☆106 落ちていった瞬間
「いらっしゃいませ!」
一歩店内に入るなり、執事服を着た男のウエイターが微笑んだ。居心地のよさそうな店内には木調の家具で整えられていて、エアコンによって気温が外よりも低めに設定されていた。日向を歩いてきたせいで汗ばんだ身体がすっと涼しくなる。会計のレジの向こうには、銀盆に乗った色とりどりのご馳走が迫力満点に並んでいた。
白波さんは慌てて猫耳カチューシャを外す。
「9名でお願いします」
東雲先輩が落ち着いた笑みを返すと、
「お一人様あて税込み86400円になりますがよろしいでしょうか?」とウエイターが訊ね返してきた。白波さんが頬を引きつらせたけれど、口は挟まない。この金額を聞いて遠野さんも放心状態になっている。
「……なんだか、私って、……場違い?」
ポツリと彼女が怖々呟いた。
確かに高所得者の客で埋まっているテーブル席を見ると、大体が少し改まった服装をされている方たちが多い。カジュアルウエアの高校生が入るには浮きそうな空気が漂っている。けれど、そんな中でも東雲先輩や鳥羽はさまになっているから不思議だ。
「はい、大丈夫です」
動揺しているメンバーもいるようだけど、ここで騒いでいてはみっともない。私ははっきりとそう答えた。財布を取り出して、まとめて全員分のお会計をしてしまおうと思う。ここは私のおごりだ。
「……あれ、そのリストバンド……。もしかしてプレミアチケットをお持ちのお客様ですか?」
口を開こうとした瞬間に、ウエイターさんが驚きの表情を浮かべた。
「まあ、そうですね」
東雲先輩が苦笑いすると、ウエイターは何かを思慮するように沈黙した後、なんとこう云いだした。
「……でしたら、この遊園地のオーナーからお金をいただくことはできませんね。皆さま、当店の代金は必要ありません。どうぞお好きなだけ召し上がっていって下さい」
綺麗なスマイルを向けられて、私は驚きに思考が停止した。取り出そうとした財布を慌ててしまっていると、白波さんが無邪気に笑った。
「本当にいいんですか!?」
「勿論ですとも。ところで僭越ながらお尋ねしたいのですが、お客様の中でオーナー関係者の方はどなたですか?」
希未が気まずくなっている私に向かって指をさす。ちょっと、前に押し出さないでよ……。
「ああ、そちらのお嬢様でしたか、初めまして」
「……はい。月之宮八重と申します」
「重ね重ねいつもお世話になっております。ウエイターの五條です。つい最近も日之宮家のご令嬢が来店されたばかりなんですよ……。本日はお友達と一緒のご来店でしょうか?」
奈々子もここに来たのか。
私が首肯すると、ウエイターは手のひらを店内に向けた。
「それはいいですね。羨ましい限りです。……皆さま、お好きな席をお使い下さい」
広々とした空間に、高級そうな椅子とテーブルが並んでいる。クラシック音楽が自動鍵盤のピアノから流れ、その近くには観葉植物と薔薇が飾られている。
「さあ、食べるぞ~!」
希未が腕をまくり上げる動作をして、早速喜々として食べ物をとりに行った。白波さんもレストランに感動しながら、私の傍にぴったり貼りつく。
「月之宮さん! なんかすごく高いものばかり並んでるように見えるんだけど、あの黒い粒々ってなんていうんだっけ……」
「あれなら……キャビアだと思うわよ?」
「キャビアってあんなに山盛りになってるものだっけ!?」
黒々と盛られたキャビアを見つけて、白波さんが目を見開いていた。普通は少量だけで楽しむものだけど、ここでは大盤振る舞いに皿に盛りつけられている。
それを言うなら、多分あのステーキはどこかの和牛だろうし、添えに使われているのはトリュフだろう。新鮮な海鮮のお寿司だってあるし、きらびやかなケーキ類だってある。
サラダだって、取り放題だ。
「どうしよう……、こんな贅沢な食事をしちゃったら、運を使い果たしちゃうかもしれない……」
そのわりには白波さんはとても嬉しそうだ。
彼女が銀盆に乗っている料理の1つ1つに興奮するのに付き合いながらも、私はとりあえずレタスやロケットのサラダと生パスタとローストビーフをプレートに持った。
「お前、それっぽっちしかとってねーのかよ」
後からテーブルに戻ってきた鳥羽が呆れた目を寄越す。天狗の持っているプレートにはお肉ばかりが並んでいた。
「私は少しずつ食べるって決めてるのよ」
それに、食事は野菜から食べないと贅肉になりやすいって聞いたことがあるし。
「財閥令嬢のくせに貧乏くせーな。どうせここまで来たんだから、もっと豪快に楽しもうぜ。白波は……、おい、ケーキしかとってきてないのか」
スイーツを堪能していた白波さんが、少し警戒した顔になる。
「こ、これはとっちゃダメなんだからね! 欲しいんだったら、自分でとってきてよ!」
「誰がお前の分を横取りするかよ」
