第60話 「ソーリー プロフェッサー」
顔を見合わせるフォックスと水兵。
「なにごとでしょう。いまのは、博士の助手の声では……」
「さ、さあ……わかりませんわ」
通路からは、いまだにトラの泣き声がおんおんと聞こえてくる。
その通路から、さらにべつの水兵がやって来た。
「はあ、はあ。おい、誰かいないか! おう貴様、ちょっとついて来い」
あわただしく駆けこんできたのは、ヒゲの軍人だ。
若い水兵が、ザッと敬礼を返す。
「曹長どの!」
「敬礼なんかいいから来てくれ……おお、博士もおられましたか!」
ヒゲの曹長が、フォックスの姿をあらためる。
「ちょうどよかった。博士の助手の彼なんですがね、ノートパソコンをうっかり踏みつぶしてしまったらしいんで……大騒ぎしているんです。ちょっと来てくれますか?」
「はあ、あの……トラくんが、ですか?」
「ええ。泣いて泣いて、手がつけられんのですよ」
……
…………
「ウオオオオン、博士えええ!」
…………
……
「ほら、ね」
あきれたように顔をしかめる曹長。
困り果てるフォックス。
「ええ……ご迷惑をかけます。わかりました。すぐ参りますわ」
「助かります。はやくお願いしますよ。デッキ中に聞こえる声で泣かれて、艦長がカンカンなんです。ああ貴様はもういい。警備を続行しろ」
曹長はフォックスと新兵に指示するや、大慌てで行ってしまった。
残される新兵……と、フォックス。
「ああ、弱ったわ……」
若い水兵にすり寄った。
「あの、すいません。一緒に来ていただけませんか?」
「えっ。し、しかし自分は現在地の歩哨中でありますから……」
現在地、すなわち食糧庫の警備任務である。まさか放っぽりだすわけにはいかない。
た、たとえインテリ美女にお願いされたとしてもだ。
「ねえ、お願いします。艦のなかは不案内で……それに私の助手はその……パニックを起こすと、私の手に負えませんの」
「手に負えない、とは?」
「泣きさけび、ポケットの物をなんでも食べようとするのです。携帯、硬貨、ボールペン、家のカギ……」
「奇病だ」
恐ろしい病気に犯されていることにされるトラ。
震えあがる若い水兵。
「ね……お願い。助けてくださいませんか?」
彼の厚い胸板に、フォックスは肌が触れあうくらいまで近づく。うるんだ瞳。
気圧される。
男として頼られている。
しかし、警備任務を放っぽりだすわけには断じていかない。
「おまかせください。自分が一緒に参りましょう」
快諾する水兵。
いや、アカンて。
ぱっ、とフォックスの表情が明るくなる。
「ああ……ありがとうございます。やっぱり海軍のかたは頼もしくて素敵ですわ」
「いやあははは! さ、行きましょうか博士」
「はぁい」
はりきって先頭に立ち、食糧庫を出る水兵。
スキあり。
あとに続くフォックスが一瞬振り返り、ギプスをした右腕を木箱に向けた。
ポッ!
ビー玉ほどの小さな火。
包帯を巻いた人差し指から、ひゅんと飛んでいき木箱に付着する。とたんに、ぶすぶすと黒煙を上げはじめた。
見届けたフォックスが、ニヤと笑う。
完了――――――
「博士! どうしました?」
すでに廊下に出た水兵が、フォックスをせかす。
「いいえ、なんでも」
包帯の先端が、やや焦げてしまった。
フォックスはその部分をちぎり床に捨てると、足早に水兵のあとを追った。
誰もいなくなった食糧庫で、火の手は大きくなっていく。
まもなく火災警報が鳴り響き、ボヤさわぎ寸前で消火剤が天井から降りそそぐはずだった。
レインショットによって、火災報知機のケーブルが切断されていなければ。
……炎がどんどん大きくなってゆく。
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「おおおおん! 博士、ごめんなさいぃぃ」
「よしよし、トラくん。泣かなくてもいいんだよ」
ここは艦内の通路―――
トラは博士のパソコンを、うっかり踏んづけて壊してしまったらしい……号泣。床にへたりこんで、子供のように泣いている。足元には、バラバラになったパソコンが無残な姿で散らばっていた。
フォックス博士は彼の失態を許し、聖母のように助手を抱き寄せた。よしよし、いいんだよと慰めている。
師弟愛―――の芝居。
対して、周囲をとりかこむ軍人たちのシラけきった目。
なに、これ?
「おおおおおん! 博士、ごめんなさいぃぃ」
「よしよし」
まるで演技のごとく、同じセリフをくり返す博士と助手。いや演技なんだけどね。
騒ぎを聞いて集まった全員が、アホらしい行こうぜ、とぞろぞろ去っていく。
かわいそうなのは、フォックスにどうしてもと頼まれて、いっしょに来てあげた彼。
「は、博士。では自分はこれで……」
「おおおおおん! 博士、ごめんなさいぃぃ」
「よしよし……まるで九官鳥だな。あ、どうも。ありがとうございました」
じつにそっけない。
「では……」
彼は発達した背筋を、しょぼんと丸めてその場をあとにした。
残されるトラとフォックス。
「おおおおおおん!」
「いつまでやってる! 終わったぞ」
急に態度を変えて、立ちあがる。
フォックスを抱きしめようとしたトラの両腕が、むなしくカラ振りした。
「じきにスプリンクラーが動くぞ。あのムキムキの彼には、悪いことしたな。責任問題になるだろうけど……勘弁してもらうか」
さみしそうにつぶやくフォックスを見て、トラが目を丸くした。
オーナーが、利用した他人のことを気にかけるとは……悪い女じゃないんだよね、決して。
もちろん口に出しては言わない。そんなこと言ったら、なにされるかわからん。
なんか気まずい沈黙が流れる。
「あ~……オーナー。俺、タバコ吸ってきます……」
ズシンズシン。
トラはそそくさとその場を離れた。
―――倉庫では、炎がどんどん大きくなっているはずだ。




