第二十九章 二人の犯罪者
二〇〇七年三月十六日金曜日の朝。山梨県警の捜査本部からの連絡を受けた京都府警は、早速重要参考人であるタクシー運転手・田向貴史の身柄確保に動き始めた。会社に問い合わせると、タクシー運転手の田向はこの日も業務に就いており、京都駅前で客待ちをしている事がわかった。
この情報を受け、京都府警刑事部捜査一課の中村恭一警部と三条実警部補の二人は、覆面パトカーで京都駅北側正面の烏丸中央口近くにあるタクシー乗り場へ向かっていた。目的はたった一人のタクシー運転手に対する任意同行の要請であるが、事件の内容が内容だけに、府警本部捜査一課の腕利き刑事である彼らが直接出向く事になった次第である。朝の京都駅はちょうどラッシュアワーの時間であり、会社員、学生、国内外の観光客など多くの人たちが行き交っているのが見える。
「……いた。あそこだ」
と、助手席に乗っていた中村がそう呟き、運転席の三条がハンドルを切ってタクシー乗り場へと向かう。田向が運転している車両と同じナンバーのタクシーがタクシー乗り場の一角に停車しており、その近くで初老の運転手が別のタクシー運転手と何か世間話をしているのが見えた。三条は近くに覆面パトカーを停め、そのまま二人の話が終わるのを根気よく待つ。
やがて五分ほどして、もう一人の運転手が手を振りながら自分のタクシーへと戻って行った。そして、田向と思しき運転手が自分のタクシーに戻ろうとする瞬間を見計らい、二人は覆面パトカーを降りて彼の元に歩み寄った。運転席のドアに手をかけていた田向はそこで初めて中村たちに気付いたようで、ギョッとした様子で動きを止めて近づいてくる二人を見つめている。
「田向貴史さんですね?」
中村が話しかける。相手は警戒しつつも、慎重な口調でゆっくりと応じた。
「そうですが、あなたは?」
「京都府警の中村です。田向さん、少しお話を聞かせて頂きたいので、同行して頂けませんか?」
中村は警察手帳を示しながら告げる。その言葉を聞いて、田向の顔色が一瞬変わったのを、背後の三条は気付いていた。
「警察って……私が何かしたっていうんですか?」
「実は、十年前の件についてお話を聞きしたいのです」
「十年前?」
「そうです。十年前、山梨県の丹波山村近くを登山中だったあなたが一人の少女を発見した件について」
今度は明らかに田向の顔色がはっきりと変わった。
「な、何で今になってそんな昔の事を……」
「改めていくつか再確認したい事ができましてね。お願いできますか?」
「こ、ここで話すのでは駄目なのですか?」
引きつった声で抵抗する田向に、中村は事務的に答える。
「そうしたいのはやまやまなのですが、かなり時間がかかる事が見込まれますので、署でお聞きした方がよろしいかと」
「……そもそも、これは任意ですよね?」
「えぇ、確かに。ですが、応じて頂けないというのならば、こちらもそれ相応の対処をする事になります。我々としてはそれでも構いませんが、困るのはあなたの方では?」
有無を言わさぬ言葉だった。が、田向はそれでもまだ言い訳を続ける。
「いや、しかし、車をここに置きっぱなしというわけには……」
「こちらで駅の駐車場にでも置かせて頂きます。そういうわけですので、鍵をお預かりしたいのですが、よろしいですか?」
「……」
ついに田向は黙り込んだ。中村は慎重に田向に近づき、彼を覆面パトカーの方へと連れて行こうとする。が、次の瞬間だった。
「く、くそっ!」
不意に田向は短くそう叫ぶと、中村たちを振り切るようにしてタクシーの運転席に乗り込み、中村たちが彼を引きずり出すよりも前にエンジンをかけてその場から逃走を図った。タクシー乗り場を飛び出した田向のタクシーはそのまま猛スピードでラッシュアワーの駅前通りに突っ込み、他の車両や通行人たちを縫うように避けながら烏丸通を北へ向かって暴走し始める。
「あの野郎!」
中村たちはすぐさま覆面パトカーに飛び乗り、烏丸通を暴走するタクシーをサイレンを鳴らしながら追跡を開始した。朝の京都を舞台に突然始まったカーチェイスに道行く人々は目を白黒させていたが、車道の方ではタクシーを避けようとしたり接触したりした車両があちこちで急停車しており、ちょっとしたパニックが起こっていた。
「逃がすか!」
助手席で中村が無線で本部に応援の要請をしている中、三条は巧みなハンドルさばきでタクシーを追尾していく。それに気付いたのか、タクシーは京都市の中心部にある四条烏丸交差点に進入すると、そこで大きくカーブするようにして右折し、四条通を東へ向かって逃走し始めた。沿道を歩く観光客たちから悲鳴が上がり、タクシーは走ってくる一般車や市バスに時折接触しながらもスピードを緩めずに走り続ける。
『暴走車が通過! 注意してください! おい、止まれ!』
中村が拡声器で周囲に警戒を呼びかける中、タクシーは大手百貨店の目の前にある四条河原町交差点に進入し、そのまま直進して五条大橋方面へ向かおうとした。が、すでに連絡を受けた他のパトカーがこの交差点で五条大橋方面へ続く道を封鎖しており、それを見たタクシーは急ハンドルを切って左折し、今度は河原町通を北へ向かって逃走を継続する。
京都有数の繁華街である河原町通のあちこちで悲鳴が響き渡る中、タクシーはさらにスピードを上げて逃走を図ったが、少し進んだ三条河原町交差点直前で、北の京都市役所方面から応援のパトカー数台がこちらに向かって走ってくるのが見えた。このままでは挟み撃ちになると考えたのか、タクシーは三条河原町交差点を右折して三条通に入り、鴨川にかかる三条大橋を突っ切ると、京阪三条駅前を通過してそのまま三条通を東進し続ける。が、地下鉄東山駅を少し過ぎた辺りで何を思ったのか不意に左折し、神宮通を平安神宮方面へ向かって北上していく。その間、三条たちのパトカーはあちこちで急停車する一般車両を避けながら、ピタリとその後を追尾し続けていた。
「くそっ、よりによって観光客が多い所へ向かって……」
