第225話 「フローズン」
ドドドオオオオオオオオオオ!
ザバアアアアアアア!
大音響を立て、氷山は崩落した。
「ぬおおおおおおおお! あっぷあっぷ!」
『ぐおおおおおお! あ、あっぷあっぷ!』
ゴボゴボゴボ!
大波のすさまじい水圧は、人間の抵抗など許さない。氷のブロックごと、トラと穢卑面は荷台に飲みこまれた。
『ザバァ! き、貴様ああああああ!』
「どうだ、やってやったぜ! あっぷっぷ!」
溺れる2人。
コンテナの中はカラッポだった。ぎっしりと詰められていたはずの荷は、すべて流れ出てしまったらしい。代わりに水、水、水、そして新たに穢卑面とトラが押しこまれた。
わずか8畳ほどのスペースに、それを上回る体積の水が流れこんでくる。コンテナの中に、竜巻のごとき水流が巻き起こった。
まるで洗濯機。
いや、砕石機。
巨大な氷山の質量が、そのまま流れこんでくる!
そのものすごい水圧が、穢卑面はもちろん、超重のトラをも最奥まで叩きこんでしまった。コンテナの壁に全身を打ちつけながら、2人はもみくちゃになる。
「痛え、この……痛え! ごぼごぼ!」
『お、おのれ……ゴボゴボ!』
溺れる。
いや溺れない。
コンテナの水深は、せいぜい140センチ。
高さ2メートルほどの荷台の内が、大波で荒れ狂う。穢卑面は荒波に翻弄され、体勢を立て直すのがやっとだ。
トラは違った。
長靴を床に……車がひっくり返っているわけだから天井というべきだが、いまそんなことはどうでもいい。床に長靴を貼りつけ、なんとか首を水面に出していた。
ズリ!
ズリ!
長靴を貼りつけ、スリ足で出口に進む、進む。
少しずつ少しずつ。
ズリ。
ズリ。
『くっ、ま、待て……!』
穢卑面も負けてはいない。
ガン。
ガン。
ガン!
ガコン!
天井、壁、床……何本もの槍をつっかえ棒に使い、ゆっくりとトラを追う。
……穢卑面のほうが早い。
レースだ。
おそろしく遅い、命がかかったレース。直線距離にして、わずか5メートルに満たない競争。
死にもの狂いで2人は出口に向かう。
ゴボゴボゴボ。
ゴボゴボゴボゴボ!
『どけ、邪魔だ!』
ドガッ!
穢卑面がトラを追い抜いた。
悪魔のような手段で。
「うぎゃッ!」
トラの後頭部に衝撃……ヒジ打ちを食らった。たまらずトラは蹲る。
「ごぼごぼごぼ……!」
『そこで大人しくしておれ! ケケケケ!』
ざぶざぶと穢卑面は進む。
水の勢いが治まってきた。
まもなく穢卑面は出口に到達するだろう。頭を押さえてうずくまるトラを、嘲笑するように笑う。
ケケケケ。
ケッケッケ。
ケーッケケッケッケ!!
さあ邪魔者もいなくなったし、はやくコンテナから脱出しなければ。いや、いい加減に川から出ねば。そしてケッケッケ、フォックスのもとに急がねば。
ギシ。
ミシ、ギシ。
ギィイイイイ。
グラ。
グラグラ……ギイイイ。
ギイイイイイイイイイイイイイ!!
『うお、お、おおおおおおおおおおお!!?』
傾く。
コンテナが傾いていく。
倒れていく……
右に。
2トン車のボディが、右に傾いていく。
ザバァアアアアアアアアアン!
車体が横転する。
コンテナの中に、ふたたび激流が起こった。穢卑面を、またしても水の渦が襲う。
なぜ?
なぜこんなタイミングで車が倒れる?
理由もへったくれもあるか!
『き、き、貴様ああああああああああ!』
「なにが貴様だ、この野郎」
トラ。
トラが、壁に貼りついている。
側面に長靴で貼りつき、水平に立っている。
その重みで荷台、いや車体は倒れていく。逆さまだったトラックが、横倒しになっていく。
ざあああああああああああ!
