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冬の涙、春の恋  作者: 赤良狐 詠
現代A(忘却)

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行きつけのお店

 二人は大学を後にして大通りの脇道にひっそりとある小さなレストランが二人の目的地だった。大学から徒歩にして十五分ほどの道のりで、隣駅に近い場所に位置するこの小さなレストランは美幸の行きつけらしい。

 何度か誘われていたが、何だかんだと理由を付けてしまい、結局一度も来たことはなかった。


 白い外壁に張り付いた木造の頑丈そうな扉を開けるとベルがカランカランと鳴っていた。扉に備え付けられたベルの音で、白髪交じりの女性が笑顔で出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ、あら美幸ちゃん、いらっしゃい、お好きな席へ座ってね」


「ありがとうございます」


 さすが常連だなと春は感心し、馴染みのお店で名前を覚えてもらうというのは羨ましいとも思った。


「あの人がホールに出ている奥さん、キッチンで調理しているのが旦那さんなんだよ」


 美幸は春に説明しながら奥の座席へ向かって歩き出した。


「へぇ、夫婦でやっているんだね。何かロマンティックだねー」


「そうでしょ。それにとっても優しい人たち」


 そう口にして足を進める美幸の後について春は店内を見渡した。お店に入ってからすぐにカウンタバーがあり、ワインやウィスキーがずらりと並んでいた。店内にはピアノとギターが置かれており、夜はバーでもやっているのかなと思った。


 店内には鼻から吸い込まれる食欲を掻き立てる香しい匂いが充満していて、これから出てくる料理への期待を高めてくれる。二人は表の通りが見える小窓が並ぶ革のソファーの席に向かい合って座った。


 二人が席に着くと、奥さんがお冷とフォークやナイフなどが入ったバスケットを持ってきてくれた。


「いらっしゃい美幸ちゃん」


「ありがとうございます静江さん」


「はいどうぞ」


 静江は春に目配せしながらコップをテーブルに置いてくれた。


「静江さん、友達の春です。一緒に上京してきた高校からの友達なんです」


「春です。素敵なお店ですね」


「あら、ありがとう。お決りになったら呼んでくださいね」


 そのあとすぐ水がたんまりと充填されたワインボトルも添えられた。おしゃれですねと春が声を掛けると、静江は嬉々とした表情になり、ありがとうございますっと会釈してまた厨房の方へと戻っていった。


 メニューを見れば洋食を中心に美味しい世界が広がっていた。お冷で喉を潤しながら春は視線を上げて美幸を見ればすでに注文する品が決まっているのか、彼女はメニューを開くことなく春を待っていたのだった。


「あれ? みぃーちゃん、もう決まってるの?」


「うん、ビフテキだよ」


「ビフテキ? あぁ、これ? ふーん……みーちゃん、ビフテキって何?」


「ビーフステーキ」


「あぁ、なぁんだ、ステーキのことか。うーん――いつもビフテキ?」


「ううん、週四で通ってるけど珈琲セットだけ頼んで読書したり、濃い物食べたいなって時にはグラタンを注文したりしてる。ここで注文するのは、自分で作れないものを注文するの」


「ふーん、そっかぁ、自分で作れない物かぁ。ビフテキって作れないの?」


「この店の味は、私には再現できないから」


「ふーん、じゃあ、わたしもビフテキにする」


「じゃあ――すいません」


 静江はニコニコしながらこちらへ向かいつつメモを取り出した。彼女へ美幸が二人分の注文を伝えてくれた。ランチタイムのサービスでドリンクが食前と食後に付いており、春はアップルジュース、美幸はオレンジジュースにして食後は二人とも珈琲にした。


 食前の飲み物は前菜と共にすぐ席へ届けられた。チェーン展開をしている大手のレストランの小さなコップではないのが新鮮で、前菜には緑を覆うように白に小さな黒い点々のソースがタップリと掛けられ、それがご飯茶碗ほどの大きさなのには仰天した。


 美幸は何度も通っているからなのだろうが、一切動じることなくバスケットからフォークを手に取り前菜を口に運び始めた。


 それを見て、春も前菜を食し始めた。食生活が乱れている春が久しぶりの野菜を胃袋に摂取させると思わず声を出した。


「あ、これ美味しい!」


 そう口にした春を美幸は動じることなく、流れ作業のように前菜を口に入れ続けていた。二人が前菜を食べ終わるまでにした会話はほとんどなかった。美味しい食事は人を黙らせると言うが、このお店の料理がまさにそれだろうと思う。主食がビフテキが非常に楽しみである。


 しかし、朝食を抜いていたから無心に前菜を貪り食べてしまったからだという考えには春は至らなかった。


 前菜を綺麗に平らげた美幸が置かれていたナプキンで口元を拭きながら口を開いて、春っと名前を呼んだ。


「少しは気持ちが落ち着いた?」


「うん、ありがとみーちゃん。おいしいお料理食べたら、何だか良くなった」


「なら、良かった。でも具合が悪い時は我慢しないで早めに云って。春のこと、私が守ってあげるから」


 そう云った美幸は春のことを心配している様子だった。


 美幸は春の前だけには表情を作って感情を表現してくれる。普段は春以外の人には無表情で何を考えているか困惑する人が多い。

 美幸が無表情でいるので、入学当初はいつも一緒にいる春に美幸は何かに怒っているのかと良く聞かれたものだ。

 それしても中学では話したことすらなかったが、高校で話すようになり、次第に互いの家に行って遊ぶ仲になった。そして、いつからか、美幸のことを綺麗な人だと思っていた。


 一緒の大学を受験して合格し、一緒に通うことになり、借りているアパートも近所で、受講を逃してしまった講義のレジュメはお願いをすれば必ず見せてくれる。通い始めの時は部屋まで迎えに来て通学していたくらいだ。


 春がそうした思い出を何気なく振り返っていたら、中学時代の教室が思い浮かんだ。窓の外は桜の花弁が舞っている。その時に、美幸は今と同じ言葉を云ったはずだ。彼女はあの時も「私が守ってあげる」と云っていた気がする。


「あれ、何だか不思議な感じがする。これってデジャブってやつかな?」


「デジャブ? 何が?」


「あのね、さっきみーちゃんが云った私が守ってあげるって言葉、前にも何処かで私に云ってくれたことある?」


 そう云った矢先、春は美幸が今まで見せたことのない怪訝な面持ちになり、睨んでいるとさえ思った。


 しかし、自分にそんな表情を見せたことはなかったっと思っていたが、この表情もいつか何処かで見た気がした。


 美幸の春を見つめるその顔は中学、高校時代のあだ名を口にする同級生たちに向けられたのと同じものだった。


 そのあだ名を聞いた瞬間、春でさえ、自分事のように血液が全て湧き上がる程の嫌悪感を隠すことができなくなる。


 その時に見せる顔に似ている気がした。


「春……駄目……」


 強く端的な言葉を口にした美幸の表情は険しかったが、憤怒を纏った目には涙が溜まっているように見えた。それは春の空が時折見せる灰色の雲から滴る、透き通った雨に似ていた。

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