36.あなたが好き
講義を全て終え、アリゼはこのままタウンハウスに帰ったものか、ピジエ家にお邪魔しようか考え、ルデュック家のタウンハウスに戻った。
自分が行っても何かが変わる訳でもなく、迷惑をかけるだけだろうと思ったからだ。
──美しいが、これだけでは魔術師にはなれないだろう。
級友の言葉が思い出される。
どんな原理なのかは分からない。
とても華やかで美しかった。
けれどそれだけと言われてしまえばそれまでだ。
それでも、アリゼは空に咲いたあの花を目に出来た事を嬉しく思う。
もう二度と見る事は叶わないかも知れない、空に咲いた真っ赤な、大輪の花。
役には立たぬだろうが、胸の奥を熱くした。
同じように感じた生徒はいて、素晴らしいと言ってくれる者もいた。美しかったと喜ぶ女生徒も多かった。
意味がわからないと言う者もいた。
全ての人に望まれる結果や、好まれるものなどこの世には存在しない。
厭う者もいて当然だ。
そう言うものだ。
平凡な容姿の自分を好ましいと言ってくれるルネのような存在もいれば、みっともないと蔑んできたマチューのような存在もいる。
一つの意見に左右されて己を見失ってはいけないのだと分かっていても、何処か自信が持てずにいた。
何度も行きつ戻りつして、アリゼはようやく答えを得た。
自分を好きでいようと、やっと思えた。
当たり前のようでいて、存外出来ないものだ。
自分を好きになりたい。
自分を好きになって欲しい。
そう言った欲求は持ち得ていても、自分を好きとはっきり思い切るのは難しい。少なくとも、アリゼには難しかった。
他の誰かになる事は叶わない。
それは逆も然りで、他者がアリゼになる事は不可能なのだ。
分かっていても、苦しかった。自分じゃない何かになりたかった。けれどなりたくはなかった。
どろりとした感情が己のなかに渦巻く事を罪だと感じていた。そんな気持ちを消したかった。知られたらルネに嫌われると思うと怖かった。
アリゼは、それも自分だと受け入れる事が、ここに来てようやく出来た。
何故かは明確に言葉には出来ない。ただ、すとんと、己の腑に落ちた。
良いのだと思えた。
空の色がいつも同じではないように。
透き通る日もあれば曇る日もある。
雨も降るし雪も降る。
強い風だって吹く。
色んな顔を見せるが、空は何処までいっても空であり、同じ空は二度とない。
次にルネに会ったなら、言えなかった言葉を伝えたい。
好きになってくれてありがとう。
私も貴方が好きです、そう伝えようと。
予想に反して、アリゼはルネとすぐに会う事が出来た。
試験翌日にルネがルデュック家を訪れたからだ。
アリゼに会うなり笑顔になったルネに、アリゼもまた笑顔になる。抱き付いてしまいたい衝動に駆られるが、そんな事出来よう筈もない。気持ちを抑えて、会えて嬉しいと笑顔にのせる。
この気持ちが伝わるようにと願いながら。
「アリゼ、手紙ありがとう。返事を返せなくてごめんね」
アリゼは首を横に振った。
「気にしないで」
気にかけてくれていた事が嬉しい。
ルネの細かな気遣いに、アリゼはどれだけ救われたか知れない。
「試験」
頑張ったねと言うのも、お疲れ様と言うのもおかしな気がして、言い淀むアリゼに、ルネは終わったよ、と答えて頷いた。
その終わったと言う言葉に、別の意味も含まれているのではないかと思うと、アリゼの胸は苦しくなった。
「教室の窓からも見えたのよ。
空に浮かんだ赤い花。あれはルネなのでしょう?」
「そうだよ。そっか、教室からも見えたんだね」
「えぇ、とても美しかったわ。一瞬で消えてしまったけれど、その儚さもまた、美しかった」
率直な感想を述べる。
「ありがとう。アリゼにそう言ってもらえて、嬉しい」
ルネの笑顔は何処か清々しかった。不本意な状態で望む事になったが、ルネなりに力を出し切れたのかも知れないとアリゼは思う。
