☆96 神龍の留守番
帰宅する頃、辺りは夕暮れになっていた。
「おお、ようやく帰ってきたか」
自宅の前で軽自動車から降りた私に抱き付いてきたのは、水色の髪が編み込まれた蛍御前だった。電車通学の松葉は後から戻ることになるだろう。
彼女の髪にとめられていたのは星型のパッチン止めで、私たちの留守中にどうやら母にとても可愛がられていたらしい。
「……まあ、はい」
「学校で倒れたと電話で聞かされた時には驚いたぞ。日頃からの鍛錬が足りないからそうなるのじゃ」
「…………はぁ」
ストレスの大元が何を言う。胃なんか内臓なんだから鍛えようもないじゃないか。
数々の文句をぶつけてやりたい気持ちがせり上がってきたけれど、私はそれをぐっと堪えた。なるべく儚く微笑む。
ここで喧嘩でもしたら、全てがお終いだ。
「ふふっ 妾なぞ、ここ50年は風邪などひいたことがないぞ」
「……そりゃあ、蛍御前とは種族から違いますから」
あ、しまった。気を付けなければと思った端から口答えをしてしまった。
けれど、このこと自体には神龍は大して気にもとめていないようで、むしろ私の受け答えを面白く感じたらしい。金色の目を輝かせた。
「種族から、のう。まあ、妾はそこらの人間とは違う高貴な生まれであるからの。そなたは少々自分のことに無頓着すぎるのではないか?」
勝手に納得した蛍御前は、腰に手を当てて前のめりになった。そして、こう続けて言う。
「のう。八重。降りかかった辛いことに耐えることばかりが良いことだとは思わん。じゃが、どんなに回避しようとしても避けて通れない出会いや別れ、災難というものは必ずあるものじゃ。全てが上手くいくことなど本来あり得ないのじゃから……」
聞き流そうとしていた私の心がきしむのが分かった。心当たりなんかないはずなのに、心臓がドクンドクンと鼓動を刻んでいく。
私は何も覚えていない。なのに、どうしてこんなに嫌な言葉に聞こえてしまうんだろう?
記憶の片隅で、シャラン、と鈴の鳴る音が聞こえた気がして――ぼうっと立ち尽くしてしまった私の顔を蛍御前は気づかわしげに覗き込んだ。
「……どうしたのじゃ?八重」
「――――っ なんでもないです。……本当に、気にしないで下さい」
びっくりした。流れる時間が凍り付いたように止まったかと思った。目の前のあどけない顔をした神龍は、理知的な表情で首を傾げた。
「まあ、今のそなたに理解できなくとも良い。年長者の言葉などそんなものじゃ」
どこか諦めを含んだ突き放すセリフだった。私の胸はぎゅっと掴まれた感覚がして、どうしてかもの悲しくなった。
ポン、と蛍御前は私の肩を叩いた。
そこでなんとか平静を取り戻そうとした私は、今日の学校でみんなと話し合って決めたことを喋ることにした。
「あの……、蛍御前。良かったらなんだけど、そんなに退屈を持て余すようだったら、夏休みの最初の日に我が家が運営している遊園地へ出かけませんか?」
「遊園地、じゃと?」
玄関をくぐろうとしていた蛍御前の動きが停止した。ゆっくりとこちらに振り向くその顔は、喜色満面といった感じだ。
「それは真か? 嘘をついているとしたら承知しないぞ、八重!」
「は、はい。本当です。嘘なんて欠片も考えていません」
私の返事を聞いた蛍御前はガッツポーズをした。髪の毛先は嬉しそうに跳ねて、もう見るからに喜んでいるのが丸わかりだった。
ひしひしと伝わってきすぎて、私の方が若干引いてるかもしれない。
「妾のう、生まれてこの方遊園地には行ったことがないのじゃ。神使と出かけても何故かいつも入口で返されてしまってのう」
下唇を突きだした蛍御前は首を捻っているけれど、私には何故遊園地に入れないのかがなんとなく分かった。大方、この奇抜な恰好と保護者の姿がなかったのが原因だろう。
「お得意の催眠術はかけたりしなかったんですか?」
「それで通れるならとっくにやっておる。そんな小技を使う前に強引に追い返されたわ」
水渡りで入るには躊躇われてのう……。入場料が足りなかったのが原因かのう。と、蛍御前はぶつぶつ呟いている。ちょっと待って、それじゃ入れないのも当然だから。
「……あの、蛍御前ってお金とかは普段どうやって手に入れてるんですか?」
「たまにくる賽銭じゃの」
「霊能力者に髪の毛とかを売ったりとかは……」
「そんなことをしたら、妾の神子が量産されてしまうぞ。そのような無責任なことはできん」
私は天を仰ぎたくなった。
「後学のためにお聞きしたいんですけど、神子になる条件って、何なんですか?」
「神の一部を喰らうことじゃ。それは肉体の欠片でも、血の一滴でも良いが……一番危険なのは名を渡すことじゃの。その神の全権が移譲されてしまうのでな」
「名を……渡す……」
あれ?記憶に微かに引っかかるものがあるんだけど。東雲先輩、確か知り合いの神様の名前が奪われたとかって言ってなかったっけ?