やがて正面に平安神宮の大鳥居が姿を見せ、タクシーはスピードを緩める事なく大鳥居をくぐりぬける。だがそのすぐ先は平安神宮の正面にある岡崎公園の敷地で、公園の直前で二条通と交わるT字路になっているため、直進する事はできなかった。
「どっちへ曲がるつもりだ?」
そう言いつつも、よもや、そのまま直進して多数の観光客がいる岡崎公園の敷地内に突っ込むのではないかと中村は危惧したが、さすがの田向もそこまで非道な事はできなかったらしく、T字路でスピードを落とす事なくハンドルを切って左折し二条通に入った。このまま二条通を西へ一直線に進めば、二条大橋を渡って再び京都市の中心部に突っ込む事になる。一瞬それを心配した中村であったが、次の瞬間、予期せぬ出来事が起こった。
「あっ!」
運転していた三条が思わず声を上げる。岡崎公園前のT字路を無理やり左折して二条通に進入したタクシーだったが、その際にバランスを崩したらしく、そのままみやこメッセ前の歩道目がけて突っ込んでしまったのだ。幸い、歩道を歩いていた通行人たちは突っ込んできたタクシーを必死に避けて巻き込まれずに済んだようだが、タクシーはそのままみやこメッセ前の植え込みに突っ込み、そこでようやく動かなくなった。三条はみやこメッセ前の路肩にパトカーを急停車させ、すかさず助手席の中村が飛び出してタクシーに駆け寄っていくが、その直前、運転席から田向が飛び出してきて、そのまま徒歩での逃走を図ろうとした。
「田向、待て!」
中村の叫びに応じる事なく、田向は集まってきた野次馬たちを押しのけながら、どういうつもりなのかそのままみやこメッセの中へ逃げ込もうとする。が、中村はそんな田向の背中にタックルすると、みやこメッセの中に入ってすぐのロビーでそのまま床に組み伏せ、メッセの利用者たちが何事かとざわめく中、なおも暴れ続ける田向に大声で宣告した。
「田向貴史! 道路交通法違反、及び公務執行妨害の容疑で現行犯逮捕する!」
その言葉と同時に、田向の手に手錠がかけられる。その瞬間、田向はようやく抵抗を諦めたのか体の力を抜いて暴れるのをやめ、どこか気が抜けた様子でその場ですすり泣きを始めてしまった。そこへ遅れて三条も駆けつけ、さらに応援のパトカーのサイレンも続々集まってくるのが聞こえてくる。
「やってくれたな。これだけ派手にやっておいて、ただで済むと思うなよ!」
中村の言葉に対し、しかし田向はその場でうなだれたまま、答える事はなかったのだった……。
身勝手な暴走で京都の街をパニックに陥れ、公務執行妨害及び道路交通法違反の容疑で現行犯逮捕された田向貴史はそのまま京都府警本部に連行されて取り調べを受ける事となった。それでも当初、田向はかたくなに黙秘を続けていたが、様子が変わったのは中村が山梨県警の捜査本部から送られて来た新たな情報を提示した瞬間からだった。
「十年前、あんたは山梨県警の取り調べに際し、月村杏里が乗っていた鳩野観光の夜行バスが失踪した事件の当日に、バスの失踪現場である釈迦堂パーキングエリアに寄っていないと証言している。今もその答えに間違いはないか?」
中村の追及に、田向は虚ろな目をしながらも、相変わらず黙秘を続けて何の反応もしなかった。が、中村はその状態の田向にさらに切り込んでいく。
「いいだろう。黙秘するというのならそれはそれで構わない。ただ、その代わりこの写真を見てほしいのだがね」
そう言って中村が差し出したのは、十年前、釈迦堂パーキングエリアに仕掛けられていた防犯カメラの映像の一部を拡大したものだった。
「これは十年前、問題のバスが釈迦堂パーキングエリアに停車していた時間帯の防犯カメラ映像の一つだ。もっとも、この映像を映したカメラには残念ながら問題のバスの姿は映っておらず、それ故に今まで大した手掛かりにはなっていなかったのだがね」
「……」
「ところで話は変わるが、ここ数年は十年前と比べて鑑識の画像解析の技術も上がっていてね。当時わからなかった色々な事が新たにわかるようになっているのだよ」
「……」
「この映像のここに映っている男……どう見てもあんたに見えるんだが、私の気のせいかね?」
中村は低い声でそう言いながら、写真の一角を指し示す。そこには確かに、薄暗い外灯に照らされるようにして田向とよく似た男が複数人でバスの方へ向かってパーキング内を歩いている姿が映っていた。
「もう一度聞く。ここに映っている男、あんたじゃないかね?」
中村の追及に対し、田向は顔を青くしながらも緩慢な動作で首を横に振った。
「違うのかね?」
「……」
「そうかね。ところで、こっちは同じく十年前、月村杏里を発見した丹波山村近くで行われた現場検証の様子を警察が撮影した写真でね。そこには発見者として現場検証に立ち会ったあんたの姿も写っているわけだが……」
そう言いながら中村は問題の写真に写っている田向の姿を指示し、さらに先程の防犯カメラ映像に映る田向らしき男の姿と指を何度も往復させた。
「不思議な話だね。映像の男と事件当時のあんた……服装も全く同じに見えるんだがね」
「っ!」
その指摘に、田向は息を飲んで反射的に写真から顔をそむける。それを確認した上で、中村は一気に畳みかけにかかった。
「顔も似ているし服装も酷似。これでもまだよく似た別人だとでもいうのかね?」
「……別人、です」
ようやく田向がか細い声でその一言だけを発する。が、その瞬間、中村は鋭い声で田向を一喝した。
「とぼけるのもいい加減にしろ! 十年前ならともかく、今は映像から個人を特定するのはそう難しい話じゃないんだぞ! 歩容解析といってな。映像に映っている人物の歩き方の差異から個人識別ができるようになっているんだよ!」
そう言うと、中村は机の引き出しから鑑定書を取り出して田向の前に突きつけた。
「その歩容解析の鑑定結果は出ている。この映像に映っている人物とあんたの歩き方が一致したそうだ。これでもあんたはバスが失踪した当日に釈迦堂パーキングエリアにいた事を否定するつもりなのかね?」
