06
那津はゆっくりとこちらに近づき、俺の前に立つ。そして、二人の顔を見比べて、ため息を吐いた。
「だからあんまり悪く言わないでって、言ったでしょ。」
「でも、お前……」
「私はそんなこと望んでいない、とも言ったと思うけど。」
「……悪い。」
ジロリ、と眼鏡の奥から睨みつけられ、縮こまる。
この目、弱いんだよなあ、俺……
先程、本城美香子を追いつめていた時とは打って変わって、小さくなり、俺は頭を下げた。
「…お母さん。」
静かに響いた那津の言葉に、女はびくりと体を震わせる。
思いがけないひとこと、だったのだろう。
完全に美しい仮面は崩れ落ち、醜い身が見え隠れしていた。
那津は静かに言葉を紡ぐ。
「聖悟が言ったことは、本当?」
「………。」
「私の幸せが許せない…って。」
「……そうよ。」
女は観念したように、そうぽつりと呟いた。
血走ってギラギラとした眼で那津を睨みつける。
ここまでヒトは変われるものか、といった具合の変貌だ。
女は金切り声を上げた。
「アンタが、憎い。殺してやりたいくらい、憎いのよ!」
言葉の通り、相手を殺さんばかりの勢いで、わめきながら那津に掴みかかろうとする。
俺は咄嗟にその両手を掴み、抑え込んだ。
だが彼女の耳触りな叫び声は、止まない。
「アンタなんか、誰にも愛されなくていいのよ!アタシよりもずっと、不幸で!惨めで!誰にも気づかれないまま、死んでしまえばいいんだわ!」
「おい、テメェ!」
「いい、聖悟。下がってて。」
手を出しかけた俺を、那津がいさめる。
振り向いて見た那津は、相変わらず読めない表情で母親を見つめるばかり。
俺は一瞬眉をひそめたが、素直に後ろに下がった。
互いが互いを向きあっている中、那津は静かに話し出した。
「…貴女は、私がずっと嫌いだったよね。私も、貴女が嫌いだった。どうしてこっちを見てくれないんだって、恨んでた。」
俺が驚いたのは、それが彼女の忌避していた過去だったこと。
しかし、すらすらと話す声に淀みはない。
まるで先生が生徒に諭すような口調で言い、ぴんと背筋を伸ばしている那津。
―彼女は、怖いくらい冷静だった。
そして同時にそれは『俺の知る那津』だった。
「でも、今ではそれも仕方なかったんだって、思うようになった。
――貴女は、私よりずっと、孤独だったから。」
「――!」
女が目を見開く。
無言の肯定を受け取り、俺は静かに息をついた。
――那津は、きっと気付いていた。自分の母親が自分を嫌うわけを。
成長するにつれ、だんだんと父親に似てくる那津。
かつて愛した男の面影を残す娘を、これ以上ないほど憎んだのは、他に当たるものがなかったから。
本気で憎んで、罵って、恨んで、嫌って。
誰よりも、不幸にしてやりたかった。
そうすれば絶望のどん底にいる自分が救われるから。
彼女は、自分よりも不幸な存在を作り出して、安心感を得たかったのだ。
那津と同じくらい、ずっと、彼女はひとりぼっちだった。
――だからなのか、と思う。
最初から、那津は母親を憐れんでいた。
幸せになりたくてもがき苦しむ女を遠くで見つめて、かわいそうに、と呟く。
そして彼女の『味方』になってあげる。
思えば彼女の本性を知る人物も、那津しかいなかったのだ。
執拗に母親をかばう那津の裏にはこんな感情が隠されていた。
「だから、私は、貴女には逆らわないことにした。私があげられるものくらい、安いものだし…産んでくれたことに、感謝したかったから。」
「………。」
那津の本心からの言葉に、女は二の句を告げない。
聞こえているのかどうかすら分からない、と傍から見て思うほどに動かない。
本当の那津を見て彼女は何を思っているのか、俺には分からなかった。
「私のことは一生憎んでも、恨んでも…嫌いでも、いい。でも、私は、」
ひゅうっと、息を吸う。
那津は顔を上げ、真正面から母親を見据えた。
「私は、貴女のこと、……嫌いじゃないから。」
それは、ずっと、何年も前から、封じ込めていた言葉。
――そうだ。
本当は、これが伝えたかったんだ。
