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第13話 恋する兎

「お願い、誰か来てッ、人が、人が倒れているのッ、お願いッ!」


 四年前、寒さを感じて目覚めたルティシアは、いつも目覚める林の中にいた。起き上がろうとして、すぐ近くにあったそれに触れた。

 ぬるりとした生温かい液体がべったりと手についた。見てみると白いはずの手が真っ赤に染まっている。

 恐々と視線を下ろせば、そこには背中から大量の血を流して人が倒れていた。


「ひっ」


 ルティシアは喉を引きつらせて腰を抜かした。


「……っ、……うっ」


 かすかな声が聞こえた時、ルティシアの身体は勝手に動いていた。

 屋敷へ駆け込み、必死で叫んだ。そのときばかりは、いつも冷たい侍女達もすぐに異変を感じて駆けつけてくれた。

 怪我人が男前と知るや俄然やる気も出してくれたようで、下男や医者を呼び、その間に応急処置など休む間もなく機敏に動いていた。


「後は私達がしますので、部屋へお戻りください」


 何もできずに立ち尽くしていると、侍女達に邪魔だといわんばかりに睨まれた。

 ルティシアは頷くと、大人しく部屋に戻った。彼が生きて回復してくれることだけを、必死に祈り続けた。


 アージェスは丸二日眠り続けた。

 侍女から彼が目覚めたと聞いて、気になったルティシアはこっそり様子を見に行った。すると怪我人は、寝台で侍女とまさかのお楽しみ中だった。

 目が合ったアージェスに見咎められたわけだが、彼の言葉は理解できなかった。ひとまず邪魔をするなということだろうと察して、開いていた扉を閉めて引き返した。

 目撃してしまった重なり合う男女の光景には強烈な衝撃を受けたが、ルティシアにはそんなことより、怪我人の随分と元気そうな姿に、安堵と喜びに頬を綻ばせた。

 変態、と言いながらも彼のすっかり回復した様子に、ルティシアはそれだけで嬉しかったのだ。 



 寝室でアージェスが思い悩んでいる隣の部屋では、ルティシアが寝室の扉をいつまでも見つめていた。


 ルティシアは夜、眠ったときとは違う場所で目を覚ますことが度々あった。

 幸い、温暖な地域であることから凍死することはなかったが、屋根もない草むらで冷たい風に吹き曝されて、何度も風邪を引いて熱を出した。

 朝になって寝衣姿で、それも裸足で外から戻ると、屋敷の侍女達に不審な目で見られ、益々気味悪がられた。

 それは、メリエールの屋敷だけに限らず、王宮でも同じことだった。

 特異な容姿も、王の居室で囲われ愛妾にされたことも、夜の徘徊も、どれもが家臣らの不満を煽るものでしかなかった。


 さすがに今度ばかりはアージェスに愛想を付かされるものと覚悟していたが、彼だけは違った。

 否定ばかりされるルティシアのすべてを、優しく、温かく包み込んでくれた。

 そんな人は今まで誰もいなかった。王宮の中には何百人と人がいるのに。


 なんだか力が抜けて酷く疲れを覚えた。

 アージェスが貸してくれた長椅子に身を横たえ、触り心地の良い彼の毛布に顔を埋めた。目を閉じると、ルティシアは彼がくれた優しい言葉の数々を反芻する。

 そうしていると、まるで彼に包まれているようで、ひどく心地よく、気持ちの良い眠りに誘われた。

 

 

 


 ふと気づくと、ルティシアは薄暗い廊下を歩いていた。赤い絨毯に白い壁、蔦模様が彫られた柱に、大輪の花束が挿された陶器の花瓶。見慣れた場所は王宮の中だ。

 いつもなら家臣らが行き交っているのだが、誰一人見かけない。静かで誰もいないことが嬉しい。

 外に出ても誰もいない。清清しいほどどこにも人の目がない。

 木々の合間を抜けて、開けた場所へ出ると、頭上には白い月が浮かんでいる。

 誰もがルティシアが見ることを嫌がるけれど、月だけは何も言わずに見させてくれる。

 優しい光で包んでくれる。

 

 月……だけが……。


 不意に、凛々しいアージェスの精悍な顔を思い出した。

 