田向は体を震わせて縮こまるような仕草を見せたが、それでも黙秘を続ける。が、中村はそれを気にする事なく話を先に進めた。
「さて、この映像に映っているのがあんただとしてだ、そうなると更なる問題が浮上する。見ればわかるが、この映像に映っている『あんた』は複数の人間と一緒に歩いているわけだが、こいつらは一体誰なんだ?」
「……」
「ま、黙秘しても構わんよ。こいつらの正体はある程度わかっているからな」
そう言って、中村はその男たちの顔を拡大した写真を示す。
「こっちの男が名古屋の空調整備会社勤務の大竹義之。そしてこっちが同じく名古屋の土建会社勤務の富石雅信。この名前に聞き覚えは?」
「……」
「まぁ、いい。ただ、この二人を知っているとなると少し問題でね。実はこの二人、この映像に映ったのを最後に今日に至るまで行方がわからくなっている。大竹についてはすでに失踪宣告が出ていて法的には死亡扱いになっているが、こうして手掛りが見つかった以上、我々警察としてはその真相について追及しなくてはならないわけでね」
「……」
中村は鋭い視線を田向に向けて追及する。
「はっきり聞こう。十年前のあの日、あんたはこの二人と釈迦堂パーキングエリアで何をしていた? そして、この二人に何があったんだ? 二人の失踪直前まで一緒にいたあんたは、当然この質問の答えを知っているはずだが」
「……」
「まさかとは思うが、田向、あんたがこの二人の失踪に何か関わっているんじゃないだろうな? もっとはっきり言えば、この二人を殺したのは……」
「ち、違うっ!」
突然、田向は机を叩いて立ち上がりながら叫んだ。が、中村はそんな田向の様子を余裕を持って見つめ、田向もハッとした様子で固まってしまう。
「何が違うんだ? 言いたい事があれば遠慮なく言えばいい」
「いや、その……」
「もう一度聞くぞ。あんた、この二人を知っているな?」
直後、田向は体を大きく震わせ、そのまましばし時が流れたが、やがて田向はがくりとうなだれると、力なくパイプ椅子に座って振り絞るような声を出した。
「……知っています」
「十年前のあの夜、釈迦堂パーキングエリアにいた事を認めるか?」
「……認めます」
これだけの証拠を突き付けられて、ついに田向は落ちた。中村は、先程とは打って変わって慎重に質問を重ねていく。
「では、あの日、あんたは釈迦堂パーキングエリアで大竹たちと一緒に何をしていた? そして、なぜそれを今に至るまで隠そうとしていた?」
「……」
「問題なのは、あんたたちが釈迦堂パーキングエリアにいた時間帯、同じパーキングエリア内にこの後失踪するバスが停車していた事だ。そして、あんたはそれから数時間後にそのバスに乗っていた月村杏里という少女が丹波山村近くの山道を歩いていたのを『偶然』発見しているわけだが、これは果たして本当に『偶然』なのかね?」
「……」
「いい加減、はっきり答えたらどうなんだね!」
その瞬間、田向がかすれたような声を漏らすのを、中村ははっきり聞いていた。
「……何で……何で十年も経った今になって……今になってばれてしまったんだ……」
それは、事実上の自白ともとれる発言だった。中村は威圧感を込めた低い声で問いかける。
「改めて聞かせてもらうぞ。あの日、お前たちが何を計画して何をし、そして実際に何があったのか」
中村の剣幕に、田向は顔を真っ青にしてしばらく何か呟いていたが、やがて力なくボソボソと事の次第を話し始めた。
「……十年前のあの日、私は大竹や富石と一緒になって、あの鳩野観光の夜行バスを襲撃する計画に参加しました」
「バスを襲った目的は何だ?」
「……どうせ、警察はわかっているんでしょう? わかっているからこそこうして今になって私を追及しているんじゃないですか?」
田向はどこか自嘲気味にそう言ったが、中村は表情を変えず、無言で田向の答えを待つ。それに耐えきれなくなったのか、田向はか細い声で真相を告白した。
「……あの夜行バスに乗っていた森永という男を襲い、奴の持っていた金を奪うためです」
「その金は、森永が名古屋市内で現金輸送車を襲って強奪したものだな?」
「はい」
「つまり、あんたたちは少なくとも森永が現金輸送車襲撃犯の一人だという事と、その森永が犯行後に夜行バスで東京方面へ逃走しようとしていた事を知っていた事になる。間違いはないかね?」
「ありません」
「その経緯について教えてもらおうか」
事がここに至り、田向はもう何も隠すつもりはないようだった。
「……きっかけはあの事件が起こる少し前、大竹が急に私の前に現れて、ずうずうしくも株に使うための金を貸してくれるよう要求した事でした。どうも私が銀行員をしている事を知って目を付けたようですけど、私はその要求を拒否する事ができなかったんです」
「拒否すればよかったじゃないか。聞いている限り、大竹の要求はあまりにも無茶苦茶だ。普通、そんな無茶苦茶な要求を呑む人間はいない。おまけに、お前と大竹は同じ学校の先輩と後輩という以外に繋がりらしい繋がりもなかったはずだ。そんなほぼ初対面の人間にいきなり金の無心をするなんて、あまりに常識外れと言わざるを得ない」
「……」
「それとも、拒否できない理由が何かあったのか? 大竹の方も、何か勝算があったからこそあんたに対してそんな無茶苦茶な要求をしたんじゃないのか?」
中村の鋭い問いかけに、田向はもはやこれまでと言わんばかりにこう答えた。
「あいつは……私の弱みを握っていました。絶対に表に出てはならない弱味です」
「その弱味というのは?」
「……高校時代の話です。私は……私は、一人の女の子を死なせてしまったんです」
それは、ある意味予想された答えだった。やはり、大竹と田向の繋がりはそこにあったのである。
「詳しく話してみろ」
「……あれは忘れもしない、私が高校一年生だった頃、一九七二年の十月のある日の事でした」