大波。
すさまじい轟音とともに、配送車は横転した。川に放りこまれるように―――水車のように、沈没船のように。
配送車は横転した。
ズドオオオ!
ドオオオオオオオ!
荷台に新たな水が流れこんできた―――4000リットルもの水が。
『ぬおおっ!』
足を掬われるどころではない。
浮く!
荷台の3分の2を埋めていた水が、横転の勢いでコンテナ内を何度も回転する。何周も、何周も。
スクリュー。
何周も!
すさまじい水流……そして大波。
渦中の穢卑面が、ふたたび押し流されていく。
“ ふりだしにもどる ”
トラのうしろに、はるか後ろに押し戻されていく。
『ぐあああああ! がはッ!』
ドシンッ!
コンテナの奥に叩きつけられる穢卑面。上下さかさまに磔だ。水圧は、手を伸ばすことも槍を伸ばすことも許さない。
あがく。
足をバタつかせる、まるで虫のように。
だが、むなしく水を掻くばかりだ。
じたばた。
じたばた。
『き、貴様! 貴様、キサマ、キサマ……!』
水に沈んでいるにも関わらず、穢卑面の声はよく響く。そして、それが最後の悪あがきだった。
穢卑面は叫ぶ。
叫ぶ。
『ま、待て貴様! 待て、やめろ、待て!』
「待たねえよ。誰が待つか、冗談やめろ」
トラは進む。
ズリ。
ズリ。
荷台にはまだかろうじて、首を出せる程度の余裕が残されていた。流れこむ水は、ようやくその勢いが弱まってきた。
だがもう、どうでもいい。
もう、トラは荷台を出てしまった。
もう、なにもかも手遅れだ。
『あ、あ、あああああああああああ!』
パキ。
パキ。
パキンパキンパキン。
仮面に亀裂が入っていく。
いや穢卑面だけではない。
パキンパキンパキン。
バキバキバキバキ。
井氷鹿も、勇者も……咲き銛も。頑強な鎧に、亀裂が走る。
解放が始まった。
すなわち―――
ルディの肉体が、死を迎えている。
……もうとっくに、サントラクタの夜にルディは死んでいたのかも知れない。だが今度こそ、真の意味で溺死してしまう。
『ああああああああああああ、アアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』
仮面が剥がれていく。
醜悪なドクロの仮面から、ようやくルディは解放されつつある。
目元だけだが、ルディの顔が見えた。
おだやかな、皺だらけの死に顔。
だがそれも、荷台の外にいるトラには見えなかったはずだ。なにしろルディは水に沈んでる。第一、コンテナの奥は真っ暗すぎる。
だからトラは、胸が締めつけられる思いだった。
「悪いな、ルディ。死に顔も拝んでやれねえや」
悲し気につぶやくトラ。
観音開きのコンテナの扉は、いまは左右ならず上下に開いていた。扉の1枚はイカダのように水面に浮き、波に合わせて上下している。
「悪いな、咲き銛。どうか安らかにな」
ガチン。
川底に沈んでいる下扉を、長靴に貼りつけた。水の抵抗などものともせず持ちあげ、荷台の下半分を閉じてしまう。
……バタン。
そしてトラは、上の扉にも手をかけた。
『やめろおおおおおおおおおおおお!』
絶叫。
穢卑面の最後の絶叫。
『やめろ人間! やめろ、やめろおおおおおおおおおお!』
「呪われたやつが密閉空間で死んだら、アイテムはそこに封印されちまう。こいつはルディが教えてくれたんだぜ」
扉を閉じる前に、最後の最後の最後に告げる。
「これで思い知ったろ? 人間には敵わねえってよ」
『やめてくれぇええェえエエええェえ!』
扉が降ろされる。
ブクブク。
ぶくぶくぶく……バタン。
水中で、扉と扉が合わさる。1ミリの隙間もなく、ぴったりと―――悪魔が封じこめられる。
ガコ……ン。
留め金がかけられた。
「あばよ、ルディ」