胡桃を抱えたリスのようになっている白波さんに、鳥羽がケッと笑い飛ばした。 そのまま彼はお肉を咀嚼するのに夢中になる。
「ふにゃ~、まったりとろけて、甘みがくどくなくて……!」
喜色満面な白波さんも濃厚プリンに魂が昇天しかかっている。他のメンバーはどうしているのかと思ったら、視界の奥で松葉が蛍御前に付きまとわれてウザそうにしているのが映った。どうやらお守り係になっているらしい。
「この席、いいですか?」
誰かと思ったら、プレートを持った東雲先輩だった。彼のとってきたメニューは、鶏肉やお寿司やローストビーフだった。トリュフもとってきている。
私の返事を聞かない間に対面の椅子に座った彼は、美しい所作でフォークをとった。
「まあ、僕らアヤカシに必要な食事量は極めて少ないのですが、一応味覚はありますからね。折角なのでこんなものを選んでみました」
「そうですか」
「豪華な食事に慣れてる月之宮家のご令嬢から見て、この店はいかがですか?」
「えっと……。このバイキングの内容なら、比較的良心的な価格かもしれないなって……」
私の返事に、東雲先輩は面白そうな顔をした。
「やっぱり君はお姫様だな。ああ、けなすつもりはないんですが、こういう場所に来ると育ちの差がよく表れる」
東雲先輩の意味深なセリフを、私は無言でスルーする。
実際のところ、キャビアも黒毛和牛も私にとって珍しい食材というわけではない。パーティーに行けばありふれた食べ物だし、よく贈答品で送られてくるからだ。
それをひけらかすのは粗野だと思うから話題に出さないのだけど、隠しきれていると思っていただけに少し動揺してしまった。
息を吸いこんで、緊張しながら席を立つ。口角を上げた東雲先輩の視線をふりきるように、飲み物をとりに向かった。
ライチのすっきりしたサワードリンクをコップに注いでもらうと、複雑な思いでテーブルに戻ろうとした、その時だった。
頭の中で、シャランと鈴の音が鳴ったのは。
身体が強張り、態勢が崩れる。手に持ったドリンク入りのコップが指から滑り落ちていくのがスローモーションに視界に入った。その一瞬に――、
小さな子供の嘲るような声がまざまざと再生された。
シャラン、シャラン……シャラン。
かつて【少女】は盗み聞きするつもりなんてなかった。
ただ偶然に、小学校の階段で行われていた会話に、人知れず遭遇してしまっただけだった。
そこに忍ぶように集まっていた子どもたちは、少し裕福な家庭に生まれ育っていたけれど、一般的には庶民の範囲に収まる人間たちだ。
『――いいなあ、月之宮財閥のごれーじょーと仲がいいなんて』
自分の話題だということに気が付いて、階段の曲がり角にいた【少女】は身を隠した。そのまま、じっと我慢強く聞き耳を立てていると、こんな得意そうな声がしたのだ。
『ふふん。いいでしょう』
その声の主は、最近【少女】の友達になった人物だ。ついこの間もねだられて一緒に買い物に出かけたばかりだったから、心臓がドキリとした。
『これも、これも、これだってみんなやえちゃんに買わせたわ。欲しいって云えばアイツは何だってあたしに買ってくれるの』
少女の友達が学校で見せびらかしているのは、なんと量販店で購入したゲームのソフトの数々だった。お金を出したのは少女だ。その他にもお洋服やバッグを沢山プレゼントさせられていた少女は息をひそめながらも硬直した。
『いいなあー。どうやって近づいたの?』
感嘆した他の子どもに、少女の友達はニンマリと笑う。
『やえちゃんって、子どもなのにブラックカード持ってるの。
近づくのなんて簡単よ……ちょっと優しくして、あたしたち親友だねって笑いかければアイツはバカな金づるになるって。保証する』
今度はベネトンのミニスカートでも買わせようかな、と少女の友達は舌で唇を舐めた。その言葉を聞いた他の子どもらが歓声を上げる。「あたしたちも紹介して」と誰かがねだると、みんな一斉に騒ぎ立てた。
『別にいいけど? やえちゃんってホントお人好しバカだし、みんなだってすぐにこれぐらいできるようになるって』
少女の友達の気軽そうな言葉に、誰かが質問をした。
『ねえ、やえちゃんのことは親友だって思ってるの?』
それは少女が最も聞きたかったことだ。これだけ物を買ってあげたのだから、きっとそうだと言ってもらえるのだと信じたかった。だって、あの子は買い物をしてる最中は少女のことを一番の親友だと喋っていたのだ。
『――そんなわけねーよ。あたしは、アイツがお金持ちだから優しくしてやってるだけ。話してる内容だってつまんないしね』
聞こえてきた酷薄な言葉に、嗚咽が漏れそうになって口を手で塞いだ。
ぽろぽろと涙がショックで零れてくる。顔が引きつりながらも聞き耳を立てていたことを勘づかれたくなくて、その場から離れて女子トイレに駆け込んだ。
幼い少女は心が焼けるような思いがして、流れてくる涙をぬぐった。
どうして、どうして――――?
