☆149 盲目の突き抜けた愛妻家
さっとシャワーを浴びて磨き込んだ素肌にベビーパウダーがはたかれ、サテンのつるりとした布地が触れる。
リキッドファンデーションを馴染ませた顔にはブルーとパールのアイシャドウと、ノーズシャドウ、マスカラ、マゼンタの口紅に僅かなグロスが塗られた。
あえて血色をよく見せるチークはつけずに、透明感のあるメイクとなっている。
奈々子の誕生日パーティーの当日の夕方、準備として使用人に衣装を着せられて飾り付けられながらも、私は誰にも分からないようにそっとため息をついた。
漆黒のドレスから煽情的に見え隠れする自分の肌に、違和感を覚えながらもじっと我慢をした。
「……うわ……」
ぼうっと松葉がこちらに見惚れていた。
彼の服装は黒いタキシードで、胸元にはエメラルドのピンが留められている。ふわふわのくせっ毛はスタイリング剤で遊ばれており、どこかの外国の血を引いた名家の御曹司のような佇まいとなっている。
「……だらしない顔をしておらんと、松葉はもうちょっとマシな態度はとれんのか」
嫌そうな顔をしている蛍御前は、全身をゴールドでまとめていた。オリエンタルなドレスは裾を引きずっており、手には孔雀の扇を持っている。それで口元を隠しながらも、彼女は目を眇めた。
「八重ちゃんこっちを向いて! ほら、みんなも写真写真!」
同じように飾り立てた母が、デジカメを持ってはしゃいでいる。瞬いているシャッターの光に、私はすでに疲れた笑みを浮かべた。
……この悪役ファッションもしっかり記録されてしまうのね。
なんだか胸元が少しきつい。ウエストには余裕があるけど、サイズが小さかったのだろうか。
眉を寄せて肩を落としていると、留守番役にすねた白蓮がダイニングテーブルに広げた特上寿司を食べながらこう要求した。
「美味しいものは持ち帰ってくれないと許さないのね。約束したんだから、守ってくれなきゃイーッなのね!」
「何度も繰り返さなくとも分かっておる。……ほんに食い意地のはった奴じゃ。今食べている寿司だけでは満足せぬのか」
「キュイッ」
つん、と夕飯中の白蓮が鳴いてそっぽを向く。ほっぺには米粒がついていた。
呆れたような蛍御前の目線は見なかったことにしたようだ。
私は間を置いて、松葉になるべく優美に微笑みかけた。
「……エスコート、よろしくね。松葉」
「……うん」
「なんだか目の焦点が合ってないけど、大丈夫?」
「……ダイジョウブ」
こちらを見てくらくらしている松葉はオウムのように繰り返して言った。
頬は赤く、目元は充血しそうになっている。
心配になった私が近づくと、松葉は息を詰めて身を引き――、
「――ヤバイ、これホントヤバイって。これからパーティーなのに臨界点突破で失神しそう。こんなに八重さまが美麗で、ボク、真面目にエスコートできるの? 冷静を取り戻せ、ボク。頭を冷やすんだ、ボク!! ひとよひとよにひとみごろひとなみにおごれやふじさんろくおーむなく……ひとよひとよに……ブツブツ」
動揺しているのか言動が乱れている。
私の式妖はうわごとの如く呟きながら、壁に頭を打ち付け始めた。
ガン! ガン! と不穏な音が室内に響く。
松葉の奇行に私が戸惑っていると、それを見た母がふふっと嬉しそうに笑った。
「もう、八重ちゃんったらホントに罪深いんだから! 私の若い頃を思い出しちゃう!」
「それはないって」
自己評価は低めに保つ習性の私が否定すると、母は強引に姿見の方に連れ出してきた。
「そういうこと云ってないで、ちゃんと自分の姿を見なさい!」
「え……っ」
大きな姿見に映った自分の輪郭に、私は驚きに呆然と立ち尽くした。
セミロングからロングの髪は艶のある黒髪で、滑らかなるアップにまとめられている。どこか大人びた小さな顔には長い睫毛が瞳を縁取り、化粧がそこに彩りを添えていた。
身長は高いけれど、決して女性らしさを損なっているわけではない。むしろ、露出の多い漆黒のドレスは身体のラインを強調し、たっぷりと大きな胸と細いウエストがとことんまで色気を醸し出している。
流石は唯一の悪役としてキャラクターデザインされた見た目だった。
「……なんか、これはこれで整いすぎて怖いわね……」
ポツリと呟くと、母が微妙な顔になった。