そう前置きして、田向は自身が「少女を死なせた」経緯をポツポツと説明していく。
「私の通っていた高校の敷地に隣接して、古い農業用のため池がありました。その池の畔はちょうど学校の建物の死角になっている場所で、生徒たちが先生たちの目を盗んで何かをする時によく利用している場所だったんです。そこで……そこで私は、ある先輩と取引をしていたんです」
「何の取引だ?」
まさか薬物か何かかと一瞬険しい顔を浮かべた中村だったが、田向の答えは予想外のものだった。
「て、定期考査試験の問題の横流しです」
「試験問題の横流し?」
「はい。その先輩が盗んで来た次の定期考査試験の問題を、金銭で裏取引していたんです。問題さえわかれば、次の試験で高得点を取る事ができますから」
「それで? それがどうして女子生徒を死なせることに繋がってしまうんだ?」
田向は口ごもりつつも、話を続ける。
「あの日、試験問題を買ってその先輩が帰った後、私はそのまま池の畔で試験問題の確認をしていたんです。校舎内で確認するわけにもいかなかったし、一刻も早く内容を見たかったので。でも、そしたら……そしたらそこに、あの子がやって来てしまったんです」
どうやら、問題の池の畔で横流しした試験問題を確認していた所に、目的は不明であるが、被害者である二年生の女子生徒……水梨鮎江が偶然やって来てしまったらしい。
「彼女が一体誰で、そして何の目的であの池の畔に来たのかは今でもわかりません。ただ、見られてはいけない場面を見られてしまったのは確実でした。これが素行不良の生徒だったらまだ説得できる余地はありましたけど、彼女は見た限り真面目そうな子だった。もし、試験問題横流しの事実を教師にでも告げ口されたら、私は終わりです。苦労して入学した学校を退学しなければならなくなるかもしれない。そう考えたら頭が真っ白になって、そして……」
一度言葉を切り、この期に及んで一瞬再び逡巡した後に、田向はついに決定的な一言を告げた。
「そして、私は反射的に、彼女を池の方に突き飛ばしてしまったんです」
そこで大きく息を吐き、田向はさらに言葉を続ける。
「無我夢中でした。池に落ちた彼女は必死になってもがいていた。池は想像以上に深くて、しかも服に水が染み込んでいたせいで彼女は上手く泳げないようでした。後から考えると、この時ならまだ彼女を助ける事はできたかもしれない。直接池に飛び込んで助ける事はできなかったとしても、何か浮かぶものを池に投げ込んで先生に助けを求めるくらいならできたかもしれない。でも、私にとっては彼女に自分の悪行をばらされる事の方が耐えられなかったんです。判断は一瞬でした。私は……私は助けを求める彼女を無視して、その場から逃げ出してしまったんです。もちろん、彼女が池に落ちた事を誰かに伝える事もありませんでした」
そしてその後、水梨鮎江はそのまま池に沈んで溺死し、翌日になって池に浮かぶ遺体が発見されたのだという。
「幸か不幸か、地元の警察は彼女の死を事故と判断して、碌な捜査もしませんでした。慌てて逃げて証拠隠滅もしていなかったので、もし捜査されていたら私が犯人だとばれていたかもしれませんが、ちょうどその頃に県内のため池で同じような事故が立て続けに起こっていたらしく、この一件もその一つだと判断されてしまったみたいです。とにかく、私が彼女の死に関わった事はばれないまま時だけが過ぎていき、結局そのまま私は高校を卒業して、大学を出た後に名神銀行に就職する事になりました。あの日の出来事はしこりとなってずっと残り続けていましたが、少なくとも表向きは順風満帆な人生……のはずだったんです。あの日、大竹が私に声をかけてくるまでは」
そして、大竹はこの過去の悪行をネタに田向を脅迫して来たのだという。
「大竹はあんたが水梨鮎江を池に突き落とした事を知っていたのか?」
「直接見たわけではないようですが、私が犯人である事は確信していたようでした」
その時の大竹の話によると、事件当時、大竹は偶然池の近くにある校舎裏の辺りを歩いており、その時に池の方から顔色を変えて校舎の方へ走っていく田向の姿を目撃したのだという。その時は少し不審に思っただけでわざわざ池の方を見に行くような事もなかったらしいのだが、翌日になって池で女子生徒の遺体が見つかったという話を聞き、誰も事件当時に池に行ったと名乗り出ない状況を見て、もしや自分の見たあの男子生徒が何か事件に関係しているのではないかと考えたようだった。
「あの男は一年生の男子生徒を調べて、その時の生徒が私だと突き止めたようでした。しかし、その時よりも将来になって私に守るものができた時にこの事実を突きつけた方が効果があると小賢しくも考えたらしく、その場では私にこの事実を突きつけるような事はしなかったんです。そしてそれから二十五年後、当時株のための大金を必要としていた大竹はこのタイミングを見計らって私に接触し、長年温めていたネタで私を脅迫したというわけです。実際、私は彼の言う事を聞くしかありませんでした」
そこまで一気に話すと、田向は首を垂れてうなだれた。いずれにしても、この高校の事件については今となっては田向を罪に問う事はできない。事件自体が三十五年も前の話であり、とっくに時効が成立しているからだ。だが、いくら時効が成立していて刑事罰に問われる事がなかったとしても、当時東海有数の老舗銀行の行員だった田向からすれば、こんなスキャンダルは表沙汰にされるわけにはいかなかったのだろう。
「それで? 高校時代の悪事をネタに金を脅されたあんたは、それからどうしたんだ?」
中村の追及に対し、田向は一瞬口ごもったが、やがて力ない口調でとんでもない事を告白した。
「……私が担当している顧客の預金口座から、金の一部を横流ししました。もちろん、大竹が株で儲けたら横流しした分の金を返してもらう事を約束した上でです」
それは、今まで発覚していなかった新たな犯罪の発覚だった。
「横領という事か」
