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脳内計算  作者: 西山ありさ
その後の短編+番外編
115/126

06




那津はゆっくりとこちらに近づき、俺の前に立つ。そして、二人の顔を見比べて、ため息を吐いた。


「だからあんまり悪く言わないでって、言ったでしょ。」

「でも、お前……」

「私はそんなこと望んでいない、とも言ったと思うけど。」

「……悪い。」


ジロリ、と眼鏡の奥から睨みつけられ、縮こまる。

この目、弱いんだよなあ、俺……


先程、本城美香子を追いつめていた時とは打って変わって、小さくなり、俺は頭を下げた。


「…お母さん。」


静かに響いた那津の言葉に、女はびくりと体を震わせる。

思いがけないひとこと、だったのだろう。

完全に美しい仮面は崩れ落ち、醜い身が見え隠れしていた。

那津は静かに言葉を紡ぐ。


「聖悟が言ったことは、本当?」

「………。」

「私の幸せが許せない…って。」

「……そうよ。」


女は観念したように、そうぽつりと呟いた。

血走ってギラギラとした眼で那津を睨みつける。

ここまでヒトは変われるものか、といった具合の変貌だ。

女は金切り声を上げた。



「アンタが、憎い。殺してやりたいくらい、憎いのよ!」



言葉の通り、相手を殺さんばかりの勢いで、わめきながら那津に掴みかかろうとする。

俺は咄嗟(トッサ)にその両手を掴み、抑え込んだ。


だが彼女の耳触りな叫び声は、止まない。



「アンタなんか、誰にも愛されなくていいのよ!アタシよりもずっと、不幸で!惨めで!誰にも気づかれないまま、死んでしまえばいいんだわ!」

「おい、テメェ!」

「いい、聖悟。下がってて。」



手を出しかけた俺を、那津がいさめる。

振り向いて見た那津は、相変わらず読めない表情で母親を見つめるばかり。

俺は一瞬眉をひそめたが、素直に後ろに下がった。


互いが互いを向きあっている中、那津は静かに話し出した。



「…貴女は、私がずっと嫌いだったよね。私も、貴女が嫌いだった。どうしてこっちを見てくれないんだって、恨んでた。」



俺が驚いたのは、それが彼女の忌避していた過去だったこと。

しかし、すらすらと話す声に淀みはない。

まるで先生が生徒に諭すような口調で言い、ぴんと背筋を伸ばしている那津。


―彼女は、怖いくらい冷静だった。

そして同時にそれは『俺の知る那津』だった。



「でも、今ではそれも仕方なかったんだって、思うようになった。

――貴女は、私よりずっと、孤独だったから。」

「――!」


女が目を見開く。

無言の肯定を受け取り、俺は静かに息をついた。


――那津は、きっと気付いていた。自分の母親が自分を嫌うわけを。

成長するにつれ、だんだんと父親に似てくる那津。

かつて愛した男の面影を残す娘を、これ以上ないほど憎んだのは、他に当たるものがなかったから。

本気で憎んで、罵って、恨んで、嫌って。

誰よりも、不幸にしてやりたかった。

そうすれば絶望のどん底にいる自分が救われるから。

彼女は、自分よりも不幸な存在を作り出して、安心感を得たかったのだ。


那津と同じくらい、ずっと、彼女はひとりぼっちだった。


――だからなのか、と思う。

最初から、那津は母親を憐れんでいた。

幸せになりたくてもがき苦しむ女を遠くで見つめて、かわいそうに、と呟く。

そして彼女の『味方』になってあげる。

思えば彼女の本性を知る人物も、那津しかいなかったのだ。

執拗に母親をかばう那津の裏にはこんな感情が隠されていた。


「だから、私は、貴女には逆らわないことにした。私があげられるものくらい、安いものだし…産んでくれたことに、感謝したかったから。」

「………。」


那津の本心からの言葉に、女は二の句を告げない。

聞こえているのかどうかすら分からない、と傍から見て思うほどに動かない。

本当の那津を見て彼女は何を思っているのか、俺には分からなかった。


「私のことは一生憎んでも、恨んでも…嫌いでも、いい。でも、私は、」


ひゅうっと、息を吸う。

那津は顔を上げ、真正面から母親を見据えた。



「私は、貴女のこと、……嫌いじゃないから。」



