第88話 「マイ ファイナル スマイル」
哨戒船が速度をゆるめた。
ドドドドドド……
エンジン音が弱まる。
「支部を視認!」
「打電、打電!」
あわただしく海保隊員らが動きまわる。
港が近づいて来たのが、檻の中にいる4人にもわかった。
檻の中―――
「も、燃やさないでくれ。こ、殺さないで……」
レインショットの悲痛な声が、延々と続いていた。もはや錯乱状態……本当に焼き殺されてもおかしくない。
なのにフォックスは炎を出さない。
ただ、じっと彼の真後ろに立ち続けている。爬虫類のような、うつろな目で立ち続けていた。
4人が逮捕されてから、すでに2時間半が経過している。2時間半、ひとことの殺意すら口にせず、ただ立っているだけのフォックス。
死にそうなほどおびえ、鉄格子に寄りかかるレインショット。ひざから崩れ落ち、やがて命乞いを始めた。
「や、やめてくれ……やめてくれ……」
フォックスは許さない。
地べたに尻をつけ、がたがたと震えるレインショットを、じっと見下ろしている。
ニニコは全身のふるえが止まらないでいた。
小さく、小さくすすり泣く。
「くすん、くすん……」
黄緑の触手……塩酸を使えば、手錠を溶かすのはたやすい。でも、ほとんど軍艦のなかで使ってしまった。自分の手錠を溶かすくらいの量しか残っていない。
そのあとどうすればいい?
2人を置いて、ひとりで逃げようか。
無理。
そんな勇気は彼女にはない。
と―――
トラが目を覚ました。
「う……む」
「ト……トラ! 起きたの?」
もそもそと動き出したトラに、ニニコが顔を近づける。
「あ、ああ。胃がひっくり返ったみてえに気持ち悪いぜ……これが船酔いってやつか?」
腹をさする手にかけられた手錠が、ジャラと音を立てる。鉄の感触が、彼にいまの状況を思い出させた。
床に転がったまま、首だけを少し浮かせる。
「ニニコ……まだ港につかねえのか?」
「もうすぐみたい。ぐすん」
涙ぐんだ声をもらすニニコ。
「そうか……オーナーは?」
「ずっと、あのままよ」
「あれからずっとか。俺たちが捕まってから、何時間たったんだ?」
「……2時間くらいよ。怖いわ。声をかけられないの、怖くて」
「ああ、怖いな……」
わずか2メートルさきの光景を、恐ろしげに語る2人。
「やめてくれ。や、やめてくれ!」
レインショットの声だけが、反響する。
「やめてくれ、助けてくれ……」
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「着いたぞ、降りろ」
ガシャンと派手な音を立て、檻が開かれた。海保隊員のひとりが「出ろ」と促す。
誰も出ない。
顔面蒼白のレインショットは、立つこともできないらしい。
呆れ顔の隊員2人に抱えられ、ずるずると引きずられていった。いまだに何事かをつぶやいているが、どうせ命乞いだろう。
運ばれていくレインショットを見届けてから、ゆっくりと目を閉じるフォックス。10秒、11秒……目を開く。
フンと鼻を鳴らして、ようやくトラとニニコに声をかけた。
「着いたとよ、起きろ」
いつもと変わらない口調で「起きろ」と言われ、2人はのろのろと立ち上がった。表情は暗い……ニニコは完全に怯えている。
これからどうなってしまうのか。
処刑されるのだろうか。
「フォックス……」
沈痛な表情のニニコ。
「……オーナー、おはようございます」
トラがズシンと立ち上がると、船全体が左にゆれた。
「ニニコ、トラ。疲れたなあ」
にっこり。
にっこり笑うフォックス。
「行くよ」
2人に先立って歩き出した。
「あ、待ってオーナー。待ってください」
と、なぜか引きとめるトラ。
なにを思ったのか、トラは自分のTシャツを左右に引っぱりはじめた。
「……ん、えい!」
ビリビリ、ビリ。
シャツの前身頃を縦に裂く……ダメだ。手錠の鎖が短いので、思いきり引っぱれない。ちょっとずつ引っぱる。