「娼館へ行ってくる」


 就寝前、いつもより早く居室へ戻ってきたアージェスは、執務着から平服に着替えた。

 脱いだ服を次々と侍女に渡しながら告げた。

 ルティシアは部屋にアージェス以外の人間がいるときは、邪魔にならぬよう顔を上げない。長椅の端に浅く腰掛け行儀よく座って本を読んでいる。

 その日着替えを手伝っていたのは侍女長官だった。

 出かけるのに行き先など告げたことのない王が、珍しく教えたので、侍女が怪訝な顔をした。


「そのようなことを仰せになって、どうかなさいましたか?」


「俺の兎が、俺が話してもいないことを、廊下を歩くだけで聞いてくるのが気に食わん。ゆえに先に教えておいてやろうと思うてな」


 侍女長官の手前、ルティシアは遠まわしに自分に言われていることに気づいて、慌てて本を椅子において立ち上がった。

 返答の仕方も分からず、無言で頭を下げた。


「行ってくる」


「い、い、いってらっしゃいませ」


 床だけを見つめ、王と侍女長官が部屋から出るまで、頭を下げ続けた。

 そしてルティシアはいつもどおりに、就寝時間になると身を横たえた。

 


 近いようで触れられない。

 月に向かって手を伸ばしても、月に触れることはできない。

 同じように、どれだけ近くにいても触れられない。

 決して触れてはいけない。

 それが王だ。


 目を開けると、周囲はまだ暗かった。

 上体を起こして見回すと、低めの天井と四方を囲う幕がある。また陛下の手を煩わせてしまったようだ。

 夜の徘徊を知られてからというもの、もう何度王の寝台で目覚めたことだろう。

 放っておいてくれるように、何度となく頼んだけれど、陛下は聞き入れてくれなかった。

 気にするなと言われても気なるし、謝るなと言われても謝りたくなる。

 すぐに謝ろうと、毛布から出た。


「散歩の次は小便か、忙しいやつだ」


 寝台の薄暗い中、離れたところで横たわっていた影が起き上がった。

 

「へ、陛下っ」  


 急に声を掛けられたルティシアは飛び上がらんばかりに声を上げた。


「い、いらっしゃったんですかっ?」


「隣に行くのが面倒だったのでな」

 

「それなら私を居室の椅子に戻してくだされば宜しいではありませんか?」


「行儀悪く外で寝るお前が悪い。どこへ戻そうが拾ってきた俺の勝手だ。文句を言うな」


 威圧のない柔らかく温かな叱責。

 反論の言葉もない。


「申し訳ありません」


 トクンと、鼓動が鳴る。


「で、大人しくここで寝るのか、閑所へ行くのかどっちだ」

 

 居室の長椅子で寝るという選択肢は出してくれないらしい。もちろん嫌ではないから良いのだけど、命令なら仕方がない。

 

「ね、寝ます」


 戸惑いながら、ごそごそと横になると、陛下の様子を見たくなるのを我慢して、頭から毛布を被った。


「怖がらなくても襲ったりしない。安心して寝ろ」

 

 そんなつもりはなかったのだけど、そういうことにしておこう。

 陛下に不用意に近づかれずにすむ。

 しかしこれを機に、アージェスが距離を縮めようとは、ルティシアには少しも考えの及ばぬことだった。

 

 恐る恐る顔を出すと、アージェスも起こしていた上体を横たえた。

 身体を仰向け、深く吐息を付くと、間もなく規則正しい寝息が聞こえてきた。

 なんという寝つきの早さと豪胆さ。

 彼女が暗殺者なら簡単に命を奪えてしまえそうだ。それほど無害だと思われているのだろう。

 ルティシアは出していた顔を毛布の中に再び引っ込めた。

 陛下が近くにいると思うだけで、トックン、トックンと鼓動が高鳴り、ぽかぽかと胸が温かくなるのを感じる。こんな感覚になるのは初めてだ。それがなんという名の感覚なのか知らない。

 以前に男に襲われてから男性自体が恐ろしかったというのに、今は少しも恐ろしくはなかった。

 唯一優しくしてくれる人だからだろうか。

 口には出さず、胸中でそっと囁く。


(おやすみなさい、陛下)



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