それは、ずっと、何年も前から、封じ込めていた言葉。


――そうだ。

本当は、これが伝えたかったんだ。


那津は、嫌いたくなかったのだ。

那津にとって、本城美香子はたった一人の肉親だ。

どれだけ酷い女だろうと、口では罵っていようと、本当の本心では恨みたくなかったのだ。

那津は、誰よりも優しい。

相手がどれほど那津を嫌っていようと、那津自身が本気で嫌うことなどできはしない。


それでも、やっぱり。長年の内に溜まった、自分の中の黒い感情は無視できない。

憎み続けるのが、苦痛で仕方がなくて、でも本心で話すこともできなくて。

母親の視線に、態度に、また自分だけ傷つく。


おそらく那津は――母親からでなく。

『母親を嫌う自分』を嫌悪し、逃げたかったのだ。




言い切った那津は大きく息を吐き、肩を落とす。

かなりのプレッシャーを感じていたのだろう、それからしばらくは呼吸を繰り返すだけで何も言わなかった。


しばらくして落ち着いたのか那津は、

ねえ、お母さん、ともう一度彼女を呼び掛けた。


「…ずっと自分を演じ続けるのは、疲れるよね。」


びくりと体を震わせる女。肯定の合図。

だよねー、と那津も賛同する。



「でも性格を作らずにはいられなかった。『自分』じゃない誰かを作って、人に好かれたいと思って…」

「………。」

「一生、そうやっていくんだと思ってたんだ、でも、そうじゃなかった。あのね、」



そこで那津は俺を見た。

ふっと脱力したように体を崩す彼女が、薄く唇を上げ、



「本当の自分を認めてくれる人が、私にもいたんだよ。」



と、言って那津はお茶目に笑った。

何もかもを受け入れ、発散させ、昇華させたような、鮮やかな笑顔。

一瞬で魅了された俺も本城美香子も、そのまぶしすぎる笑顔をぼうっと見ていた。



「いつか、父さんにも言えるといいね。本当の貴女のことを。」



そう言い残すや否や、那津は買い物袋を置き、踵を返した。

バタン、と玄関のドアが閉まる音で俺も我に返り、慌ててその後を追う。


「……那津。」


―本城美香子は、まるで自分の中の何かが壊れたかのように、微動だにすることなく、ただその場に立ちつしていた。




――



角を曲がって、ガードレール沿いの道をてくてくと歩く。

那津は白い帽子を飛ばされないようにおさえつけながら、水色のサンダルを鳴らしていた。

俺も彼女の影を追いながら、後をついていく。


ざわざわと風が鳴り、木々を揺り動かす。俺はそれを見ながら、疑問を口にした。


「……いつから、いたんだ?」

「うーん、割と最初から。」

「何で入ってこなかったんだ?」

「ま、ちょっと聞いていたくてね。…盗み聞きは趣味じゃないけど。」


肩をすくめる那津。まあでも、その方がよかったのかもしれない。

―那津に対してわめく女を見ていたら、俺も冷静でいられなかっただろうから。

しばらくそのまま無言で歩いたあと、那津はおもむろに尋ねてきた。



「聖悟。あの情報…どこから?」

「ああ、圭太朗がな、協力してくれた。」



ただの大学生である俺に、誰かの経歴を調べるなんて大がかりな調査はもとより不可能だ。

初めから圭太郎とそのバックの財閥に協力を依頼していた。

その正確な情報のおかげで、本城美香子との話に早々とカタがついた、というわけだ。


『あー、やっぱりね』と呟いた那津。だが、すぐに顔をしかめた。


「個人情報、ばらしすぎでしょ。…ヒドイ。」

「…すまん。」

「謝るくらいなら、先に言ってくれればよかったのに。」

「黙ってるつもりだったんだよ。…お前にとってもデリケートな問題だろうし。」

「それにしては、躊躇チュウチョなく話してたね?」

「仕方ねぇだろ。俺だって、結構いっぱいいっぱいで…」


あれが人道的でないことは、分かっていた。

でもどうしても許せなかったから、普通でない方法を取った。

だが――果たしてよいことだったかどうかは分からない。

俺は俺なりのやり方でやる、と宣言していたから、勝手に彼女と対峙し脅しつけたが――

…結果はどうだ。

俺なんか出る幕もなく、那津は綺麗に母親との問題を清算してみせた。

むしろ逆効果だったのでは…と考えてぞっとする。

――あれ、俺、いらないことした?



