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冬の涙、春の恋  作者: 赤良狐 詠
道徳(共鳴の羽・支配の影)

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22/24

少しだけ恐い(後篇)

 夜の寒さがあるうちはまだ春を感じられていた。しかし、気温の急激な上昇によって、春は唐突に終わりを告げてしまった。

 四月初旬なのにもう暑苦しく、髪が長いので少し蒸れるし、さらにはスーツでいることに苛立ちが沸々と蓄積していく。


 太陽が空に顔を出している時間も長い。恵里は腕に巻き付けた時計に目を向けた。もう六時半くらいだというのにまだ陽が沈み切っていない。


 この時間なら春は部活動を終えて帰宅しているだろう。待っている春のことを思うと無意識に足早になる。

 今日は冷蔵庫にあるもので何を作るか、そもそも何が入っているのか気が滅入って思い出せない。


「ふぅー」


 怒りが溜息になって絞り出された。コツコツと鳴る自分の靴音が一定の間隔で続く。ふと視線を周りの住宅に向けた。


 ほとんどの家の明かりが灯っていて、すでに家族団らんが始まっているところもあるだろう。そこにどんな家族がいるのかは知らないが、うちのようなことになっている家は少ないだろう。


 そんな卑下する思考をしてしまい、少しばかりの羨望が胸を締め付けてくる。顔を占めていたら、前の方から母娘が仲睦まじく手を繋いで歩いてくる。


 娘の方は恐らく幼稚園か小学校低学年くらいだろう。あれぐらいの年には、もう春の手を握って歩くことはしなくなってしまったことを思い出し、気鬱をさらにこじらせてしまった。


 苛立ちから色々考えが巡ってしまい、いつの間にか家の近くまで来ていた。二人住まいには広すぎる戸建ての玄関を開けた。

 通路の先のキッチンから香しいスパイスの匂いが玄関まで漂ってきた。今日はカレーか。そう思ってから声を出した。


「ただいま」


「ママお帰りなさいっ! お仕事お疲れ様でしたっ」


「うん……」


 キッチンから顔だけを出した春がえくぼを作って出迎えてくれた。


「もうご飯、作ったの?」


「もちろん、ママ疲れてるでしょ? これくらい私に任せてよ」


「ふぅー……もうできる?」


「うん、もうすぐできるよ」


「着替えてくるわ」


「はーい」


 寝室に入ってドアを閉めて、無造作にスーツを脱ぎ捨てる。目を閉じて今日の仕事での一日が走馬灯のように走り去る。

 瞼を開けて視線を移すと、そこにはくたびれた自分が映し出された姿見があった。若かった頃にはなかった皴や白髪が目立つようになっている。


「ふぅー」


 忙殺されそうになる日常に、また苛立ちの籠った溜息が吐き出された。


「先にシャワー浴びるけど、いい?」


 キッチンの方へ声を掛けた。少し間があったが、明るい声が返ってきた。


「いいよー。行ってらっしゃい」


 寝室を出てから真っ直ぐ浴室に向かった。廊下に出た時、カレーの匂いに胃が反応して音を出した。


 シャワーを浴びながら、考え事を始めた。春はいつからこんな風になったのだろうか。

 よくできた娘になったと思う。仕事をし始めた自分が忙しい時には、母が来てくれることもあるが、今日のように夕飯を作ってくれると気がある。


 今日、遅れることは連絡していなかったのに、もう夕飯を買ってきて作り始めていた。気が利くというより、自分がしてほしいことを先回りしてやっているように感じることがたまにある。


 学校での生活態度は良好で、成績も上位。若い頃の自分に似ていて、綺麗に育っている。でも、自分が中学時代ではやっていなかった家事手伝いをしてくれる。


「汗流せた? もうできてるから、すぐに食べる?」


「お願い……」


 少しだけ……。


「どれくらい食べれる? 少なめにして、良かったらお代わりもしてね」


 何だか変に大人びているというより、計算高いように思えることがあり……。


「いただきまーす」


 少し怖い……。


「ねぇママ? 今度、土曜日に友達と四人でカラオケ行こうって話してるんだけど――」


「友達って誰? それって男?」


「ううん、みんな女だよ。男なんているわけ――」


 脳裏に元旦那の顔が浮かんだ――。


「そう言って嘘吐いて男の子と遊んだことあったでしょ!」


 急に怒鳴りだした恵里に、春は大きく目を見開いて一瞬強張ったが、すぐにいつも通りの笑顔に戻った。


「もうそんなことしないよ。ママが嫌なこと――わたしはしないから」


 最近、本当に自分でも制御できないほど沸点が低いのか、急にイライラを春にぶつけてしまう時がある。反省しなければいけないと思いつつ、どうにも怒りの感情を抑えることができない。


「じゃあ、行ってもいいけど、その日に遊ぶ友達の写真、その場で撮って送りなさい」


「分かった。ありがとママ」


 どうして怒っている表情を崩していないのに、自分の娘は普段と変わらぬ口調で話すことができるのだろう。


「ごちそうさま」


「あっ! ママ、そのまま置いておいて。後片付けは任せて!」


「うん」


 いつからだろう。前の旦那のように感謝の言葉を人に言えなくなってしまったのは――


 いつかだろう。娘のことを嘘吐き呼ばわりし始めたのは――


 何も考えたくないと思いながら、恵里はテレビを付けて、ただ眺めていたら、いつの間にか寝ていた――。


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