「……八重ちゃんったら。絶世の美少女な自分を見て云うことがそれなの?」
もう、とつまらなそうにした母に、私は虚ろに笑うしかなかった。……自己陶酔するには、様々なものが邪魔をしているわけでして。
私は普通の人間、私は普通の人間、普通の人間……。
うぬぼれないように自己評価をせっせと下方修正していると、着替え終わった父が大股歩きでずんずんと部屋に入って来た。
「準備はできたか!」
「あなたが一番最後になっておりましてよ」
気難しそうな父に、振り返った母が穏やかに笑った。
私の恰好をろくに見ようともしない彼は、高級ネクタイの締め付けを気にしたり、カフスボタンを落ち着かない風情で弄ったりしている。
「いつも云っている通りだが……八重。私が何を言いたいかは分かっているな?」
「庶民の誘いには応じない。婚約者にするなら月之宮家にふさわしいマトモな人間にすること。父さんに恥をかかせないこと」
この場合のマトモとは、家柄とか、学歴とか、幽霊を信じないとかそういったことだ。
「それもそうだが……その、なんだ。こういう公の場所ではアレの話はしないようにな」
父さんが何を言いたいのかはすぐに分かった。
「ああ、陰陽師の仕事の話題はするなってことでしょう?」
「我が家が宗教法人の1つだということは、とりわけ醜聞になるからな。 私がアレのことは知らないということになっていることを忘れてもらっては困るのだ!」
「アレって……妖怪とか?」
「そんなものはこの世にはおらん! 一緒に騒いでいた幽司はようやくマトモになってきたというのに、実の娘はまだ死んだ爺さんの世迷言を信じているのか!」
皮肉なことだ。
経済学部への留学を名目に海外逃亡を図った義兄の方が今や父にとってはマトモな子どもで、こうして国内に残っている私の方が頭がおかしいと思われているなんて。
「だって……」
妖怪は本当にこの世にいるんだもの。
それが嘘やまやかしではないことを、私はちゃんと知っている。
「日之宮も日之宮だ。
秘密主義なのはいいとしても、呪術なんぞをこの科学万世の時代に崇め奉っているとは理解もしたくないことだ。終いには、この私のことを無能で哀れな当主などと、妙なことばかり云って見下しおって! しがらみさえなければ、いっそ切り捨てられたものを……八重! あちらが何を云おうと、お前は日之宮にだけは嫁がせん!」
「ええ、ええ。分かっておりますとも、愛しの旦那様。……けれど、落ち着いてくださいませ。これから奈々子ちゃんのお祝いの席ですから抑えて」
中年期に突入しているはずなのに若く美しい私の母が、父の腕に優しく触れた。その細いなで肩が近づくと、機嫌が悪かったはずの父が押し黙った。
「そもそも、私はあの奈々子という娘も気に入らんのだ。聞いた話では呪術なんぞにかぶれきっているという話ではないか。幽司が分家からの養子だから婚約の許可を出したものの、あれは改めるどころか年々酷くなっていくばかりだ」
「そうでございますわねえ」
「お前との結婚を決めた時も、私の父や母からは反対されたままだった。亡くなった者を悪くいうべきでないことは分かっているが、何度も面と向かって云ってやったものだ。いかれた女の陰陽師とやらを嫁にするつもりはない。私は自分が惚れた女を選ぶとな」
「あら」
母が嬉しそうに俯いた。
決して聞いてて気持ちのよいセリフではなかったように思われたが、母の頭はそれを褒め言葉に変換したらしい。どんなトラベルコンバーターだ。
ここから先はもう付き合う気がしない。どうせ、両親は2人の世界に入ってしまうに違いないのだから。
「君だけだ。見下されていた私のことを分かってくれたのも、このキチガイだらけの我が家を分かってくれたのも、財産に目が眩まなかったのも」
「あら、旦那様ったら」
「本当にお前は幾つになっても美しいままだな。そのドレスもよく似合っている」
「見た目にも気を配らなければ、あなたの傍にはいられませんわ」
ハイハイ、ごちそうさまです。
胸焼けしそうになった私が目を逸らすと、やっと正気に返った松葉がボソッとこう言った。
「……八重さまの父さんってこういう人だったんだ」
「ええ」
呪術嫌いの、盲目で突き抜けた愛妻家である。




