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悪役令嬢のままでいなさい!  作者: 顔面ヒロシ(奈良雪平)
夏――ブルーの空の下で
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☆148 エリート高校の落ちこぼれノート



「……では、この問いの――例題Aを、白波さん」

 返事がない。黙々と授業を受ける生徒たちに視線を走らせると、数学の女教諭はきつい眼差しで彼女を見やった。


「……白波さん? 何をやっているのです。私は今、貴女を指名しましたよ?」

「あ……、は、はい」

 慌てて立ち上がった白波さんは、視線をノートの上に落とした。


「気が付いたのなら、早く黒板に解答を書きなさい」

「えっと……その……」

 泣きそうな白波さんは、女教諭に向かって消え入りそうな声で訴えた。

 分かりません、と。


「貴女はいつもそうですね。

知らないなんてことがあるはずがありませんわ。

微分の基礎はとっくの昔に教えましたよ、まさかそこから分からないとでも云うつもりですか?」


 クスクスと教室中に心無い忍び笑いが広がっていく。

顔を真っ赤にした白波さんがプレッシャーで震えながら直立しているのを、鳥羽が片目を開けてそれを見た。


「白波さん。私はこれまで、貴女ほどの劣等生は受け持った記憶がありません。できないと云うのであれば、できるまで努力をするのが当たり前だと思いませんか?

この学校は、死ぬような思いで勉学を志す者に開かれた学び舎です。エリートの代名詞であるこの学校に入りたくても入れなかった生徒は山のようにおります。……それでも彼らは皆、貴女よりは数学が優秀な者ばかりであったことでしょう。

率直に申しますと、いくら貴女の性格が朗らかであったとしても、学力からいえばどうしてここへ入ってしまったのかと私は失望を禁じえません」


 それは、皮肉めいた女教諭の言葉だった。

……淡々と重ねられていく正論に、私は眉を潜める。

いくら正しい論理だとしても、今、この場で言うこともあるまいに。


 身を竦めた白波さんの睫毛は伏せられ、ショックで棒立ちになってしまっている。

 クスクス笑いも次第に嘲りの色を増し始めた。

実力主義な私立慶水高校。根強い学力一等論者で埋め尽くされたクラスにとって、高校一年の内容すら怪しい生徒は学園カーストの最底辺とみなされる。


クラス中の視線を集めている白波さんに、助けの手が下されることは――、

 ――ってか、なんだか私まで不愉快に感じてるんだけど。


苛立ちの原因は、判然としている。白波さんがみんなに馬鹿にされているからだ。

……確かにあの子はおバカさんなんだけど、それを他人に嘲られている場面を見ていて気分がいいかっていうと、それはかなり違うのよね。

 むしろ、すっごい腹が立つ。

常日頃から白波さんにいい感情を持っていなかったはずの遠野さんですら、どこか不快そうにしていた。


 助ける?

……それをしてどうなるというのだろう。むしろここで先生に逆らって変な庇い方をすればイジメが加速する可能性がある。

では、見捨てる?

それだけはあり得ない。

 迷いが生まれつつあった私が、件の女教諭を睨み付けると……。

さっきまで遊んでいたはずの鳥羽が、がたりと椅子を押しのけて立ち上がった。


「あ……」

 戸惑いが女教諭の顔に出る。


「ど、どうしたのかしら。鳥羽君? 私は、貴方を当ててはおりませんよ?」

「……解けた」

 彼の突き出したノートには、複数の殴り書きがあった。

それは式というには余りに中途半端で、落書きというには美しい痕跡だ。


「先生の出しそうな教科書にあった問題は先回りして全部解いてしまったので、いい加減に授業を進めてもらいたいと思いました。

白波に説教をするような時間の無駄は、迷惑なので止めてもらってもいいですか?」

 ぞんざいにそんなことを言いながら、鳥羽は勝手に黒板を白チョークで埋めていく。

 立ちっぱなしになっていた白波さんがそろそろと自分の椅子にへたり込んだ。


「…………な……っ」

 想定外の一言を喰らった数学の先生が、盛大に顔を引きつらせる。ざわめいていたクラスがシン、と静まり返った。

誰もが鳥羽に解かれる前に慌てて教科書の問いに視線を向け、ノートにペンで書き込んでいく。にやついていた生徒は、その冴えた頭脳を前に顔色を失くしていた。


「俺はやるべきことはやっているつもりです」

「そ、そうですわね……」

 鳥羽の頭の回転力に舌を巻いた女教諭は、震え声で赤いチョークを手に取った。

黒板に埋め尽くされた例題及び応用問題の解答を採点し始めた先生は、その解説をしながらしきりに無表情となっている鳥羽を褒めたたえ、そのご機嫌とりに励んで残りの授業は終了した。




 気が付いたら、東雲先輩にずっと会っていない。

毎日部活に顔を出しても、妖狐の姿は見ないままだった。

 生徒会の仕事が忙しいのかな……。

 どこか物足りない心境になりながらも、保健室で沈んでいる白波さんの代わりに、今日は私がお茶を淹れることになった。電気ケトルで沸かした水道水を、紅茶のティーバッグの入ったポットに注いでいく。3分くらい経ったらカップに分けてみんなに出した。