「あの、全権って具体的には……」
「そんなもの、神格によって様々じゃ。名を奪われたら神としての存在意義が消滅してしまうことは確かじゃな。
妾の場合は髪の毛一筋程度なら、多少寿命が延びる程度じゃし、血にはそれに加えて傷口の回復能力がある。龍は昔から希少素材の代名詞じゃ。旨みを覚えた人間に殺された龍の話など腐るほどあるわい」
――寒気がした。あの時の東雲先輩が桜を見ながら語ったことは、考えていたよりも大事であったということだ。神としての存在意義が無くなってしまうということは、その名前を盗まれた子はもう死んだも同然の目にあっているんじゃないか?
それと同時に、白波さんがどうやってフラグメントになったのか、という謎が更に増していく。神様の知り合いもいないようだし、最近まで裏業界に関わった訳でもない。
植物を操る能力のことも最近まで気付いてなかったみたいだし……。
そこで、私は遂に東雲先輩が語っていた神名泥棒は白波さんと関わりがあるのではないか?と疑惑を抱いた。あの妖狐は白波さんに執着しているようだったし、植物の神様なら境内の桜が恋をするのも納得がいく。
……いやいや、まさかね。白波さんにそんな大それたことができるわけがない。これは侮っているのではなく、彼女の純粋さを知っているからそう思うのだ。
神様から名前を盗んでフラグメントになるなんて悪どいことを白波さんが計画するわけがない。一応、体面としては友達になったんだから、私は信じてあげないと。
「あの……実は、私の友人にフラグメントの子が1人居るんですけど」
友人、という言葉だけでむずがゆい。私がそう白状すると、蛍御前は眉を上げた。
「……ほう。それは珍しいのう」
「その子、事情を聞いても自分がいつフラグメントになったのかも分かってなくって、そういうことってよくあることなのかなって……」
「それは無いの。八重、神子というものは、いわば眷属と同様。よほど神に愛された者しか本来ならないものじゃ。人とはかけ離れた寿命を持つ神が、お気に入りの人間と長い時を共に歩むために施す処置じゃ――中には、強欲にも人を超えた力を望む者が無理やり神の欠片を奪っていくこともあるがの」
「じゃあ……」
「考えられる可能性はないこともないが……、そなたにそれを話すのは止めておこう。曖昧な推測で混乱させてしまっては気の毒じゃ。それにしても、そなたの友人にフラグメント、のう……これはもしかしたらもしかするかもしれんの」
そこまで喋った蛍御前は、満面の笑みを浮かべた。今までの一線を引いた笑顔と違って、それを超えた親しさがこもっている。突然に愛想の良くなった神龍に戸惑っていると、彼女は機嫌よく私の手をとった。
「遊園地に行く時には、その友人も連れてくるが良かろう。妾も会ってみたくなったわ」
「まあ……元からその予定ではありますけど」
事情を説明しなくてはいけなかったとはいえ、蛍御前の関心を引いた白波さんが哀れに思えた。人外ばかりを惹きつけるのは、ヒロインだからしょうがないんだろうか。
アーメン。
「楽しみじゃのう……待ちきれんわ」
ウキウキしだした蛍御前は玄関で下駄を脱いで、我が家に上がっていく。その背中を追いかけながら、私は意外と貧乏暮らしをしていそうなこの神様に訊ねた。
「そういえば、今日は何をやっていたんですか?」
リビングのソファーに座った蛍御前は、真顔になった。
「この家の使用人たちとババ抜き大会じゃ。妾はこれまで全敗中じゃが、全然これっぽっちも悔しくなどない!」
全身をぷるぷる震わせながら言われても説得力がない。まあ、この神龍の表情はとても分かりやすそうだもんな……と思ったところで二階に上ろうとしたところで、彼女に引き留められた。どうやら、そのババ抜き大会に参加しなくてはならないらしい。
「妾が勝てるまでやるのじゃ!」と宣言された結果、帰ってきた松葉も巻き込まれてこの日は深夜までトランプをやっている羽目になった。
その結果、蛍御前が勝利を手に入れることができたかどうかは、神のみぞ知るということで問題ないだろう。




