第72話 「ファンタジー」
「はぎゃああああああああああああ!」
苦しみに暴れまわるフォックス。しかし宙づりにされた状態で、手足はむなしく空を掻いた。
やがてやわらぐ痛み。
視界が開けてくる。
……やわらぐ?
「アアアアアアア!! …………あれ?」
痛みが無くなった。
目は……多少、しみる程度。
いや痛いことは痛いが、視力に問題はないらしい。左手で目をこすり、かかった液体を拭う。
このにおいは、ビール……
「大丈夫か!」
間近に、トラの顔が見えた。
必死にフォックスの名を呼んでいる。
本当に顔が近い。
抱き寄せられている。
ようやく現状が理解できた。
しゃがんだトラの膝を枕に、寝かされている。
「しっかりしろ、痛いところはないか!」
トラの手には缶ビール。フォックスの顔に付着した塩酸の霧を、洗い流してくれたらしい。
目がしみる。
シュワシュワする。
「だ、だいじょうぶ……だ」
目をしぱしぱさせながら、辺りを見た。
ここは廊下――――――
トラが部屋の外に運んでくれたらしい。
「ああ、よかった……!」
「わ!」
がしっ。
抱きしめられた。
なに、この……なにこれ?
いや違うだろ!
「は、はなれろ! マリィは!? ニニコは!?」
トラの肩をつかみ、叫びたてる。
「なんともないか? 愛してるよ、フォックス」
「愛し……はあ?? ああ、そうかよ」
こいつ、まだハイドランジアの支配下にあるらしい。聞くだけ無駄だ!
「どけ!」
トラを押しのけ、部屋のドアをバンと蹴とばしたフォックス。籠手を突き出し、注意深く室内をのぞく。
火はほとんど消えていた。代わりに、猛烈な酸のにおいが立ちこめている。
「いねえ……」
誰もいない。
あるのは、ブスブスと異臭を放つ死体だけ……横たわる彼を見て、フォックスの胸中はぐしゃぐしゃと掻きむしられた。
いったい彼がなにした?
彼がなにをしたよ!
「フォックス!」
トラがドスンドスンと追ってきた。
肩をつかまれ、ふたたび抱きよせられる。
「フォックス……教えてくれ。俺はなにをすればいい。この世界では、こういうときどうすればいいんだ?」
まっすぐにフォックスの目を見すえる。
「離せ、なにすん……ああ? こ、この世界だァ?」
「フォックス。旅のあいだ、ずっと言えなかったことがある。君を愛してる」
「ハァ??」
「騎士団を追われた俺を、君がこの世界に召喚してくれたんだ。俺は、君のためなら……命を捧げてもいい」
「しょ……召喚? お前、今度はなんの妄想……」
どうやら次のトリップ状態に入ったらしい。
次元を超えてやってきた騎士になっているようだ。帰れない系ファンタジーの主人公……だが本人の顔は真剣そのものだ。
フォックスに、やさしい目を向ける。
「強がらなくていいんだよ。俺は、君の苦しみを知ってる」
「ふざッ……離せ! お前にアタシのなにが……」
「生まれた村の住人を焼いたんだろう? 君の両親も……君が焼いた。炎の魔法で」
「……!!」
「伝染病で死んだ村人の死体を、君が火葬した。燃える死体の山の、あまりの気持ち悪さを見て、君は殺人を自らに禁じた。だろう?」
「……ああ、そう。聞いたのか、それも……」
トラの腕に抱かれたまま、フォックスは驚き、悲しみ……押し黙った。
体から力が抜けていく。
「ああ。悪いと知りつつ、女神さまから聞いた。この剣と魔法の世界に来て、俺は初めて君の……ブヘッ!」
バシーン!
平手打ち!
ビンタを見舞うフォックス。
ぶっ倒れるトラ。
「フォックス、な、なにを……」
「なにをじゃねえ。気安く触んな。なにが女神さまだボケ」
ブチ切れ。
ブチ切れている。
トラの腕から解放されたフォックスが、今度は逆にトラに詰めよる。
「殺人を禁じたってか? いいや殺すね。殺す、本当に殺す」
「アタシは魔法使いじゃねえ、放火魔だ。でもってお前は騎士じゃない、消防士だ」
「アタシはマリィを探しに行く。殺してやる。おまえは食糧庫に行って火を消せ。現場の軍人の指示に従え」
たんたんと、冷たくフォックスは語る。
ぶったたかれた頬に手をあてながら、だまって聞いているトラ。
「聞いてんのか!」
「はいオーナー! 行ってきます!!」
ドンと立ち上がり、トラはズッシンズッシンと走り去っていった。
やがて見えなくなる。
フォックスはそれを見届けると、ガシャンと籠手を持ち上げた。
「マリィはどこだ?」
『上……』
ビシ。
天井……いや、上階を指さす籠手。
「鉄火場だぜ。アタシの右手」
かつんかつんと床を鳴らし、無言でフォックスはその場をあとにした。