「はい。そうするしか、大竹の要求に応える術がなかったんです。その口座は大金が預けられながら長年放置されていた休眠口座で、ある程度なら誤魔化せると思ったんです。その間に大竹が株とやらで儲けて金を返済してくれれば、その金を戻す事ができると思っていました」
「だが、大竹はその株で失敗し、多額の負債を抱える事になってしまった」
中村の指摘に、田向は唇を噛み締めながら頷く。
「えぇ。正直、本人以上に私が頭を抱えたくなりましたよ。何とか誤魔化してはいましたけど、あの時は緊急の内部監査が行われる寸前で、埋め合わせのためにも一刻も早く金を返してもらわなければならない状況だったんです。この横領がばれたら困るのは大竹も同じでした。横領が発覚して私が捕まったら、私の手元に横領した金がない事はすぐにわかる。そしたら警察は金の流れを追うはずで、大竹が浮上するのは時間の問題です。こればかりは、大竹がどれだけ過去の悪行をばらすと私を脅したところでどうにかなる話でもありません。だからこそ、大竹も私の金の返還要求を拒否する事はできなかったんです」
この時点で、いつの間にか大竹と田向の立場は逆転していたようである。そして、いよいよ一九九七年の事件当日の話へと進んでいく。
「……あの夜、私は金の返済催促のために当時所有していたバンで大竹の家を訪ねました。そしたら家には大竹の他に富石もいて、彼も大竹に金の返済を迫っている所だったんです。あの男に出会ったのはあの日が初めてでしたけど、立場は違えど、富石もまた私と同じ立場だという事はすぐにわかりました」
そして、田向と富石はその場でそれぞれの立場を確認し合い、「大竹から金を返してもらう」という同じ目的を持っている事がわかると、二人がかりで大竹を締め上げたらしい。さすがの大竹もこれには音を上げた様子で、その場で土下座しながら必死に「もうすぐまとまった金が入るはずだから!」と抗弁したのだという。
「その金の入手先というのが、現金輸送車の警備員をしていた小野崎靖樹だった」
「はい。話を聞くと、大竹が株で損をする前に金を貸していた相手だそうで、その小野崎に今すぐ金を返すよう詰め寄った所、今日にでも森永という男と一緒に仕事をして大金が手に入る予定だから、それまで待ってくれと言われたと必死に言っていました。他に手もなかったので、私たちは大竹の言葉を信じて、その小野崎という男が金を持って来るのをそのまま待つ事にしたんです」
「だがその夜、強盗事件で小野崎は殺されてしまった」
中村の言葉に、田向は頷いた。
「テレビのニュースでその事を知って、最初、私たちは三人とも意味がわかりませんでした。森永という男と協力して金を手に入れてくるという話が、業務中に強盗に殺されているわけですからね。でも、そのうち大竹が真相に気付いたんです。もしかして小野崎の言っていた森永という男が輸送車を襲撃した強盗で、小野崎は強盗の内通者の役割だったんじゃないか。そして、強盗の森永が小野崎を裏切って口封じ目的で強盗のどさくさで殺してしまったんじゃないかって」
それは、当時の小野崎の状況と森永という男の存在を知っていたが故にできた推理だった。
「どうして森永があの夜行バスで逃げようとしていた事を知っていたんだ?」
「大竹が空調整備の仕事で行った先にあの夜行バスのツアーを企画した会社があって、そこで問題の夜行バスに森永が予約の電話を入れたのを偶然聞いていたそうです。大竹は事前に小野崎から森永の名前を聞いていたので、この謎のバスの予約の事をずっと気にしていたそうですが、強盗事件のニュースを聞いて金を奪った森永がこのバスで逃げるつもりだと気付いたみたいです」
ここまでは山梨の捜査本部の推理通りだった。
「そこまで気付いたところで、お前たちは夜行バスで逃げようとする森永から強盗で奪われた金をさらに強奪する計画を立てた」
「えぇ。小野崎が死んだ以上、このままだと当てにしていた金が入って来ないのは確実でしたからね。言ってみれば、私たちが本来手にするはずだった金をそっくりそのまま森永に奪われたわけですから、その金を私たちが奪い返すのは当然の話だと思ったんです。それ以前に、三人ともここで金が手に入らないと非常に困った事になるという点は全く同じで、全員、何が何でも金を奪う以外に道がなかったという事もあります」
こうして、当の森永も気付かない所で「強盗から金を強盗する」という前代未聞の計画が始まってしまったわけである。
「とにかく、問題のバスに追いつけないと意味がありません。幸い、大竹が問題のバスの運行計画書もちゃんと覗き見していて、このバスが釈迦堂パーキングエリアで最後の休憩を取る事はわかっていたので、私たちは必要な道具を準備するとすぐに私のバンで中央自動車道から釈迦堂パーキングエリアに向かいました。そしてその車中で、大竹を中心に具体的な計画を練ったんです」
「その計画というのは?」
一瞬、言葉に詰まった田向だったが、中村に睨まれてすぐに言葉を紡ぎ始めた。
「……とにかく、森永から金を奪うにはどうあがいても問題のバスを乗っ取る必要がありましたが、日本の警察は優秀ですから、バスジャックを察知された時点で逃げるのは不可能だというのが三人の一致した意見でした。だから、警察にバスの乗っ取りがばれるまでの時間を稼ぐ必要があったんです。そこで大竹が立てた作戦が、乗っ取ったバスの位置を誤認させる作戦でした」
中村は黙って田向に先を促す。こちらの推測が正しいかどうか、田向の自白で確認する必要があった。
「その話し合いの中で、大竹と富石が実際のバス乗っ取りを行い、私が別動隊としてバンの運転を任される事になったんです。役割分担の基準は単純に、そのバンが私のものだったからというものでした。万が一警察に目をつけられた際に、他人の車を運転しているといらぬ疑いを抱かれる可能性がありましたからね」
「それで?」
