☆117 暴食は意地汚くなんかない
駐車場に停められたバスから、私たちは欠伸を噛み殺しながら地上に降りた。日差しがやたらと強烈で、目が眩みそうになりながら蕎麦屋を目指す。
ふと視線をやると、まだ眠そうにしていた鳥羽は薄く笑いながら太陽を眺めていた。その横顔が妙に印象的で、心のフィルムに焼き付きそうになる。
「……ほら、八重。寝起きだからってぼーっとしてないの。置いてっちゃうよ?」
希未に呆れたように声を掛けられて、我に返った。
「……あ、ごめんなさい」
「山崎さんの話してたその蕎麦屋って、あの建物のことだと思う?」
彼女が指をさした方向を見ると、和風の一軒家がのぼりを出していた。近くには、川の流れで回転している水車があり、田舎ならではの情緒感を醸し出している。
唐突な風が吹いて、伸びてきた私の髪をなびかせた。心地よさに眦を緩めると、白波さんが嬉しそうに笑いかけてくる。
「みんなは何を食べたい?」
「私は……、シンプルなざる蕎麦かしら」
私が答えると、希未は伸びをしながらにっと笑った。
「私は天ぷら蕎麦!」
その快活な声を聞いた鳥羽が、ボソリと呟く。
「太るぞ。栗村」
「あはははは、なーんか言ったかなぁ?」
怒った希未の視線に、鳥羽は口を閉ざした。ここで喧嘩をしても何にもならないと思ったのかもしれない。
「こーいう場面では、カロリーなんて気にしてらんないもんなの!」
「……あー、そうかよ」
それにしてもあっちいな、とのぼせた鳥羽がうめき声を出した。考えてみればそれも当然で、この天狗の髪型はポニーテールである。通気性は非常に悪いに違いない。
「確かに……、ちょっとまいっちゃうかも」
同じく長毛の白波さんが困り笑いを浮かべた。見事なカラメル色のふわふわロングヘアからのぞく首筋は汗ばんでおり、そのかかっている負担を周囲に教えてくれる。
「2人とも、髪を切っちゃえばいいんじゃない?」
私の弾き出したひどく合理的な結論に、鳥羽と白波さんは仰天した顔になる。そこまで驚かなくても、夏なんだから短くしたっていいと思う。
試しに鳥羽や白波さんの髪が短く揃えられた姿を想像してみたけれど、これはこれで普通に見栄えしそうだ。鳥羽に至っては保守的なお年寄りなどの受けも良くなるだろう。
まあ、キャラクターのビジュアル的には地味になるけど?
「ぜってえ御免だね!」
鳥羽がすごく嫌そうに鼻筋にシワを寄せた。
「そんなにその髪型に執着する理由でもあるの?」
そこまで嫌がるなんて、何か大それた動機でもあるのだろうか。男子の髪型としては異端の黒髪ポニーテールでなければならない訳とは何なのだろう。
訊ねてみると、彼は腕組みをする。
「……だって、長い方がロックでかっけえじゃん」
深い訳があると思った私が馬鹿でした。
天狗は本気でそう思っているようで、私の半目にも全く動じない。むしろ、自分と同じように髪を伸ばさない世の中の男性諸君は遅れているとでも言いそうだ。
そんなわけあるか。
「か、か、髪を切るのは……。ごめんなさい、これが無いと私、不安になっちゃって……そんな勇気、とてもないというか……」
白波さんはぷるぷる震えながら、何故か私に謝ってきた。
「ああ、ごめんなさい。深い意味はない発言だから、気にしないで」
私が苦笑すると、明らかに白波さんはホッとした。
「いっそのこと、白波ちゃんは髪を結んじゃえばいいんじゃないかな~? ほら、私みたいなツインテールにすれば涼しいよ?」
爽やかな希未の提案に、白波さんが真顔になる。
「えっと……、その、髪型が栗村さんとダブってしまいます、よ?」
いつかの希未の言葉が残っていたらしい。
「こんだけふわふわしてれば、そこまで似ないって! 髪の色だって私は茶髪だけど、白波ちゃんは焦げ茶だし!」
どの口がそれを言うという感じだけど、白波さんの髪の色は焦げ茶というよりは、もう少し明るくないかしら?