「聖悟。」

「ん?――っ!?」



―が、次の瞬間、思考がぶっ飛んだ。

頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。


呼ばれる声と同時に振り返った俺に、那津はぐっと背伸びをして、唇を重ねてきたのだ。

一瞬だけの柔らかなそれ。しかし、俺の心臓を掴むには十分すぎるほどだった。



「ありがとう。」



――あ、ちょっと待て。まずい。

今の状況でその笑顔はまずすぎるぞ、那津。


いてもたってもいられなくなった俺は、すぐさま那津を抱き寄せ、その腕におさめた。

…一応、人気のない木陰に連れ込んだのは褒めてもらいたい。

那津も俺に素直に抱きしめられ、胸に頬を寄せてきた。

薄いワンピース越しの体温がまた俺の中の何かを熱くさせる。

それを振り切るように、白い首筋に顔をうずめ耳元でささやいた。


「…本当によかったのか?あれで。」

「うん。」

「親父さんに相談とかしなくていいのか?警察とか家裁とか行けば……」

「言いたいことは言えたからいい。聖悟が代わりに怒ってくれたしね。」

「そうか?」

「そうだよ。」


へへ、と笑って俺の服を握りしめる那津。

だがふと、その手が震えているのに気付いた。


――ああ、そうか。


ぎゅっと抱きしめる手を強くする。

気付かなくてごめんな、と頭に手をのせた。


「……那津。」

「うん。」

「もういいぞ、那津。」

「――うん。」


笑顔がゆがみ、じわ、と目頭に露が浮かんだ。



「う…っく、……うわああああああん!!」



途端に、那津は泣きだした。

大声を上げて、子どものように泣きわめく。

まるでダムが決壊したかのように、水分が目からあふれ流れる。


―平気なわけが、なかった。

約二十年間の親子のしがらみがすぐにほどけるわけがない。

那津は精いっぱいの勇気をふりしぼって本城美香子に挑んだのだ。

強がりはもう無理だ、とばかりに那津はわめいた。


シャツには大きな水滴がいくつもついたが、別に構わない。

それより、この尊い涙の方が大切だ。

あの夜のように…ずっと泣けなかった那津が泣いているという事実の方が、何倍も大切なんだ。


俺は無言で、ただただ泣く那津を抱きしめていた。



――



「…落ち着いたか?」

「うん、平気。…ごめんね?」

「別に気にすんな。むしろもっと甘えてきてもいいぞ。」

「また無茶を言う…」

「無茶じゃないだろ。」


こつん、と額同士を当てて笑う。涙の跡を軽く唇で拭い、こめかみや唇にキスを落とす。

もういいから!と照れて逃げ出す那津の手を掴み、手をつないだ。


「帰るか。」

「そうだね。」


ニヤリと口角を上げると、那津もニヤリと笑い返してきた。



日差しの照りつける夏の日の午後、焼けた道を歩き、帰途に着く。

のんびりとした足取りで、とりとめもない話をしつつ那津と俺は歩いていた。



「―よし、じゃあ次は俺の家だな。」

「は?」

「何ぼーっとしてんだよ。お前ん家行ったんだから、今度は俺の家に一緒に行くんだよ。」

「え、だから……は?」

「さーて、帰るか―。また日程決めないとな。」

「え、ちょっ!決定!決定なの!?」



慌てる彼女を横目に大声で笑ってやる。



初夏の空はどこまでも青く澄んでいた。

まるで、俺や那津の心のように、鮮やかにその色を残した。




***********************




記憶の隅の部屋。

真っ白な部屋に、私はいた。


私は迷うことなく部屋の奥に進み、『不要な記憶入れ』のゴミ箱に手をかける。


――全て無くそう、消し去ろうとビリビリに破いて捨てた過去。

そこにはそれがすべて詰まっていた。


私はゴミ箱をひっくり返した。


ばらばらの出来事を、ひとつひとつ拾い集めてセロテープで補修して。

アルバムを一ページずつ埋めて行く。

やがて作業がすべて終わり、いびつだけど、ちゃんとした形の『思い出』に直ったアルバムをきちんと閉じた。


―すぐには振り返らなくてもいい。ずっと放っておいてもいい。

でも、ふとした瞬間に開いて、懐かしんで。時には後悔して。

何度でも振り返って、また泣けるように。

そういった風に、『思い出』を処理できたから。

ほつれた糸の先に球結びをして、終わらせることができたから。


丁寧にリボンをかけた『思い出』を、私は本棚にしまった。


そして今度は真っ直ぐ外を目指す。


最後に振り向いた部屋は、もう真っ白じゃなかった。


綺麗な、空色をしていた。





END





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