「結果は、二週間後に出るんだ。
僕としてはやり切ったと言う気持ちなんだけど……」
そう言って表情を曇らせるルネにアリゼは不安になる。
「何か問題があるの?」
「僕、アリゼと婚約したいと父さんに願い出た時、魔術師試験に合格するって言い切ってしまって……ないとは思うんだけど、もし父さんに反対されたら……」
「まぁ……その時には私、おじ様にお願いに伺うわ。
ルネとの婚姻を認めて下さいって」
アリゼの言葉に、長らく片想いをしていたルネの胸は踊る。愛する少女の気持ちが少しは自分に向けられている事を実感して。
アリゼはルネに一歩近付くと、手に握り込んでいた物を見せた。
灰色のリボン。
「……リボン?」
尋ねるルネに、アリゼは頷いた。
「収穫祭の日、本当はこれも渡したかったの。持って行っていた筈なのに、何処かに落としてしまったのか、見つからなくて」
それは多分、マチューが持っていたものだろうと二人は分かっていた。けれどそれについては触れずにおく。
「だから、もう一度用意したの」
ルネの前に差し出された灰色のリボンには、ルネの名が刺繍されていた。
「アリゼの瞳と同じ色だね」
そう言ってルネは微笑んだ。
彼女の瞳の色と同じ色をしたリボン。
「ありがとう、とても嬉しい」
受け取り、両手で握り込む。
結ぶ髪はないけれど、悲嘆する気持ちはない。
何処にリボンを結ぼうか、そんな事を考える。
何よりも、彼女の色を身に付けられる事が、それを彼女自身から贈られた事が嬉しかった。
「ルネ」
何処に結ぼうかと思案していたルネを、アリゼの声が引き戻す。
アリゼは真剣な顔でルネを見つめている。
何かあったのだろうかと、自然とルネの表情も引き締まる。
「あの日、守ってくれてありがとう。
ううん、あの日だけじゃなくて、ずっと私を助けてくれて、守ってくれてありがとう」
ルネはほっとして微笑んだ。
何を言われるのかと身構えてしまった。
「どういたしまして。アリゼに怪我がなくて本当に良かった。
ソネゴ嬢の言葉には真実がないから、気にしないで欲しいんだ」
気にならないと言えば嘘になる。
酷い言葉を投げられれば傷付く。
それは当たり前の事。
ただ、こうして自分の気持ちを和らげようとしてくれる存在がいる事にアリゼは感謝する。
ルネだけでなく、両親、屋敷にいる使用人たち、友人もそうだ。
自分は不幸ではない。
本来分かりようもない他者の気持ちを、理解しよう、慰めようと思ってくれる人がいる幸運を、アリゼは理解している。
「ありがとう、ルネ」
「ううん」
あのね、と言葉を切ったアリゼの頰が赤く染まる。
ルネはじっとアリゼを見つめる。
「私を……好きになってくれてありがとう」
予想もしていなかった言葉にルネの頰も赤く染まる。
「あ、とんでも、ない。
えっと、うん、どういたしまして……」
どう答えて良いのか分からなくて、何とか言葉を紡いだもののぎこちなく、要領を得ない返答になってしまった。
「私も、ルネが好き」
ルネの顔から表情が消えた。
今、アリゼは何と言ったのかと、願望が幻聴を聞かせたのかと思った。
目の前の、愛してやまない少女が、耳まで真っ赤にし、目を涙で潤ませているのを見て、先程のが幻聴ではない事を証明していた。
ルネは震える手で口元を押さえる。
アリゼと同じように、熟した果実のようにルネの顔は赤く染まった。
それから、ルネは言った。
「夢を、見ているみたいだ」
アリゼが首を横に振る。
「夢じゃ、ないわ」
言葉を区切ると、もう一度アリゼが言った。
「貴方が好きなの」
ルネは目をぎゅっと閉じ、俯いた。
その反応にアリゼは僅かに不安になる。
目を開けたルネは、絞り出すように言った。
「僕も、アリゼが好き」