私が首を傾げると、白波さんは希未のセリフに相好を緩めた。
「じゃ、じゃあ……後でそうしてみようかな。えへへ」
そんな会話をしていた私たちに、案内で先行していた山崎さんが汗をにじませながら声を張り上げた。
「皆さん盛り上がっているところ悪いですが、着きましたよ! 蓮華庵です!」
目の前にあるのは、暖簾の下がった軒先だった。
「へーえ、小奇麗な蕎麦屋だね。もっと汚いのを想像していたんだけど……」
松葉が洩らした言葉に、山崎さんが満面の笑顔になる。
「そうでしょう、そうでしょう」
「でも、味が伴わなくちゃ意味がないし? ま、そこまで期待もしてないけどさ」
思わず手が出た。
反射的に松葉の頭を張り倒すと、手のひらには結構な衝撃が伝わる。……しまった。このカワウソの問題だらけな脳細胞に更なるダメージを与えてしまったかもしれない。
「……こういうところで、そーいうことは云わないの!」
口に濁しまくりの叱責だったけれど、どうやら松葉にはそれで通じたらしい。ガクガク頭を縦に振っている。
「さて。入ってもいいですか?」
冷やかな空気を発している東雲先輩が、松葉の足をきつく踏みながら笑った。山崎さんが頷くと、彼は爽やかに暖簾をくぐって店内にいなくなった。
私も後に続くと、木造建築ならではの木の香りがした空間に足を踏み入れた。使い込まれたテーブルは磨かれた跡があり、メニューの貼り紙はそれなりに経年劣化している。
壁に飾られている大きな額縁には、近隣の山々の写真があった。
最近の店ではない。どことなくレトロな雰囲気。
すん、とお店の匂いを吸い込むと、その酸素は肺から全身の細胞に供給されていく。
「いらっしゃいませ」
歳をとった男性の店員が、にこやかに微笑んだ。その口角にシワが寄る。
「お好きな席にどうぞ」
意外と他に客はいなかった。
みんなで顔を見合わせ、テーブル席にバラバラに座る。私の正面に座った東雲先輩と目が合って、ちょっと恥ずかしくなった。
「この辺りの水は美味しいですね」
お冷に口をつけた東雲先輩にそう言われて、私も自分のコップに口づける。まろやかな口当たりの水が乾いた喉から染み渡って、たまらなく美味しかった。
「ええ」
「消毒の香りがしません。水が綺麗だから、きっと蕎麦も旨いと思いますよ」
ティーバッグで誤魔化した部室のお茶とは大違いだ。いくら白波さんの愛情がこもっているといっても、雲泥の差である。
なんだろう、この落ち着かない感じ。
どこかそわそわして……、緊張する。
メニューを眺め始めた東雲先輩は、にこりと微笑った。見抜かれている……のかな?
私は口を引き結んで、知らんぷりをする。愛想がなくても先輩は怒らない。
「いやあ、やはりざる蕎麦ですかね。とろろもつくと、尚いいでしょう」
私の隣に座った山崎さんが蛍御前にこう言った。その向かいにいる神龍も大仰に頷く。
「そなたは分かっておるの。……じゃが、この鴨南蛮も美味そうじゃのう。とてもこの甘美な誘惑には抗えん」
「ああ、鴨ですか。でしたら、きっと鴨焼きも美味しいですよ。お嬢様も食べたくありませんか?」
不意に声を掛けられて、戸惑う。
「え、ええ……。そうね、じゃあそれもお願いしようかしら」
タンパク質は好きだ。
私がそう返事をすると、別のテーブル席に座っていた白波さんが怯えた表情になった。
「か、鴨って……。かもって書いてあります! 鳥羽君!」
「お前、食ったことねーの?」
「かもってあの可愛い水鳥のことですよね!? た、食べちゃうんですか!?」
「ああ……。けっこううめーけど? 俺は頼もうかな」
白波さんがみるみる涙目になった。
私はフランス料理などで食べたことがあるけれど、白波さんには刺激が強かったのかもしれない。
「頼むのよそうかしら……」
私の腰が引き気味になると、東雲先輩がにっこり笑った。
「いえ、八重が遠慮することはありません。これも社会勉強になりますから」
蛍御前も、ヨダレを拭いながらこう言った。
「そうじゃ。あの小娘に遠慮することなどない! 我らは鴨焼きを二皿頼もうぞ、山崎!」
「まあ、白波さんには可哀そうですけどいつか通る道ですからねえ……、蛍ちゃんの云う通りにしましょうか、お嬢様」
それでいいのだろうか。
感じやすい白波さんは耳を塞いでうずくまっているのだけど。
躊躇っている私をよそに、みんなは鬼となって鴨焼きと蕎麦を注文してしまった。
「……お、美味しかったです。鴨焼き……」
食後に放心状態となった白波さんに、鳥羽がそれ見たことかと眼差しを向けた。
結局、みんなの勧めに抗い切れずに怖々口にした鴨は、彼女の舌に合ったようだ。けれど、良心は疼くようでひどく葛藤している姿がある。
「だから旨いって云っただろ」
「そうですけど……、そうなんですけど! やっぱり可哀そうっていうか!」
そう言った白波さんに、松葉が鼻で笑った。
「とんだ偽善者だね。じゃあ、普段食べてる牛や豚は可哀そうじゃないって云うのさ?」
「か、可哀そうです……」
顔色が悪くなった白波さんを、鳥羽がこづく。
「んなこと、気にしてたら生きてかれねーだろ。旨かったんなら、それでいいじゃねえか」
「そうよ。美味しく食べられたのなら、充分弔いになってるわ。残さなかったんだからいいじゃない」
私もそう言うと、白波さんがへにょりと口を曲げる。
「――月之宮さあん!」
まあ、私も結局いただいたんですけどね。鴨焼き。
飛び込んできた白波さんの背中をさすっていると、無表情になった鳥羽が顔を逸らした。