那津は、嫌いたくなかったのだ。
那津にとって、本城美香子はたった一人の肉親だ。
どれだけ酷い女だろうと、口では罵っていようと、本当の本心では恨みたくなかったのだ。
那津は、誰よりも優しい。
相手がどれほど那津を嫌っていようと、那津自身が本気で嫌うことなどできはしない。
それでも、やっぱり。長年の内に溜まった、自分の中の黒い感情は無視できない。
憎み続けるのが、苦痛で仕方がなくて、でも本心で話すこともできなくて。
母親の視線に、態度に、また自分だけ傷つく。
おそらく那津は――母親からでなく。
『母親を嫌う自分』を嫌悪し、逃げたかったのだ。
言い切った那津は大きく息を吐き、肩を落とす。
かなりのプレッシャーを感じていたのだろう、それからしばらくは呼吸を繰り返すだけで何も言わなかった。
しばらくして落ち着いたのか那津は、
ねえ、お母さん、ともう一度彼女を呼び掛けた。
「…ずっと自分を演じ続けるのは、疲れるよね。」
びくりと体を震わせる女。肯定の合図。
だよねー、と那津も賛同する。
「でも性格を作らずにはいられなかった。『自分』じゃない誰かを作って、人に好かれたいと思って…」
「………。」
「一生、そうやっていくんだと思ってたんだ、でも、そうじゃなかった。あのね、」
そこで那津は俺を見た。
ふっと脱力したように体を崩す彼女が、薄く唇を上げ、
「本当の自分を認めてくれる人が、私にもいたんだよ。」
と、言って那津はお茶目に笑った。
何もかもを受け入れ、発散させ、昇華させたような、鮮やかな笑顔。
一瞬で魅了された俺も本城美香子も、そのまぶしすぎる笑顔をぼうっと見ていた。
「いつか、父さんにも言えるといいね。本当の貴女のことを。」
そう言い残すや否や、那津は買い物袋を置き、踵を返した。
バタン、と玄関のドアが閉まる音で俺も我に返り、慌ててその後を追う。
「……那津。」
―本城美香子は、まるで自分の中の何かが壊れたかのように、微動だにすることなく、ただその場に立ちつしていた。
――
角を曲がって、ガードレール沿いの道をてくてくと歩く。
那津は白い帽子を飛ばされないようにおさえつけながら、水色のサンダルを鳴らしていた。
俺も彼女の影を追いながら、後をついていく。
ざわざわと風が鳴り、木々を揺り動かす。俺はそれを見ながら、疑問を口にした。
「……いつから、いたんだ?」
「うーん、割と最初から。」
「何で入ってこなかったんだ?」
「ま、ちょっと聞いていたくてね。…盗み聞きは趣味じゃないけど。」
肩をすくめる那津。まあでも、その方がよかったのかもしれない。
―那津に対してわめく女を見ていたら、俺も冷静でいられなかっただろうから。
しばらくそのまま無言で歩いたあと、那津はおもむろに尋ねてきた。
「聖悟。あの情報…どこから?」
「ああ、圭太朗がな、協力してくれた。」
ただの大学生である俺に、誰かの経歴を調べるなんて大がかりな調査はもとより不可能だ。
初めから圭太郎とそのバックの財閥に協力を依頼していた。
その正確な情報のおかげで、本城美香子との話に早々とカタがついた、というわけだ。
『あー、やっぱりね』と呟いた那津。だが、すぐに顔をしかめた。
「個人情報、ばらしすぎでしょ。…ヒドイ。」
「…すまん。」
「謝るくらいなら、先に言ってくれればよかったのに。」
「黙ってるつもりだったんだよ。…お前にとってもデリケートな問題だろうし。」
「それにしては、躊躇なく話してたね?」
「仕方ねぇだろ。俺だって、結構いっぱいいっぱいで…」
あれが人道的でないことは、分かっていた。
でもどうしても許せなかったから、普通でない方法を取った。
だが――果たしてよいことだったかどうかは分からない。
俺は俺なりのやり方でやる、と宣言していたから、勝手に彼女と対峙し脅しつけたが――
…結果はどうだ。
俺なんか出る幕もなく、那津は綺麗に母親との問題を清算してみせた。
むしろ逆効果だったのでは…と考えてぞっとする。
――あれ、俺、いらないことした?
