02
―――
「ねーちゃんっ!!」
「わっ!?」
玄関を通り、居間への扉を開けた――瞬間。
いきなりなにか小さいもんが那津に向かって突進してきた。
結構な衝撃を受け倒れそうになった那津だが―なんとかこらえ、それを抱きとめる。
「おかえり、ねーちゃん!」
「…ただいま、駿介(シュンスケ)。」
―那津に襲いかかってきたもの。それは、ちっこい子どもだった。
五歳くらいの男の子は那津に抱きつきながら、にっこり笑った。
「ねーちゃん、おそい!もっとはやく帰ってこいよ!」
「ごめんごめん。でも姉ちゃん、遠い所に住んでるからね、なかなか帰ってこれないんだ。」
「こないだもそう言ったー!」
ぶう、と頬を膨らませる幼児は那津の腰に手をまわしてぐりぐりと頭をこする。
―何やら、えらい懐かれようだが。…あれが、再婚後にできた弟、か。
ドアを背にそれを眺めていると、荷物を運び終えたお兄さんが顔を覗かせた。
「おー駿介、相変わらずだな。」
「いつもあんな感じですか?」
「まあな。那津大好きだから、あいつ。」
…へえ。
俺やお兄さんがそれを後方で見守っていると、那津のお父さんが苦笑気味に声をかけた。
「こらこら駿介。お客さまが来てるんだから、ちゃんとご挨拶しなさい。」
「おきゃくさま?」
そこで、やっと那津以外の人物が目に入ったらしい。俺は目を瞬かせる男の子と目を合わせた。
「こんにちは、駿介くん。俺は国崎聖悟。よろしくな。」
「………。」
駿介という男の子は、笑顔の俺を胡散臭そうにじーっと眺めた。
―と思えば、キッと目を吊り上げる。
「……ねーちゃんは渡さねーからな!!」
「ほお、なかなか勘のいいガキだ。」
「ちょっと、幼稚園児相手に何睨んでんの。」
「俺は平等主義だからな。」
那津に関しては、無論ガキだろうが容赦なし、だ。
てか、いい加減離れろよ。このクソガキ。
その後も俺と幼稚園児はお互い睨みあっていたが、
お兄さんが駿介くんを引きはがし、どっかで遊んでろ、と別の部屋に放り投げることで場は収まり。
現在、俺を含む四人は居間のソファに座ってくつろいでいた。
汗をかいた麦茶をひとくち飲んだ所で、早速談笑が始まる。
「いや、遠い所をわざわざありがとうね、国崎君。だいぶ時間がかかっただろう?」
「そうですね。長旅には慣れていないもので、少し疲れました。」
「ああ、国崎君は自宅通いかい?」
「あ、いえ。俺も下宿生です。」
「那津ちゃんと同じS大学生だって?学校生活はどう?」
「はい、もう二年目なので――」
――もっぱら、話しているのは俺と那津の親父さんだ。
正面に座っている親父さんは次から次へと話題を振ってくる。
おそらく試されているのだろうと思い、俺も気さくに笑いながら受け答えするが――途中でそれがどこかおかしいことに気付いた。
―俺のことは勿論だが、彼は『那津のこと』をそれとなく会話に交ぜ聞いてくるのだ。
普段の生活はどうだ、ちゃんと食べているか、他の友達は、とか。
本人が目の前にいるんだから、直接聞けばいいだろうに、何故初対面の俺に聞いてくるのだろうか。
隣を盗み見ても、当の本人は涼しい顔で外を眺めているし、お兄さんの方も無言で俺と親父さんの様子を見ているだけだ。
――違和感。
個人個人がどこか隔絶されているような、同じ空間にいるのに空気が共有されていないような…そんな変な気分に陥った。
お互いに遠慮をしているのか、それとも無関心か。
いずれにしても本人らの心がとても掴みにくい。
…本城家は、どこか異質だと感じた。
「ねえ、父さん。」
―と、おもむろにお兄さんが口を開いた。
「…父さん、母さんは?」
「ああ、今、買い物に行ってるよ。そろそろ帰ってくると思うが…」
「ふーん。」
お兄さんはちらっと那津を見た。
俺もつられて那津の方を向くと、彼女はにこりと笑って、
「ふーん、そうなんだ。」
お兄さん同様、何気ない自然な一言を返す。
俺ですら息が一瞬つまったのに、彼女は冷静だった。
…思えばこの家に入ってからの那津はずっとこうだ。場の空気にすっと馴染む、印象に残らない発言ばかり。いつもの毒舌はどこにしまった、と思うくらい大人しい。
――だが、これが本城家での『那津』なんだろう。
お父さんもお兄さんも何も言わないあたり、この家に住んでいたころはずっとこうであったに違いない。
それが、まったく本心ではないくせに。
胡散臭そうに眺める俺の視線に気付いてか、那津はお父さんの方に視線を流し、そろそろ部屋に行きたい、と提案した。
「父さん、とりあえず荷物を部屋に運ばないと。」
