『日沖事件 捜査報告書』
『関ヶ原一家殺傷事件(通称・日沖事件) 捜査報告資料』
報告者:柊長親(岐阜県警本部刑事部捜査一課係長・警部)
【発生日時】
二〇〇三年十月三日
【発生場所】
岐阜県不破郡関ヶ原町●●番地
【事件概要】
二〇〇三年十月三日金曜日午後十時頃、岐阜県不破郡関ヶ原町の江橋亮一(五五)宅から悲鳴や激しい物音が聞こえると隣人の赤木直平(五十)から通報。駆けつけた関ヶ原署員が江橋宅に踏み込んだところ、江橋家の人間と思しき遺体を複数確認。さらに室内を捜索したところ、生存者一名を殺害しようとしていた被疑者と思しき男を発見し、その場で現行犯逮捕した。
殺人の現行犯で逮捕されたのは、愛知第三大学大学院生の日沖勇也(二四)。逮捕後、日沖は犯行を認め、そのまま関ヶ原署へ連行されている。一方、襲撃された江橋家は当時五人家族であり、このうち当主の江橋亮一、亮一の妻である江橋美冴(五七)、亮一の母親である江橋豊子(七九)、亮一の次男である江橋統二(十九)の四名の死亡を確認。逮捕直前に襲われていた亮一の長女である江橋節美(二三)のみ生存を確認したが、発見時意識を失っており、そのまま病院に搬送された。
【捜査状況】
死亡した四人は全員包丁で滅多刺しにされており、司法解剖の結果、四人全員の死因が刃物で刺された事による出血性ショック死であると判断された。凶器の包丁は逮捕時に日沖が所持しており、この包丁と被害者四人の傷口が一致。また、包丁及び逮捕時に日沖が着ていた着衣からも被害者四人全員の血痕が検出されている。これらの証拠、及び日沖の自供と現場の状況に矛盾がない事から、日沖が一家四人を殺害したのはほぼ間違いないと思われ、この点について疑問の余地はない。
江橋家は二階建ての木造家屋であるが、四人のうち、亮一の遺体は玄関付近、美冴と豊子の遺体は台所、統二の遺体は二階へ続く階段付近で発見された。また、生存者の節美と日沖は、日沖逮捕時に仏壇のある客間にいた事が警察官により確認されている。日沖の自供によると、日沖は来客を装って玄関から江橋宅を訪れ、まず応対した亮一を玄関口で殺害。その後土足のまま室内に侵入し、台所にいた美冴、豊子の二名を立て続けに殺害した上で、事態に気付いて二階へ逃げようとした統二に追いすがり、階段にて彼を殺害。最後に客間に逃げ込んでいた節美を殺害しようとしたところ、踏み込んできた警察官に身柄を拘束され逮捕されたという事である。現場に残された足跡や遺体の状況などからこの日沖の動きに矛盾はなく、後の事情聴取で生存者の節美も同様の証言をしている。
捜査の結果、被疑者・日沖勇也と江橋一家の間に直接的な利害関係は存在せず、それどころか一度も面識すらなかったと思われる(これは日沖本人も認めている)。当の日沖の自供によると、その犯行動機は「義憤」によるものだという。被害者の江橋一家の長男・江橋統一はさる二〇〇三年八月一日に関ヶ原町で発生した信用金庫OL殺害事件(通称・関ヶ原事件)の被疑者(本人は死亡)として書類送検されていたが、江橋家は統一が犯人であるという結論に納得しておらず、統一の無罪を訴えて、それに反発する世論から激しいバッシングを受け続けていた。日沖もそうした江橋家の態度に反発していた人間の一人であり、自らの身内の罪を認めず、それどころか無罪を主張して罪を逃れようとしている江橋家の面々に怒りを覚え、本人曰く「真の正義を実現するため」に江橋家全員の抹殺を画策。綿密な計画を立てた上で江橋家を襲撃し、本件犯行を実行したとの事である。実際に日沖本人が供述したこの動機が正しいのか、あるいは真の動機を隠すためにこのような自供をしたのかについては現段階で定かではないが、仮に日沖本人の供述が正しかったとした場合、その動機は一般的な観点から見ると明らかに異常であり、本人の責任能力をはっきりさせるためにも、裁判時の精神鑑定の実施は避けられないのではないかと愚考する次第である。