「私たちは問題のバスよりも先に、釈迦堂パーキングエリアに到着する事ができました。そして、到着からしばらくして予定通りあのバスはやってきたんです。入口のドアが開くと、運転手が降りてきただけで、森永を含めた乗客は誰も出てきませんでした。それを確認した上で私たち三人がバンを出てバスに近づくと、入口のドアの所に運転手が一人、暇そうに立っているのが見えたんです。私たちはその運転手に話しかけて、適当な理由で彼をバンの傍までおびき出しました。そして……」
そこで不意に、田向は苦しそうな顔をして言葉を切る。
「そして、どうしたんだ? 何か言いづらい事でも起こったのか?」
「……」
田向は少しの間、何も言葉を発せずに体を震わせていたが、やがて全てを観念したかのように一際小さい声ではっきりと告げた。
「……私たちはその運転手をバンの中に引きずり込み、車内で首を絞めたんです」
瞬間、中村は鋭い視線を田向に向け、田向はその視線から逃れるように顔を逸らした。だが、殺人の自白だけあって、中村の言葉も厳しくなる。
「運転手を殺したという事か?」
「……はい。私と富石が体を押さえつけて、その間に大竹が思いっきり首を絞めました。死ぬまで五分もかからなかったと思います」
「その運転手の名前は?」
「わかりません。わざわざ確認したりしなかったもので」
何とも呆れた話である。
「凶器は?」
「大竹が用意していたロープです。それで事が済んだ後、私たちはすぐにまたバスに戻ろうとしました。すると、バスの中から中学生くらいの女の子が降りてきて、そのままトイレに走って行きました。私たちは物陰でそれをやり過ごした後、そのままバスに乗り込んだんです」
バスの車内を覗くと、他の乗客は全員ぐっすりと眠っていた。そして、大竹はバスの一番前の座席に座っていた小学生くらいの女の子に目をつけると、念のためにその女の子の口にクロロホルムを染み込ませた布を押し付けて意識を失わせ、周囲の人間に気付かれないようにその女の子をバンに移動させたのだという。状況的に、その女の子というのが月村杏里で間違いなさそうだった。
「そして、大竹と富石はそのままバスに乗り込み、富石の運転で釈迦堂パーキングエリアから出て行きました。それを確認した後で、私もバンを出発させたんです」
「トイレに行った女の子は待たなかったのか?」
「はい。余計な不確定要素は入れたくなかったので」
そのトイレに行った子というのが、当時中学三年生だった涼宮玲音だろう。
「事前の打ち合わせで、大竹たちは大月インターで降りた後、そのまま静岡方面へ向かう事になっていました。その間に、私はバンで逆に山梨県の北の方へ向かい、バスの失踪が発覚して警察が騒ぎ始める時間帯を見計らって、バンに乗せた乗客の女の子を山の中で見つけたとわざと通報する。そうすれば、警察は女の子が『見つかった』山梨県の北側にあのバスがいると考えて調べるはずで、静岡の方に向かっている本物のバスの存在に気付かないと思ったんです」
「あんたは、いわば囮役だったわけか」
「はい。それと、バンに乗せっぱなしになっている殺した運転手の死体を通報前に処分するのも私の役割でした」
「どこに隠した?」
中村の端的な質問に、田向は力なく答える。
「あの子を発見した事にした、丹波山村近くの山の中に埋めました」
これについては後で遺体の隠し場所を正確に聞き取る必要がある。もしその場所から実際に遺体が見つかり、その遺体の身元が失踪している運転手のいずれかの物であると判明すれば、この男を殺人容疑で再逮捕する事が可能となるはずである。
「計画では、バスの方は静岡に向かった後、どうするつもりだったんだ?」
「森永から金を奪った後、伊豆半島の南伊豆町の別荘地まで走ってからバスを捨て、そこにあるクルーザーを使って海へ逃げる事になっていました。富石が以前の会社にいた時にその別荘地の管理をしていて、そこにクルーザーがある事を知っていたんです。それに富石は船舶免許も持っていました」
「それから?」
「その後は、沿岸部のある場所までクルーザーで逃げて、警察から解放された後、数日後に私がそこへ迎えに行く事になっていました。私の方の計画は順調で、約束通りの日時に、私は間違いなくその場所へ行ったんです。ですが……どういうわけなのか、そこに彼らの姿はありませんでした」
そう、ここで何か『計画外』が起こったのである。
「バスの方で何があったか、あんたにはわからないのか?」
「わかりません。当時は携帯電話も今ほど普及していませんでしたし、一度離れると連絡の取りようがなかったんです。とにかく、大竹たちが乗ったバスは乗客もろとも行方不明になってしまい、金どころか乗客も含めた全員が忽然と消えてしまいました。私は正直、どうしたらいいかわからなくなってしまいました。計画では森永以外の乗客にこれ以上危害を加える気はなかったし、南伊豆町についた時点でバスは人質の乗客ごと放棄するはずだったんです。それがバスごと消えるなんて、完全に計画外の出来事です。むしろ、何が起こったのか私の方が知りたいくらいですよ」
そこまで一気に話し、田向は肩を落とした。
「とにかく、ここまでしたにもかかわらず、結果的に私は金を手に入れられませんでした。その後、私のした事はばれる事もなく時間が経過し、今の今まで平穏な暮らしを続けていたんです」
だが、中村からすれば見逃せない部分があった。
「ちょっと待て。結局、名神銀行での横領は今に至るまでばれていないようだが、最終的にどうやってその金を工面したんだ?」
それに対する田向の答えはあまりにも予想外のものだった。
「……宝くじです」
「貴様、この期に及んでふざけているのか!」
中村は思わず一喝したが、予想に反して田向の目は真剣だった。
「ふざけてなどいません。正直、私自身、今でも信じられないでいるんですが、駄目元で購入しておいた宝くじが事件のすぐ後に当たってしまったんです。その宝くじで当たった金を補填する事で、何とか横領の事実をうやむやにする事ができました。ただ、その時は喜びというよりも虚しさで一杯でしたがね。こんな事なら、わざわざあんな事件を起こして殺人までする必要はなかったわけですから。神様というのは本当に気まぐれですよ」
