですか、その恰好」
「あ、ああ、とある人物に軽く八つ当たりされただけだから、心配せんでよろしい」
ぶるりと身を震わせた柳原先生は、あからさまに顔を背けた。なんとなく誰によってこのような制裁が下されたのかを察しそうになったけれど、私は速攻でその推理に蓋をしてしまうことにした。
何となく、気付いたら不幸が移りそうな予感がしたからだ。
「あの……校長室に私たちが呼び出された原因って……」
「オレが迂闊だったせいです、真に申し訳ございませんでしたっ!」
私が呼び出しについて口にすると、飛び跳ねるように頭を下げられた。まるでゼンマイ仕掛けの人形のようだ。
「……その、謝らないでください」
「ここで謝らなかったらもっと絞められるから!」
誰に、とは聞かない。
明々白々なことは訊ねる必要もない。
氷の属性である柳原先生が雪を溶かす炎を恐れるのは本能的なものだろうか。……いや、五行の観点から考えた方がいいかな?
夏の砂浜にも行けたくらいだし、あんまり関係ないのかしら?
考え事をしている私に、先生が上目遣いをしてくる。
オッサンアヤカシが睫毛をパチパチさせても全然可愛くない。むしろちょっとキモイ。
私には遠野さんのような片想いフィルターは備えていないので、普通にその光景に引いてしまった。
「先生、全く可愛くないです」
「……そ、そうか……」
今度は泣きそうな顔をされた。
……だからさ。可愛くないって。
アヤカシは自然と懐から煙草の箱を取り出そうとして、躊躇に指を止める。いくらなんでも上司に呼び出されて煙草を吸う訳にもいかないと気付いたのだろう。
「つっつつつ、月之宮はオレがくく、首になると思いますかかか?」
「いや、分かりません」
多分生徒である私は大丈夫だと思うけど、柳原先生がどうなるかは予想できない。
私は口元に手を当てて囁いた。
「運が悪ければ、停職……いや、めん……」
「聞きたくない、聞きたくない、そっから先は聞きたくねえです!」
ぶんぶん頭を振ったコミカルな雪男に苦笑いしていると、後ろから遠慮のない咳払いが耳に入った。
振り返ると、そこには眼鏡をかけた陰湿そうな男(教頭先生)が立っていた。
「――随分と仲のいいことですねえ、柳原先生? 君は一体どうしてここまで呼び出されたのか分かっているのかい?」
「…………ぎゃぼ」
のだめみたいな反応で顔を青ざめさせた柳原先生に、教頭がえっへんと再び咳払いをする。一見しただけの印象では、坊ちゃんの『赤シャツ』を思わせる意地の悪さだった。
そんな連想をした時、おもむろに教頭が自分のポケットから古びた懐中時計を取り出したりしたものだから、緊張に強張っていた私の精神は、一周回って笑い出しそうになってしまった。
もうこの教頭は、赤シャツ確定だ。白いワイシャツを着ているけれど、そんなの関係ない。赤シャツといったら赤シャツなのだ。
似ていなくても頭の中では勝手にそう呼ぶことに決めてしまった。
「今回は不幸だったねえ、月之宮君」
猫を撫でるような言葉で赤シャツ教頭から言われ、私は一瞬反応に遅れてしまう。電流をピリッと流された心地で背筋を伸ばすと、にこやかな嘲笑を受けた。
「柳原君には本当に期待していたのだよ、それなのに、こんな醜聞を起こすとはなんて嘆かわしい」
「あ、あの、私と先生はそういう関係ではなくって……」
「火のない所に煙は立たないと昔から言うでしょう? 柳原先生にももう少し分別というものがあったならこんなことにはならなかっただろうにねえ?」
その嫌味から下卑た想像をされていることに気付き、私は不愉快な思いになった。
というか、こっちの話しを聞け。
勝手に鬼の首を取ったように興奮するんじゃない。とっとと失せろ。
眉間にシワを作った私から何を赤シャツが感じたのかは分からない。だが、どうせろくなものではないだろう。
この様子からするに、生徒に慕われている柳原先生のことを普段からよく思っていなかったに違いないのだから。
「さあ、そんなところに立っていないで校長室でじっくり話をお聞きしましょう」
赤シャツ教頭に促されるがままに、ぞわっとするような気持ち悪さを堪えて私と雪男は校長室の中に入った。




