☆135 妖狐は報復の夢を見る
……あれ?
私が気が付いた時には、一緒にいたはずの蛍御前や希未とはぐれていた。あんなに目立っていたはずの水色の髪を見失うなんて、きっと自分はどうかしているに違いない。
おかしいな、すぐに見つかると思ったのに――。
人ごみの中で1人だけ取り残された感覚に陥って、どうしようもなく不安になった。痛みはないのに、焦燥ばかりが私を駆り立てる。いつもだったら傍にいてくれる義兄も今日は一緒に来ていない。
落ち着こう。大丈夫だ、みんなだって私をここに置いたまま帰るなんてことはしないはずだ。これはうぬぼれではなく、彼らに常識があると思っているからこそそう思う。…………常識、あるわよね?
私は微妙な顔になった。
東雲先輩は、間違いなく探してくれると思う。松葉は……ちゃんと気付いてくれるだろうか? 鳥羽は、その内戻ってくるだろうと私を放置しそうな気がする。柳原先生は分からない。八手先輩は思考回路からして不明だ。あの鬼を頼りたいとは到底思えない。
白波さんは二次被害で迷子が増えそうだし、蛍御前は食欲が優先されるだろう。遠野さんは先生の側から離れない。もしも、ちゃんと探してくれるとしたら希未と山崎さんだ。あの2人なら一生懸命になってくれる。
まあ、数えてみたら探してくれる人は3人もいるじゃない!
これなら大丈夫だ。明るい展望に、地面にあった大きな石に腰かけて私はスマホを取り出した。持っていたペットボトルに口づけ、液体を飲み込んで喉を潤す。こちらから連絡してみようと指先を動かそうとした時のことだった。
祭りに屯していた不良たちと視線が、合った。
私は息を呑んだ。彼らは驚いたように目を見開いていたけれど、やがてこちらが1人しかいないことに気付いたらしい。しばらく固まっていたと思ったら、そのうちに相手がごくりと唾を呑み込んだことに気付いた。
気だるげなサンダルの足音が私へと近づいてくる。
「……お嬢ちゃん、1人なの?」
話しかけられた――っ
唇をめくり上げた汚い金髪の不良に話しかけられて、私は緊張に全身を強張らせた。
「いえ、違います……」
早く関心を逸らして欲しい。お金が目的なら全部渡したって構わない。3万円くらい手渡せばいなくなってもらえるだろうか。
「へえ? そうなんだ? ……でも、そのわりには誰も見当たらないけど?」
ニヤニヤと下卑た笑いが彼らの間に感染していった。ターゲットになってしまった私がびくっとたじろぐと、男が強引にこちらの手首を掴んでくる。
優しさも欠片もない力だった。
「君、綺麗だってよく云われるでしょ? ……こんなに派手な恰好をして、男を誘ってるって思われても仕方ないよ?」
あだっぽい。と、不良の唇が動いた。
「お、お金なら渡しますから! だから離して……っ」
「ふうん? お金持ちなんだ?」
私の逃げ腰の提案は、そこまで彼らの心を掴まなかった。少しだけ何かを考えた不良は、不気味な笑みを作って手首から私を引き寄せる。
「……どこかのお嬢様? 男慣れしていないところといい、そのおっぱいといい、屈服させるまで楽しませてくれそうじゃん――観光客なら後腐れないし、そんないい女を易々と逃がすと本気で思ってる?
強気なとこもますますいーじゃん?」
不良からの言葉に、怖れで肌が粟立った。
……この人たち、本気だ。
彼らへの嫌悪感が先に立ち、安物の香水の臭いが鼻につく。
「やだ……やだ!」
迫ってくる男から逃れようと身をよじるも、どうにも振りほどけない。護身術を使えばいいと分かってはいるのだけど、これまで1人で人間の悪漢を相手にすることは想定していなかった。
私は人間を殴れない。変に思われるかもしれないけれど、人間は守るものとして教えられてきたのだ。もしかしたら、手加減を間違えて殺してしまうかもしれない。人殺しをするなんて、そんな恐ろしいことなど到底月之宮の陰陽師としてやってはいけないのだ。
それに、もしもそんなことをしようものなら、霊能者の私は本当のバケモノになってしまう……っ
今度こそ人間の枠から外れてしまう!
「…………ツバキ!」
助けて、ツバキ。
無心に口から出てきた名前だった。不思議と違和感はなくて、すんなり舌に馴染んだ。
「人気のないところにいこうか? お嬢様」
私は人間を傷つけたくなんかない。
無理やり引きずられて来たのは、神社の裏手からしばらく歩いた林の中だった。車に押し込められなかったことに安堵すればいいのか、それともこれから起こるであろう暴虐に恐怖すればいいのか分からない。
悲鳴を上げようとしたら、無理やり口を塞がれてしまった。手に持っていたスマホも取り上げられたけれど、パスワードの画面に舌打ちをされた。
やがて、飽きたように草むらに私のスマホが投げ捨てられる。この場での唯一の連絡手段がどこかの地面に落下した。
「これから何をしようとしてるか、分かるよね?」
幾つもの手に抑え込まれ、身動きのできない状態にされた。激しく烈火のごとく睨み付けると、相手はますます嬉しそうに上機嫌になった。
私の素肌へと、不良の手が伸びる。顔を背けると、無理やり正面を向かされた。
「……もしかして、本当に経験がない?」
舌でも嚙み切って死んでしまおうか。そんな決意すらしてしまいそうなほどにプライドを傷つけられて、屈辱的な思いになる。
「……だったら、何なのよ……」
震えた声でこう言うと、不良たちがざわめいた。「え。ちょっと待って、そんなことってあるの?」と、誰かが驚いたように告げる。
「ぜってえ遊んでると思ってた」と不良の1人に言われた。
……悪かったわね、シたことなんてないわよ。この歳になっても彼氏だって一度もできたことなんてないわよ!
