第65話 「スプレー & キス」
ザバアアアアアア!
「う……ぐあ……」
大質量の海水がトラを直撃した。
頭蓋骨がブチ割れるほどの衝撃。全身が水浸しになる。
だがなんという根性か、まだ気を失っていない。
船壁に貼りついたままだ。
ちゃぷちゃぷと近づいてくるマリィ。
その手をトラの横顔に伸ばした。優しくふれる。
「ふうむ……ブサイクですねぇ」
眉をしかめて、トラの顔面を批評する。ひどい。
スキあり!
「あああああああ!」
ブンと長靴を振りまわすトラ。
縦にミドルキック!
「うわっ、危なっ」
回避された。
ガキン! とマリィの抱える箱にカスった。
「ブハッ! ハァ、ハァ、お、大きなお世話だぜ……」
顔中から塩水を垂れ流すトラ。
息をするたび、鼻や口から泡が飛び散る。首から下げていたIDカードも、どっかに行ってしまった。
ずる、ずる!
少しずつ、長靴はズリ落ちていく。
「ふンむぅううう……! はぁ、はぁ、ブハッ! はぁ、はぁ……」
歯を食いしばり、ガツンと1歩上昇するトラ。もう両足で立ってられる限界―――
「ふむ」
がさごそ。
金属箱に開いた穴に、マリィは指を差しこんだ。中からつまみ出したのは……スプレー缶? 化粧水のようなスプレー缶だ。
「やれやれ。ちょっと使いますか」
ラベルのない、のっぺらぼうのスプレーをトラに向けた。
プシュッ。
青とピンクの霧が飛び出す。
「うっぷ!? 甘……!」
2色の霧を顔に吹きかけられ、トラはたじろぐ。甘い香りが鼻の粘膜にへばりついた。
瞬間!
はげしい感覚がトラを襲う!
「お? あ? なにこ……あひゃあああああ!」
爽快感に顔の筋肉がゆがむ。いや、爽快などという次元ではない。
何のストレスも感じない!
痛覚が無くなったかのようだ。長靴の重さすら感じない。長靴が脱げた日の感覚がよみがえる。
浮遊感―――艦に貼りついていられない。
いや、貼りついていないと海に落ちてしまう。
いや、だが足に力が入らない。
いや、いや、いや!
「うおあひゃ、あ、あ、あ……」
甲板に上がるんだ。
じゃないと死ぬ、死ぬ。
上ってどっちだけ!?
右目の視界が青に、左目がピンクに染まる。死ぬ、死ぬ。
長靴をガチガチと鳴らし、右往左往するトラ。
不敵な笑みを浮かべて、顔を近づけるマリィ。
そして……
「ん……」
口づけ。
くちびるを交わした。
「んんんんん!!」
突然なにを!
超、なにを!
トラの脳に電撃が走る。いや、とろける。いや、脳が蒸発して消える! 脳が消えました!
いや、いや、いや!
気持ちよさすぎて死ぬ!
あああああああああああ!
舌で舌を、なでなでされる。
よさすぎて!
死ぬ死ぬ。
ちゅ……
唇をはなし、トラの顔をのぞきこむマリィ。陶然とする彼に、ささやいた。
「ねぇ……お前。私を愛してますか」
「ぷあ。あ、うん、いや、だ、誰、誰、誰、うん」
ロレツが回っていない。
必死に否定する。必死に肯定する。
「いまのひと吹きで、末端価格7万ナラーはするんですよ? 私を愛してますか?」
「はへい」
情けない声で、イエスだかノーだかわからない返事をするトラ。とろりと目が泳ぐ。幸せに満ちたその顔は、筋肉が完全にゆるんでいる。
「それではまず……教えてください。さっき警報が鳴ったのに、どうして誰も甲板に来なかったんです?」
女神のようにやさしく問いかけるマリィ。
はたして、さっきのスプレーは……嫌な予感がする。
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さて。
なぜ警報鳴り響く甲板に、誰ひとり来なかったのか。
それどころではないからだ。
食糧庫。
いまや、そこは火の海と化していた。
警報が激しく鳴りひびいていたが、それもさっき止んでしまった。
「消火! 消火!」
「艦長は……連絡はまだか、まだ連絡はつかないのか!」
「シャッターを下ろせ! 消火器持ってこい、消火器だクソッタレ!」