「おお、そうだな。すまないね、国崎君、おしゃべりに付き合わせてしまって。」
「いえ、お気になさらず。俺も楽しかったですよ。」
「はは、その年にしちゃ随分落ち着いてるな、君は。大したもんだ。」
豪快に笑う初老の男性を横目に、俺と那津は席を立った。
階段を上っているとスイカを切るから、荷物を置いたら下に降りてきなさいとのお達しだ。
どうやら彼女のお父さんには好感触のようだ。
うん、すこぶる順調。
…何が、とは言わんが。
――
那津の部屋は階段を上ってすぐの、南向きの小さな部屋だった。
明るい日の差し込む部屋にはベッドに、小さな箪笥、勉強机、本棚など、部屋を構成する上で最低限必要なものしか置かれていなかった。
那津らしいといえば那津らしい、非常に殺風景な空間。
そこに荷物を置き、二人そろって、フローリングに敷かれた夏もののカーペットの上に腰を下ろす。
「はー、疲れたな。」
「お疲れさん。ごめんね、父さんの相手ばっかりさせちゃって。」
あぐらをかいた俺の正面に座った彼女が苦笑気味にねぎらう。
だが、那津の方にも相当な疲労の色がありありと浮かんで見える。
―疲れてるのは、そっちだろ。
彼女の方に視線をやった俺は、そのまま言葉に出した。
「いい、お前の方が疲れてんだろ?」
「え?」
「居心地悪そうだなと思ってな。」
実家なのに。
「…そう見えた?」
「俺には、な。」
正直にそう言うと、『そっか、』と彼女はぼんやり呟いた。
「やっぱりなあ…聖悟には敵わないよね。」
「敵うと思う方が間違いだ。」
「言うね。」
那津はまた苦笑を洩らした。
―季節は真夏。外は雲ひとつない快晴。
ジリジリと地面を焼く太陽に、うるさい蝉の鳴き声。遠くの方でちりん、と風鈴が鳴ったのが聞こえた。
本当に疲れているらしく、それきり窓の風景を眺めているだけの那津。
できればその様子をずっと見ていたかったが、俺は沈黙を破り、ずっと聞きたかったことを口にした。
「…やっぱり、嫌だったか?」
「………。」
――実家に戻ったこと、後悔しているか、と。
きっかけは本城唯月の訪問だが、最終的に無理矢理ここまで連れて来たのはこの俺だ。
それも、俺のエゴで。
それが、那津の負担に――過去を抉ったり、負う必要のない傷をつけてしまったりしているのだとすれば。
…俺は全力で謝らなければならないだろう。謝って済む問題でもないが。
じっと那津を見つめる俺。
―が、那津の方はしばし目を瞬かせた、と思えば、薄く笑って静かに首を振った。
「…本当のことを言っていいぞ。今は俺しかいないし。」
「いや、本当だよ。どうせ帰ってこなきゃいけなかったわけだし、わざわざここまでついてきてくれた聖悟には感謝してる。」
「…本当だな?」
「うん。」
那津は俺の方を見て、ふわりと笑った。
「来てくれてありがとう。」
…なんとも嬉しいことを言ってくれる。
こんなに素直で殊勝な態度の那津はかなりレアだ。
もし下宿にいたなら、即効で抱きしめてるレベルだ。いや、現在進行形で抱きしめたい。
ああ、くそ。可愛い。
「ああそうだ。聖悟、ついでにこれだけ言っておくよ。」
「…なんだ?」
―が、緊張で張り裂けそうだった脳内が一気に桃色に変色し、
行動に移そうかどうか決めあぐねている時、那津は思いついたように言った。
「あの人のことは悪く言わないであげて。」
「―は?」
どくん、と心臓が鳴る。
ついでにしてはあまりにも重い発言に、俺はしばし固まった。
「君がここに来た目的くらい、馬鹿でも分かるよ。あの人に会って話すんでしょ。私のことで。」
「………。」
図星をつかれ、黙る。
いや、全く気付かれていないとは思っていなかったけど、ずばり的中だ。
―とすると、俺がこの後やることも分かってるのだろうか。それを見据えたうえでの、警告?
いくら那津の頼みでも、そんなもの。
「…そんなの聞けるか。」
「聖悟…」
「俺は俺の勝手にする。お前の言うことは聞かない。」
『変わりたくない』と言った那津にとって、『母親』は最重要人物だ。
過去を作ったそのファクターごと、もしかしたら触れられたくないのかもしれない。
でも、そんな悠長なことはもう、やってられない。
――悪いが、気が短いもので、な。
ガキみたいにふいっと顔を逸らしてやると、那津は片手で頭を抱え、大きく息を吐いた。
「あのね、聖悟。別に私はあの人を憎んでるわけでも、どうにかしたいって思ってるわけでもなくて……」
「嘘つけ。」
「本当だってば。」
まるで聞きわけのない、問題児のような俺相手に、
那津は、口の端を少し上げて小さく笑った。
「だって、あの人は――」
――




