第8話 過去にさようなら
自室に戻ったエリーヌは自分の高鳴った鼓動を抑えるのに必死だった。
アンリの端正な顔立ちと甘く低い声、そして妖艶なほどの誘惑するような仕草と台詞に心をかき乱されていた。
(毎日あんな風に近づいて甘い言葉を言われたら、私の心臓がもたない……!)
ゼシフィードの婚約者であった時期は2年ほどで、甘い雰囲気になることも少なくはなかった。
だがしかし、アンリには大人の余裕のようなまた違った気配が感じられた。
しばらく恋はいいか、とさえ思っていたエリーヌだったが、さすがに意識せざるを得ない。
(人間として嫌われてはいないようだけど……)
もらったネックレスに触れてみると、先程のシーンが思い出された。
「──っ!!」
(アンリ様って意外と女慣れしている? 軟派な性格なのかしら?)
──エリーヌは夫に一目惚れされているとまだ気づかずにいた。
アンリに贈り物を届けた後、夕食までは少し時間があったため、実家から持ってきていた日記を開いて今日の分を書き始めていた。
元は就寝前に書いていたのだが、どうしてもその時の新鮮な感情や思いが夜にまとめて書くと薄れてしまうと思ったため、近頃は都度都度気づいた時に書くようにしている。
(ルジュアル細工やお店のことも書いて……それから、アンリ様とのことも……)
お気に入りの藍色のペンを手に取ると、ノートにさらさらと書き記していく。
ルジュアル細工の感動、町への訪問について、思ったことを細かく記していった。
すると書いているうちに何か紙に凹凸があって書きづらいことに気づく。
ページをめくってみると、そこには猫が刻まれた木の栞があった。
(あ……)
それは元婚約者であるゼシフィードから贈られたものだった。
『これは……?』
『君はいつも日記を書いているだろう? それに公演などの移動時間も多い。本を読むときとかに使ってほしい』
『まあっ! 嬉しいです!』
『気に入ってくれたかい?』
『ええ、もちろんです! 猫ちゃん可愛いですね』
『ああ、君は猫みたいに愛らしいからね。君にぴったりだと思って』
『ありがとうございます。嬉しいです!』
今となっては昔のこととなった記憶を思い出してその栞を手に取ってみる。
使い込まれたそれは丁寧に使っていたおかげで、新品のように美しかった。
(ゼシフィード様……)
最後に見た顔が今もこびりついて離れない。
あの軽蔑するような瞳は、エリーヌの心を打ち砕くのに十分だった。
(もうやめましょう、思い出すのは……)
その栞に罪はないと思いながらも、過去を忘れるために、そして新しい一歩を踏み出すために別れを告げることにした。
(ごめんなさい、あなたが悪いわけではないのだけど、もうあなたを使うことはできないの)
そう言ってエリーヌはゴミ箱にそっと優しく置く様に捨てた。
そうして、パラパラとめくりながら過去の日記のページに目を移してみる。
思い切って彼女は数十枚の日記のページをめくって捨てた。
(さようなら)
そう心で呟いて夕食の席へと向かった──
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栞はついつい買ってしまいます。
そしてどの本に挟んだかわからなくなります……。