涙が溢れそうになって、唇を噛みしめた。
「じゃあ、俺らが記念すべき初体験ってことなんだ?
君、知らない? 俺たち、この辺りを仕切ってるグループなんだけど、そのオンナって結構楽しいと思うよ。別に事後承諾でもかまやしないけど……できたら同意ってことにして欲しいなって」
身も凍る恐怖に短い悲鳴を上げる。
無理やり着ていた浴衣の襟元がはだけられて、レースのキャミソールが露出された。私が連れていかれるのは誰かに見られていたはずなのに、誰も助けに来てくれない。
……やっぱり、人間なんて薄情な生き物だ……。
こんな醜悪な生き物を、私は半生をかけて守ってきたのだろうか。
「東雲先輩……っ」
「だれのこと? 東雲先輩って」
「お願い、助けて……、先輩っ」
曇天の空からパラパラと雨粒が降ってくる。
涙をこぼしながら、嗚咽のように洩らしたか細い悲鳴だった。誰にも届くはずもなくて、恨みばかりを感じながらベールのような視界を閉じようとした時のことだった。
「――――八重」
低く呟かれた言葉に、私は心臓が止まるかと思った。
不良たちの背後に立っていたのは、九つの尾を持った人外の化け物だ。銀色の煙に包まれ、半透明な狐の耳が人のシルエットに付いている。白金色の髪をした青い瞳のそれは、己の愛した少女が害されようとしていたことに激怒していた。
夏の夜に、辺りの気温が上昇する。あと少しで、発火する寸前だ。
「……だ、誰だ! お前はっ!」
泡を食った不良が、私から手を離した。反射的に胸元をかくしてへたり込むと、流した涙のしょっぱい味がした。
「そんなことを貴様らが知る必要はない」
丁度手元に持っていた玩具を人外は不良に叩きつけた。勢いよく跳弾したスーパーボールは、彼らの腕に命中する。……バキ、と何人かの骨が折れたような音がした。
「……なるほど、これは意外に使える買い物だったな。貴様たちのような強姦魔には実にちょうどいい武器だ」
「まだ、そんなことはしていな……っ」
「そうする予定があったということか?」
悪寒がするほどに冷やかに、東雲先輩は悪魔のような表情を浮かべた。冷酷に響いたそのセリフに、不良たちが言い訳をしようとする。
「違う、その女から誘ってきたんだ! アンタみたいな怖い男がいるなんて知らなくて!」
「お前みたいなカスを八重から誘うわけないだろう。もしそうだとしても、そうじゃなくても選択肢は1つだけだ」
骨も残らずに燃やして殺す。八重の肌を見たその眼球をえぐりとってから殺す。
爪を尖らせた東雲先輩の語ったその意味に、不良が1人失神した。
「見ての通り、僕は人間ではなく人外のモノだ。そうしようと思えば、この世から証拠も残さずに人間を消滅させることなんて実に容易い……。
八重に手を出しておいて、朝日が拝めると思っているのか?」
助けに来てくれたはずなのに、どこからどう見ても東雲先輩の方が悪役だった。指先に灯った青い炎が、ゆらりと輝きを放つ。
凍り付いたような静寂が辺りを支配した。
「いやだ……まだ死にたくない!」
とどろいた不良の絶叫に、私は目をつむった。確かに、こいつらには恨みしかない。殺したいほどに憎いし、そうして欲しいくらいに思ってる。
……だけど、ここでそれを願ってしまったら、手を汚したのは先輩でも殺したのは私であることと変わらないのではないだろうか?
それは……っ そうしてしまったら……っ
「東雲先輩、この人たちを殺さないで下さい」
しぼり出した私の発言に、東雲先輩が氷のような視線を動かした。
「なぜですか? あんなことをしておいて、ここで手心を加えろとでも?」
「はい」
東雲先輩の伸ばした指先が、私の頬に触れる。身動きしたら、そこについた黒い爪に触れて流血沙汰になりそうだ。
さっきまでの気持ち悪い感触とは違った、私を思いやる暖かさがあった。
「ここで先輩に殺してもらったら、私はもう二度と月之宮の門をくぐることができません」
それをしてもらったら、私は人間を守護する陰陽師として失格になってしまう。
その言葉を発すると、東雲先輩は何かを考えるようなそぶりをした。
「それって……もっと皆殺しにしたくなるんですが。八重、君は僕のことをよく分かってませんね」
「ダメです」
「一瞬で終わりますよ。そうしてしまえば、八重は月之宮の陰陽師であることから離れることができるのでしょう?」
「止めてください!」
冗談じゃない。
やがて、私の本気が伝わったのだろう。東雲先輩は名残惜しそうに私の頬から指を離した。
「……では、幻術で苦しめる程度にしておきますよ。二度と安眠できないほどの悪夢と一緒に、フルボッコにしてやりましょう――」
バキバキと両手の関節を鳴らした東雲先輩は、腰を抜かした不良たちを下駄のついた足で蹴飛ばす。白灰の浴衣を纏っているのに、着崩れることを少しも恐れていない。バサリ、と青の羽織が風に舞った。
「――生涯かけて己の軽挙を悔やむがいい」
憎悪に満ちた妖狐の暴行に、不良たちの悲鳴と絶叫が夜闇をつんざいた。