シャラン。
――視界が真っ白になるかと思った。
今の記憶はいつのものだろう……?
苦々しい感情と共に、床を見ると、そこでは割れたコップからドリンクがぶちまけられた状態だった。
「…………あ……、」
これはどうしよう。ガラスの破片と共に水たまりができている。
無意識のうちに片づけようとしたけれど、これは私にはどうしようもないかもしれない。
こんな高級レストランでなんてことを。と顔色がなくなってしまったけれど、衝撃音に振り返ったウェイターが大慌てでこちらにとんできた。
「お客様、危険ですので触らないようにしてください!」
「あー……、はは」
警告があったのは、拾い上げようとしたガラスでとっくに指を浅く切った後だった。それを力なく笑いながら見せると、やって来た東雲先輩が怖い顔になる。
「どうしたんですか、八重」
「ごめんなさい、立ちくらみで……」
血が滲んだ指先は、東雲先輩がハンカチで包んでくれた。戸惑いながらも床を見ると、「私どもで片付けますので、お客さまは傷の手当てをなさってください」と五條さんに強く言われてしまった。ああああ……御免なさい。
こんな傷なんて大したことがないと主張したかったのだけど、東雲先輩に強引にバックヤードまで引っ張っていかれた。スタッフルームで水道を借りると、消毒をされてバンソーコーを巻かれる。逐一丁寧に東雲先輩に世話されてしまった。
「これぐらい、大丈夫なのに……」
治療されながら私が呟くと、
「自分のことに無頓着なのも大概にして下さい」と東雲先輩に物憂げなため息をつかれた。
強がりなんかじゃないのに。
怖々と東雲先輩の様子を伺うと、相手は不機嫌そうにしていた。
……なんだかもう、食欲がなくなっちゃったな。
レストランの方にしばらくしてから戻ると、コップの破片はもう片付けられていた。ウェイターさんたちを恐る恐る見ると、優しく微笑まれる。
ありがとうございます。
「八重さま、大丈夫?」
駆け寄ってきた松葉に両手を握られた。希未も近くで気遣わしげな顔をしている。
「……ええ」
「くっ! 邪魔をしてくる蛍御前さえいなければ、式妖のボクが手当てしてあげたのに!」
松葉は東雲先輩の方を睨んでいる。彼に付きまとっていたという蛍御前は、どこか満足気に東雲先輩と私をチラチラ見ている。
「ほれほれ、松葉は八重の邪魔をするでない。この様子では八重はまだ昼食を終えてないじゃろ」
蛍御前の叱責を受けて、松葉は東雲先輩をドつくように押しのけて笑顔になった。
「八重さま、何か食べたいものある? あ、ケーキとかどう? シュークリームとか美味しかったし!」
「いきなり突き飛ばした僕への謝罪はないのか……っ」
「八重さまに付きまとう犬畜生に謝る必要なんてないよね?」
松葉が黒く笑った。それに対し、東雲先輩は眉をぴくりと動かす。この2人の仲が悪いのは相変わらずだ。
それに形容のできない表情を返すと、松葉は食欲のない私の手を引いてケーキコーナーに連れて行った。促されるままに苺のムースとシュークリーム、あとはジェラートを皿に盛りつけると、拙くもテーブルで口に運んだ。
気もそぞろな私のことを白波さんが心配してくれたけど、きまりの悪い思いになっただけだった。いっそ、鳥羽や希未のように笑い飛ばしてくれた方がマシだ。
昼食を食べ終わった後にはみんなでアトラクションを巡ることになったのだけれど、どこか思考の片隅で説明のつかない不安が曇天のように私の心へ影を落とした。先ほど思い出してしまった嫌な記憶が、白波さんへの警戒心を生んでいるのだ。
どうして今まで忘れることができていたのだろう。
あの記憶は、私が現在の褪めた性格になった原因の一端であったはずだ。もう二度と普通の人間の友達を信用したくないと考えてしまったぐらいに強烈な裏切りの経験は、人がお金によって豹変してしまうことの学習でもあった。
……ん? あれ? ……普通の人間の友達を信用したくないと思った?
何か重要なことに辿りつきそうで、それが何なのか掴めないもどかしさがある。あとちょっとで大切な記憶を思い出しそうなんだけど……。