にわかには信じられないが、どうやら本当の話らしい。
「何にしても、予想外の幸運で金の問題は何とか解決する事ができました。でも、この事件の事はずっと私の心に重くのしかかっていて、あのまま名古屋で仕事を続ける事はできなかった。だから仕事を辞めて名古屋を離れ、こうして京都で新しい生活を送っていたのに……」
そして、田向は最初と同じ言葉を再び漏らす。
「……何で……何で十年も経った今になって……今になってばれてしまったんだ……」
その言葉に対し、中村は何も言わず、すすり泣き始めた田向をただジッと見据えるだけだった……
その後、京都府警からの連絡を受けた山梨県警の捜査本部が田向の自供に基づいて丹波山村近くの山林の一角を調べた所、自供通りの場所から成人男性の物と思しき白骨遺体が発見される事となった。遺体はすぐに司法解剖に回されたが、この発見により、田向は改めて十年前の運転手殺害容疑でも再逮捕される事となったのである。
一方同じ頃、名古屋市の愛知県警本部では、強盗容疑で名古屋拘置所に収監されている布田清に対する取り調べが行われていた。取り調べを担当した長谷川の部下である愛知県警刑事部捜査一課の古部明警部補の追及に、布田はふてくされたような態度ではあったが、それでもしばらくしてこれ以上隠しても無意味だと判断したのか、取り調べ開始から数時間して、とうとう小野崎が自分たちと通じていたという事実を自白するに至った。
「つまり、認めるわけだな。十年前の現金輸送車襲撃で、輸送車の警備員だった小野崎靖樹がお前たちの仲間だったと」
「あぁ、そうだよ。とうとうばれちまったか」
一度認めると、布田の口は相当軽かった。
「お前と森永はギャンブルで金に困っていた小野崎を計画に引き込み、彼から現金輸送車襲撃に必要な情報を得ていた。そして実際に襲撃した際、小野崎の口から自分たちの情報が洩れるのを恐れて彼を殺害した。違わないか?」
「違わねぇよ。ったく、これだけ証拠をそろえられたら、否定しようがねぇだろうがよ」
そう言ってから、布田は抜け目のない顔でこう付け加えた。
「あ、でも一応言っとくけど、実際にあいつを刺したのは俺じゃなくて森永の奴だからな。そこんとこは間違えないでくれよ」
「ふざけるな! 実際に殺したのが森永でも、その場にいて小野崎の殺害に同意していた以上はお前も共犯だ! そもそもお前は、もう一人の警備員である新津友信に重傷を負わせている事を忘れるな!」
「んなの、知らねぇよ」
両者が机を挟んで無言で睨み合う。しばらくして、古部は押し殺した声で尋ねた。
「小野崎の事は最初から消すつもりだったのか?」
「さぁな、それは森永にしかわからねぇよ」
布田ははぐらかすように答える。最初から殺そうとしていたのか、その場で森永が独断で殺したのかでは、共犯である布田の量刑が大きく変わってくる。それがわかっているので、布田もその点をそう簡単に認めるような事はしなかった。実際、現状の証拠でそれを立証するのはかなり難しい。今はひとまず、小野崎が二人の共犯だった事が証明できさえすれば良しと考えるしかなかった。布田の小野崎に対する殺意の認定は、今後行われる布田の公判での検察の立証に期待するしかない。
「なぜ小野崎に目を付けた?」
「あいつ、俺が昔働いていたパチンコ屋の常連でよ。しょっちゅう負けてやがったから、金に困っていたのはよく知っていた。で、その後で森永の奴と知り合って、互いに金に困っていた俺らは一緒に飲みながらどうしたものかと困っていたわけなんだが、その時に偶然あいつの姿を見た事が全ての始まりだったってわけだ」
布田の話によると、その時、森永と布田の二人は居酒屋を出た所だったそうなのだが、その際に居酒屋のすぐ前にあったコンビニのATMの現金を輸送する業務が行われていて、その業務に従事していたのが小野崎だったのだという。で、仕事中の小野崎の顔を見た布田が『あれ? あいつパチンコ屋で散々散財していた奴じゃねぇか?』と呟き、その呟きを聞いた森永が、小野崎を抱き込んで現金輸送車を襲撃する計画を立てたのだという。
「それから二人でこっそりと奴の私生活を調べたが、案の定、ギャンブルでかなりの借金があるようだった。で、俺と森永は偶然を装って奴に接近し、ある程度仲が深まった所で計画を持ち掛けた。どうやら、俺らが思っていた以上にあいつは金に困っていたみたいでな。すんなりこっちの計画に乗ってきやがった」
「そして、小野崎から提供された情報を使って、一九九七年八月十二日、お前たちは輸送車を襲撃した」
「ま、そういうこった」
「今の証言、間違いはないな?」
「ねぇよ。嘘だと思うんだったら、東大阪市の『黒山ハイツ』ってアパートの天井裏を調べてみな。もしかしたら、まだそこに証拠があるかもしれねぇ」
「何だって?」
「俺らも馬鹿じゃねぇって事だよ。小野崎の奴が土壇場で裏切ったら元も子もねぇからな。あいつが途中で抜けられないように、事前の打ち合わせで奴が現金輸送の情報を話している時の音声を記録しておいた。その録音をしたカセットテープがそこにあるって言ってるんだよ」
「何でそんなものが何の関係もない東大阪のアパートにあるんだ!?」
「俺が山科の隠れ家に引っ越す前に潜伏していたのがそのアパートなんだよ。その時にこっそり隠しておいた。もしもの時のためにな」
布田のその告白を受け、愛知県警からの要請を受けた大阪府警の捜査員たちはすぐに問題のアパートの家宅捜索に踏み切った。結果、布田の証言通りのカセットテープが発見され、そこには確かに森永や布田たちに現金輸送の情報を話す小野崎の音声がはっきりと記録されていたのである。この決定的な証拠の発見により、小野崎が森永たちの協力者であるという推理は間違いのない事実であると正式に立証される事となり、その成果はすぐに山梨県警本部内に設置された捜査本部にも伝えられる事になったのである……。
