23話 誰も知らないところへ
凛は唇の端を強く真一文字に結んだまま、僕の視線を逃れるように立ち上がり、ゲートのフェンスに手をかけた。そして、
「そうよ。そうなの。その頃からなの、自分で自分を傷つけるようになったのは。」
気持ちよかった。学校で使っている事務用のカッターナイフを取り出して、自分の腕にその冷たい刃を沿わせる。ほんの少しだけ力を入れてその刃を引くと、薄っすらと赤い血が浮かび上がる。その血をじっと見つめていると、自分がいるこの場所が現実の場所ではないような錯覚に陥る。見慣れた自分の部屋。薄いピンクのカバーがかかったシングルベッドや、本や参考書が並んだ学習机。ソファに並べられた白いクマや犬のぬいぐるみや、そんなものが現実の世界とは切り離されてそこにたたずんでいる。 そして、自分でつけた傷に痛みを感じる時、感じている間だけは、何も考えなくてもすむ。何も考えない、何も自分を悩ませない、何も自分を追い込んだりしない。
「そう、私はここにいていいんだ。私は普通だもの。何もおかしいことなんてないもの。そう思うんだけど、朝になって学校へ行って、その子を見ると、またあの感情が私を襲ってくるの。あの子に触れたい。そして、どこかでいつも声が聞こえるの。」
「どんな?」
「おかしいのはお前だって。そういつも。」
凛は耳をふさいだ。
「そう。お前はおかしいんだって。」
そして、夜になると自室でひとりカッターナイフを手にする。
その繰り返し。
「ある日。お母さんに見つかったのね。一緒に住んでいるんだもん。お母さんとふたりきりだもん。わかるわよね。当然。」
凛は自分の腕についた傷跡を指で撫でながら、続けた。
「お母さんはびっくりして、この傷は何なの?って聞いてきた。私は、お母さんならひょっとしてわかってくれるかもしれない、自分は変なんじゃないって言ってくれるかもしれないって思った。それで思い切ってすべて話してみたの。」
「それで。」
唇の端をぎゅっと噛み締めた彼女を見て、僕は言った。
「つらかったら無理に話さなくてもいいんだよ。」
「ううん。いいの。」
少し間をおいて、彼女は続けた。
「お母さんは、私のことを変だとは言わなかったわ。お母さんも中学生や高校生の頃、憧れていた女の先輩がいたって言ったわ。でもそれは、思春期特有の感情で、学校を卒業して初めて彼が出来て、それはそういう一時的なものなんだってわかったから、恋を知る前の女の子にはそういう感情を持つ時があるものだって。だから、凛もきっとそうなのよって。難しく考えたり悩んだりしなくても、時期が過ぎて、本当に好きな男の子が出来れば、解消する問題なんだって言ったわ。」
「そしてお母さんは、自分で傷をつけることにショックを受けて、こんなことはもうしないでって泣いたわ。お母さんがそういって慰めてくれたのは嬉しかったけど、どこか見当違いっていうか、お母さんが言うような一時的な感情の問題じゃないって、私どこかでわかっていたのよ。何だか、寂しくて、苦しくて、大阪では自分の居場所がないような気がして、中学を卒業すると美容師の専門学校に入学する為に、大阪を離れたの。」
「お母さんと同じ道を?」
僕は聞いた。
「別にお母さんと同じ職業を選びたかったわけじゃないわ。ただ、地元の高校へ行きたくなかっただけ。どこでもいいから大阪を離れたかったのよ。」
〝誰も知らない、誰もこんな私を知らないところへ行きたかったのよ。〟
凛はつぶやいた。




