42.旅立ち
アリゼとルデュック伯の荷物が二台目の馬車に載せられていく。そうは言っても殆どがアリゼの物だ。
二人が乗るのはピジエ家から贈られた馬車である。長距離の走行に適している。
ルネ専用馬車のソファをアリゼがとても気に入っていた様子から、ピジエ家から贈られた新品の馬車だ。四頭の馬まで付いてきた。
あまりの立派さに受け取るのが躊躇われたが、将来的に息子も使うものだからと子爵に言われて受け取った。
長期間になる為、アリゼの侍女も二人付いて行く。
ルデュック伯、アリゼ、侍女の荷物が運び込まれていく間、ルネは寂しそうな表情を隠そうともせず、アリゼの側にいた。
離れ離れになる婚約者の心情を察して、サロンに二人きりだった。一応ドアは半開きになっているし、侍女も部屋の外に待機してはいる。
「そんな顔をされたら、ここを離れ難くなるわ」
「うん、ごめんね」
アリゼが何を思って領地に長期間滞在するのかを、彼女自身から説明されてルネは知っている。
ルネは自分の不甲斐なさがアリゼにそうさせる部分はあるだろうと思っている。
けれど、それ以上にアリゼが自分との未来を見据えて領地に取り組もうとしている事も知っている。
己の非力さが情けなく、アリゼが自分を想ってくれて行動してくれている事が嬉しく、離れて過ごす事が寂しくて堪らない。
「アリゼが旅立ったら我慢する」
「笑顔で見送ってくれないの?」
「笑顔で見送りたいんだけど、上手く笑えなくて……」
そう言って自分の頰を両手で押さえるルネに、アリゼは笑った。愛しいと言う感情が湧いてくる。
尽きる事なく、己の胸の内から湧いてくる感情。
「貴族たるもの、感情を表に出してはならないのよ?」
茶化すように言うアリゼに、ルネは申し訳なさそうな顔をする。
「鍛えます……」
自分で決めた事なのに、アリゼ自身寂しさを感じ、不安にかられていた。
ルネとこれだけ長期間離れるのは初めてである。
自分がいない間に他の令嬢が彼に近寄るのは想像に難くない。彼の気持ちが自分から離れたら……そう思うだけで胸が痛む。
婚姻が結ばれるまで、もしかしたら婚姻を結んだ後も不安を抱き続けるかも知れない。
けれどそれも、アリゼがルネを好きだから。
ただの政略結婚で、気持ちを通い合わせていなかったらこのような不安は抱かなかっただろう。
アリゼはルネの気持ちを自分に繋ぎ止めておける自信がない。だからこそ不安になる。
好きだから不安になる。信じているが、信じきれないのは己に自信を持てないから。
もし距離が離れた事でルネの気持ちが離れてしまったなら、取り戻す為の努力をしようと決めている。
ルネはアリゼを想い続けてくれた。振り向かせる為に努力するとも言ってくれたのだ。
自分だけがそれを当たり前に享受するのは違うと思ったのだ。アリゼもルネを好きなのだから。ルネを失わない為の努力をしたい。
「手紙、書いても良い?」
「勿論よ。私も書くわ」
ルネからの手紙はきっとアリゼの寂しさや不安を癒すだろう。同じようにアリゼの手紙もルネを癒すに違いなかった。
「アリゼの返事を待たずに次の手紙を書いてしまうかも」
その言葉にアリゼは困った顔をする。ルネが慌てて謝罪しようとすると、頰を赤らめたアリゼが言った。
「あまり、私を喜ばせないで」
ルネとしては何気なくこぼした本音で、アリゼの気分を害してしまうかも知れないと思ったのに、彼女も自分と離れる事を寂しく思ってくれているのだと知って、ルネの頰もうっすらと赤く染まった。
「次に会った時に、アリゼを驚かせる程に成長していたいって思うのに、ずっと会えないでいられる自信がないよ」
「もう」
抗議するようにルネを見る。
ルネの顔は少し赤いままではあるものの、笑顔だった。
「上手い言葉が出てこないし、時間がないから言いたい言葉だけ、言うね」
「えぇ」
気をつけて、頑張ってね、そんな言葉が出るのかと思っていたアリゼの耳に、全く予想もしなかった言葉が届く。
「アリゼが好きだよ」
唐突に言われた愛の言葉にアリゼの胸は甘く痛む。
「どんなアリゼでも、好き」
「……ルネ」
「何度も諦めようと思ったけど、出来なかった。アリゼの事だけは諦めきれなかった」
収穫祭の詩吟の会でも、ルネは想いを詩に託して届けてくれた。
「アリゼの側にいられるようになって、凄く自分が我が儘になってるのが、分かる」
どちらからだったのか、自然と繋がれた手に力がこもる。
「きっと今、我慢する時なんだって思う。
アリゼとこの先も一緒にいたいなら、今我慢して、もっと頑張らなきゃいけないんだろうなって」
「ルネ……」
俯いていた顔を上げて、ルネはアリゼを見た。
「寂しいし、行かないで欲しい。付いて行きたい。
でも、我慢する」
耐えるように口元を引き締めたルネに、アリゼは頷いた。
「私も、会えないのを、我慢するわ」
笑顔を向けるアリゼの顔にルネの顔が近付いて、頰に柔らかな口付けが落とされた。
ルネの顔が離れても、触れた部分が、自分のものではなくなったような感覚がした。
「好きだよ、アリゼ。大好き」
「私もよ」
お互いが同じ気持ちである事を確かめ合えて、二人は少しだけ満足した。
こんなにも想い合っているのに離れる事になるのは、やはり言葉にならない寂しさがあり、この気持ちだけは消せそうにない。
それでも、取り止める気は無かった。
準備が整い、馬車に乗り込んだアリゼは窓からルネを見る。その様子にルデュック夫人は呆れたように言う。
「まるで今生の別れのようだわ」
母親の言葉に恥ずかしくはなったものの、それでもルネから視線を離しがたかった。
「ルネ、身体に気を付けてね。ちゃんと食事を摂らなくては駄目よ? 睡眠もね?」
アリゼの言葉の一つ一つに律儀に頷くルネに、ルデュック伯と夫人は苦笑いを浮かべつつも、娘を大切にしてくれているその姿に感謝した。
ままごとのように見える娘と婚約者の触れ合いは、回数を重ねていくうちに、それらしくなっていくのだろう。
「出してくれ」
ルデュック伯の合図に、御者が手綱を引く。
「手紙、送ってね。私も送るから」
「うん、沢山書くね」
ゆっくりと走り出した馬車は、ルネとアリゼの距離を簡単に広げた。
お互いに、その姿が見えなくなるまで見続けた。
今生の別れではないけれど、離れがたかった。
僅かな時間でも、目に焼き付けておきたかった。
見えなくなってから、二人とも息を吐き、顔を上げた。
前へ進む為に。