「……くそマジイ」

 苦々しい表情で鳥羽に吐き捨てられ、私はカチンときた。


「何よ、自分では淹れないくせに文句つけて。私相手に亭主関白でも気取るつもり?」

「ここまで不味きゃ誰だって文句も云いたくなるっつーの。月之宮、お前自分の淹れた茶を飲んでみろよ」

 私とチェスの試合をしていた鳥羽の一言に、私は眉を寄せる。

……何よ、ティーバッグのお茶なんて誰が淹れたところで味なんか大して変わらないわよ……。

周りを見ると、他の部員はみんな微妙な顔をしてお茶を飲んでいる。その風景に違和感を覚えた私は、渋々自分のティーカップに口をつけた。


「……で?」

「ゲホ、ケホ……ごめんなさい、びっくりするほどの粗茶っぷりだったわ」

 色がしっかり出ているからいいと思ったら、苦味まで一緒に抽出されてしまったらしい。


「これを飲んでみると、オカ研の給仕係としての白波ちゃんのありがたみがよーく分かるよねー」

 漫画を読んでいた希未がため息をついて呟いた。


「今日の数学は可哀そうだったなあ……いくら成績が悪いからってあんなにネチネチイジメることないじゃんねえ? 自首退学にでも追い込みたいのかな?」

 希未の言葉に、八手先輩がボソッと口を開く。


「案外、それもあるかもしれないな。この学校は、無能に厳しい」

「んなこと云ったって、白波ちゃんだって入学金払ってるんだから! いくら馬鹿でも通う権利ぐらいあるよ!」

 その弾丸のようなセリフを耳にしながら、私はポーンの駒を斜めに置いた。

銀縁の眼鏡をかけた夕霧君が、パソコンを弄りつつも不思議そうな表情になった。


「……オレは隣のクラスだから知らないが……そんなに白波の成績は悪いのか?」

「もう前代未聞なんじゃないかな」


「そんなにすごいのか」

「私が知っている限りでは、今の白波ちゃんのあだ名最有力候補はノートちゃんだね」

「ノート?」

 夕霧君が訝しげな顔になる。

そこに、盤面を睨んだ鳥羽が補足した。


「0の別名はnaughtノートだからだとよ。Naught(無価値)ってことらしい」

「解説が必要なものはあだ名にしない方がいいと思うぞ。誰が考えたんだ」

「さあな」

 鳥羽がルークの駒をつまんで前進させる。

そこに、試合ゲームの相手をしていた私が渋い紅茶を飲みながらこう言った。


「そろそろ、白波さんも保健室で泣き止んだ頃かしら。鳥羽、早く迎えに行かなくてもいいの?」

「アイツから1人にしてほしいって云ってきたんだ。どうせ俺や月之宮が慰めたところで嫌味になるだけだろ」


「そうかしら……」

 聡明な鳥羽の発言に、私は少々たじろぐ。

成績のとれる自分に白波さんの気持ちが100%理解できるとは思わない。……けれども、こうやって時間つぶしにボードゲームをしているだけで、本当にそれでいいのだろうか?


 現在、柳原先生は部屋の中で深々と落ち込んでいた。

「……本当に面目ない限りですわ。嫌味を云った数学の教員には、オレからも一言云っておくから」


「まあ、今回は白波ちゃんも悪かったんだって。そういうことを云われたくなかったんなら、ちゃんとテスト勉強しとけば良かったんだよ。流石にオール0点じゃいくら友達でも庇い切れないしさあ……」

「いや……それもそうなんだが」

 やけに煮えきらない態度を拭えない柳原先生は、希未のスパッとした喋りに気まずそうにしている。


「大体さー、あの数学の先生の理屈でいえば泣くぐらいなら、先に猛勉強しなくちゃってことでしょ。学生の本分に立ち返れってことよ。脳みそから抜けてく前に繰り返せば定着もするはずなのにさ……」

「その辺にしておきなさい。希未」

 不自然なほどに鳥羽は静かだった。

饒舌に己の意見を語っていた希未は、私のストップに不満そうな態度をとる。


「なんで止めるの? 私、別に悪口は云ってないじゃん。どちらかというと白波ちゃん擁護派だし」

 それでも、ダメなものはダメだ。

沈黙が空間を支配する中、鳥羽がポツリと呟いた。


「……チェックメイト」

「ええ!?」

 意識が逸れている間に、盤上の決着がついていた。縦横無尽に動いていた鳥羽のナイトが私の黒いキングの首を落とそうとしている。これでは逃れようもなさそうだ。そのことにびっくりしていると、彼はパイプ椅子から立ち上がって、この場を離れようとした。


「……悪い。俺……やっぱ、保健室にいる白波を迎えに行ってくるわ。

嫌味になるかもしれねえし、俺なんかが必要なのかは分からないけど」

 そう言った鳥羽は、どこか仮面じみた顔つきをしていた。

隠されているのは恐れ、だろうか。

私は茫洋とした想いに囚われそうになりながらも、その後ろ姿を見送ることにした。


 ……胸に宿る白波さんへの心配の念と同時に、ほんの少しだけ羨ましかった。

落ち込んでいる時に、好きな相手に迎えに来てもらえるヒロインのことが、とても。とても。




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