ビリ。
ビリリ。
縦一直線、ブラウス状に前がひらく。
「あれっ? しまった、これじゃ脱げない。もうちょっと待って」
脱ごうとしたらしい。
もちろん、手錠があるから脱げない。袖も破く。
ビリビリビリ。
やがて彼の上半身が露わになる。包帯だらけ……Tシャツはボロ布のようになってしまった。
「……なにしてんの?」
「……なにしてるの?」
ぽかんとするフォックス、ニニコ。
「ま、待って……ちょっと、ここで待ってて」
2人を残して、トラは檻の外にいる保安隊員にずしずしと駆け寄った。なにやらお願いをしているらしい。
めちゃくちゃに頭を下げている。
「スイマセン。あ、マジですぐに船下りますんで」
「え? まだいいんですか?」
「なるほど。レインショットが泣きながら抵抗しまくってる」
「もうちょっと待ってりゃいいんすね? あ、そうすか」
「あ、どうも。あ、これでいいです。どうもスイマセン。ありがとうございます」
ズシズシ、ズシ……戻ってくるトラ。
その手には、タオルケット。
タオルケットを借りてきてくれた。
「時間が出来て助かったぜ。はいオーナー、せめてこれだけでも……」
息を切らせながら、両端を持ってタオルケットを広げ……られない。手錠が邪魔をする。
「ちょ、ちょっとニニコ手伝って!」
反対側の端っこをニニコに任せ、2人でフォックスの肩にかける。
ふぁさ。
フォックスの体が隠れるよう、ショールのように羽織わせた。
目を丸くするフォックス。
「これを……借りてきてくれたのか? アタシのために?」
ひどく薄いタオルケットだが、さすが国のモノ。
とても肌触りがいい。
「もしかしてさっきTシャツ破いてたのは、アタシに羽織わせようとしてくれたのか?」
「いや、だって。おもて、警官だらけでしょ? その……隠したほうがいいっしょ?」
鼻をポリポリかくトラ。
「逆に、俺が半裸。やぶく必要なかった。失敗した」
「なんでカタコトなんだ。ふふ……そっか」
にっこり。
にっこり笑うフォックス。
「ありがとな。ふふ……どうだニニコ。これ、似合ってる?」
「……お風呂あがりみたい。でも、エンジ色も似合うわ」
こんなときでも素直なニニコ。
「これ、亜麻色だけどな。臙脂は赤紫だ」
ふんわり。
ふんわりと笑うフォックス。
膝を曲げて、ニニコに顔を近づける。ふんわり。
「なあニニコ。もういっぺん、呼んでくんねえか?」
「エンジ」
「ちがうっての」
「……いいの?」
ニニコがもじもじするたび、彼女の手錠もジャラジャラと音を立てる。
数秒、沈黙が続く。
ニニコは……言ってもいいのかな、と何度もフォックスの目をうかがいながら、言った。
「お姉さま」
「うん」
とまどうニニコ。
うなずくフォックス。
「お姉さま」
「うんうん……いいな、やっぱりいいな。お姉さまか」
泣きそうなニニコ。
笑うフォックス。
「……私、怖いわ。怖い」
「大丈夫だ、ニニコ。トラも心配いらねえぞ。なんとかして、お前らだけは放免されるように取り引きしてやるからよ」
「本当!? ……フォックスは?」
「お姉ちゃんに任せなさい。あれ、このセリフどっかで……あ、マリィが言ったことそのまんまだな。あっはっは」
質問をはぐらかすフォックス。
かつ、かつ、とパンプスを鳴らし、檻の外へ―――
「よっしゃ。さァ……行くか!」
なにも言わず、彼女のあとを2人は追う。
とぼとぼとぼ。
ズシズシズシ……
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船の甲板に出た―――晴天。
そとは波の影響を受けやすいのか、上下の揺れがきつくなったような気がする。
ギィ、ギィ、ギィ……海風がすごい。
あちこちで、カモメの叫び声が聞こえる。
ミャアミャア!
ギャアギャアギャア!