「そうですか。わかりました、ありがとうございます」
三月十六日の深夜。山梨県警本部の捜査本部で、刑事の一人がかかってきた電話を切ると、その内容を正面にいる斎藤たちに報告した。
「大学病院からです。昼過ぎに丹波山村近郊で発見された白骨死体の司法解剖が終わったそうです」
「終わったか。それで結果は?」
「歯型の記録から、遺体の身元が失踪した二人の運転手のうち長崎純平の方である事が判明。死亡時期についてはさすがに死後十年前後という事しかわからなかったそうですが、頸部に骨折の痕跡が見られ、首を絞められた事による絞殺が死因とみられます」
その報告を受けて、藤が大きく息を吐いて天を仰いだ。十年間、行方がわからなかった被害者たちのうち、遺体ではあるがようやく一人が帰る事ができたのである。
「遺体の隠し場所をはっきり証言できた以上、田向が『秘密の暴露』をしたと解釈して問題ありませんね?」
「ないでしょうね。少なくとも、長崎運転手の死体遺棄容疑で田向を再逮捕できるはず。殺害の立証については今後の捜査次第という事にはなりますが、こうなった以上、それももう難しくはないでしょう」
ひとまず、田向についてはいったんこれで蹴りがついた。だが、捜査はここからが本番である。
「今日一日の捜査で、我々が推理していた『警備員の小野崎が強盗犯の森永と布田の仲間だった事』と、『大竹、富石、田向の三人が森永が強奪した五千万円を狙ってバスを乗っ取り、大竹と富石が制圧したバスが伊豆半島方面に向かってそのまま消息を絶った事』は正式に立証されました。となると、次の問題は……」
「消えたバスが具体的にどこへ消えたのか、だな」
榊原の言葉に、その場の全員が頷いた。
「前提として、このバスは釈迦堂パーキングエリアを出た後すぐに大月インターチェンジで高速道路を下りており、そこから伊豆半島の南伊豆町にある別荘地に向かうまでのどこかで犯人もろとも失踪してしまっています。普通に考えて、この間のどこかで何か目的地に到着できなくなるようなアクシデントがあったと考えるしかありません」
「しかし、バスジャックされたバスが目的地に到着できなくなるようなアクシデントとは、一体何でしょうか?」
藤が腕を組んで考え込みながら疑問を呈する。
「真っ先に考えつくのは、何か想定外の事故が発生してバスが動かなくなってしまったというケースですね」
「しかし、単なる事故ならバスが発見されないというのはおかしい。どれだけ人通りがない道路で事故が起こったとしても、道路である以上はいずれ誰かがそこを通るはずで、十年以上も車体が見つからないままというのは理解できません」
「……ならば、『車体が現場に残らない事故』が起こったと考えるしかありませんね」
榊原の静かな言葉に、刑事たちは顔を見合わせた。
「どういう事でしょうか」
「バスが高速道路を下りてから南伊豆町の別荘地へ向かっていたと仮定した場合、山梨から静岡へ抜ける際に富士山麓の森林地帯を通過し、伊豆半島に入った後は海沿いを走る事になるはずです。そこで『車体が現場に残らない事故』が起こったとすれば、可能性はそう多くありません」
そう言われて、何人かの刑事がハッとした表情を浮かべた。
「運転を誤ったバスが山間部を走行中に崖下に転落した、あるいは海沿いを走行中に海の中に転落した、という事ですか?」
「それなら十年にもわたってバスが発見されず、乗客も失踪したままなのにも説明がつきます」
だが、これに対して藤が意見を述べた。
「海に転落したというのはともかく、崖下に転落したというのは賛成できませんね。その場合、バスは道路からどこかの崖下に転落した事になりますが、その落下場所は当然ながら道路の近くになるはず。小型車ならともかく、さすがに大型バスが道路脇に転落していたとなれば、警察なり道路を管理している国交省なりが十年間も気付かないというのは不自然です」
「となると、可能性が高いのは海中転落の方ですか」
しかし、そうだとしても該当範囲はかなり広い。バスが南伊豆町の別荘地に向かっていた以上、その海中転落が起こった可能性があるのは伊豆半島に接する海岸線のどこかという事になる。さすがにもう少し転落場所のヒントがなければ、これだけの範囲の海岸線付近の海中をしらみつぶしに調べるというのは現実的ではなかった。
「くそっ、ここまで絞り込んでおきながら……」
藤が悔しそうに言う。他の面々も同じような表情を浮かべており、部屋の中にどこか重い空気が漂った。しばし、重苦しい沈黙が続く。
が、その時だった。不意に榊原が静かな口調でこう言った。
「……あるいは、何とかなるかもしれません」
その言葉に、その場が一瞬静まり返った。代表して、長谷川が慎重な口調で尋ね返す。
「何とかなる、とは?」
「あくまで現時点ではわずかな可能性ですが、バスが転落した場所を特定するためのヒントを得られるかもしれないという事です」
「本当ですか?」
たとえわずかな可能性であったとしても、もしそれが本当なら、この事件を大きく進める契機になるかもしれない話である。だが、榊原はその『可能性』をすぐに話すのではなく、こんな事を言った。
「ですが、そのためには、『ある人物』の話を聞く必要があります。もっとも、聞くのはそう簡単ではないでしょうが」
「ある人物、ですか?」
「えぇ。とはいえ、やってみない事には始まらない事も事実です。正直、心苦しくはありますが……」
一部よくわからない事を言いながらも、榊原は不意に捜査本部の固定電話に近づき、受話器を手に取る。
「やむを得ませんね。明日、『その人物』と直接話をしてみようかと思います。成功するかどうかは五分五分ですが」
「一体、その人物というのは誰なんですか?」
長谷川の問いかけに対し、榊原は電話の番号を押しながら、口調を変える事なくその名を告げた。
「その人物というのは……」