「聖悟。」
「ん?――っ!?」
―が、次の瞬間、思考がぶっ飛んだ。
頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。
呼ばれる声と同時に振り返った俺に、那津はぐっと背伸びをして、唇を重ねてきたのだ。
一瞬だけの柔らかなそれ。しかし、俺の心臓を掴むには十分すぎるほどだった。
「ありがとう。」
――あ、ちょっと待て。まずい。
今の状況でその笑顔はまずすぎるぞ、那津。
いてもたってもいられなくなった俺は、すぐさま那津を抱き寄せ、その腕におさめた。
…一応、人気のない木陰に連れ込んだのは褒めてもらいたい。
那津も俺に素直に抱きしめられ、胸に頬を寄せてきた。
薄いワンピース越しの体温がまた俺の中の何かを熱くさせる。
それを振り切るように、白い首筋に顔をうずめ耳元でささやいた。
「…本当によかったのか?あれで。」
「うん。」
「親父さんに相談とかしなくていいのか?警察とか家裁とか行けば……」
「言いたいことは言えたからいい。聖悟が代わりに怒ってくれたしね。」
「そうか?」
「そうだよ。」
へへ、と笑って俺の服を握りしめる那津。
だがふと、その手が震えているのに気付いた。
――ああ、そうか。
ぎゅっと抱きしめる手を強くする。
気付かなくてごめんな、と頭に手をのせた。
「……那津。」
「うん。」
「もういいぞ、那津。」
「――うん。」
笑顔がゆがみ、じわ、と目頭に露が浮かんだ。
「う…っく、……うわああああああん!!」
途端に、那津は泣きだした。
大声を上げて、子どものように泣きわめく。
まるでダムが決壊したかのように、水分が目からあふれ流れる。
―平気なわけが、なかった。
約二十年間の親子のしがらみがすぐにほどけるわけがない。
那津は精いっぱいの勇気をふりしぼって本城美香子に挑んだのだ。
強がりはもう無理だ、とばかりに那津はわめいた。
シャツには大きな水滴がいくつもついたが、別に構わない。
それより、この尊い涙の方が大切だ。
あの夜のように…ずっと泣けなかった那津が泣いているという事実の方が、何倍も大切なんだ。
俺は無言で、ただただ泣く那津を抱きしめていた。
――
「…落ち着いたか?」
「うん、平気。…ごめんね?」
「別に気にすんな。むしろもっと甘えてきてもいいぞ。」
「また無茶を言う…」
「無茶じゃないだろ。」
こつん、と額同士を当てて笑う。涙の跡を軽く唇で拭い、こめかみや唇にキスを落とす。
もういいから!と照れて逃げ出す那津の手を掴み、手をつないだ。
「帰るか。」
「そうだね。」
ニヤリと口角を上げると、那津もニヤリと笑い返してきた。
日差しの照りつける夏の日の午後、焼けた道を歩き、帰途に着く。
のんびりとした足取りで、とりとめもない話をしつつ那津と俺は歩いていた。
「―よし、じゃあ次は俺の家だな。」
「は?」
「何ぼーっとしてんだよ。お前ん家行ったんだから、今度は俺の家に一緒に行くんだよ。」
「え、だから……は?」
「さーて、帰るか―。また日程決めないとな。」
「え、ちょっ!決定!決定なの!?」
慌てる彼女を横目に大声で笑ってやる。
初夏の空はどこまでも青く澄んでいた。
まるで、俺や那津の心のように、鮮やかにその色を残した。
***********************
記憶の隅の部屋。
真っ白な部屋に、私はいた。
私は迷うことなく部屋の奥に進み、『不要な記憶入れ』のゴミ箱に手をかける。
――全て無くそう、消し去ろうとビリビリに破いて捨てた過去。
そこにはそれがすべて詰まっていた。
私はゴミ箱をひっくり返した。
ばらばらの出来事を、ひとつひとつ拾い集めてセロテープで補修して。
アルバムを一ページずつ埋めて行く。
やがて作業がすべて終わり、いびつだけど、ちゃんとした形の『思い出』に直ったアルバムをきちんと閉じた。
―すぐには振り返らなくてもいい。ずっと放っておいてもいい。
でも、ふとした瞬間に開いて、懐かしんで。時には後悔して。
何度でも振り返って、また泣けるように。
そういった風に、『思い出』を処理できたから。
ほつれた糸の先に球結びをして、終わらせることができたから。
丁寧にリボンをかけた『思い出』を、私は本棚にしまった。
そして今度は真っ直ぐ外を目指す。
最後に振り向いた部屋は、もう真っ白じゃなかった。
綺麗な、空色をしていた。
END




