第220話 「スペシャルカップ 150cc」
『おのれッ……おのれえええええええ!』
バスを襲う振動はすさまじい。だが穢卑面の目にはトラしか見えていない。
殺す殺す!
ぶわぁ!
左手の勇者剣が……いや上腕を覆う鎧すべてが、ブラインドカーテンのように解れる。
『ブッた斬ってやる! くたばれ!』
トラまでの距離はどのくらいだろう。勇者の射程は、最大47メートル。ぎりぎり届く。
穢卑面は、最初からトラを殺す気はなかった。トラが死ねば、足枷が解放されてしまう。
その結果、こっちが足枷に呪われてしまったら?
動くことさえ出来なくなってしまうではないか。
だからトラを殺す気などなかった。
いまは違う!
足枷が解放されても余裕で逃げられる。こっちは猛スピードで走るバスの上なのだ。まして、トラも遠ざかっている。
いまなら殺せる!
おそらくタンクローリーの運転手が足枷に呪われることになるだろうが、知ったことか。
トラを殺す。
首をハネ飛ばしてやる!
ギュルギュル、しゅばァ!
勇者剣が紙テープのごとく、投げ縄のごとく、空中に散らかる1本の帯のごとくトラに踊りかかった!
だが―――
ボゥオッッ!!
穢卑面の左手が燃えた!
『な、なに!?』
すさまじい熱。
左手が燃えている。勇者に呪われているはずの左腕が。燃えている!
『し、しまった! フォックス……!』
穢卑面の左手に勇者がない。
鉄壁のはずの左腕は剥き出しになっていた。当たり前だ、勇者をほどいてしまったのだから。
そこを着火された!
油断……フォックスが出した炎は、文字通りの導火線だった!
「狐火だぜ、化け物」
フォックスの、恐ろしい声。
悪だくみが上手くいった人間の表情とは思えない。醜く顔をゆがめ、すごい目で睨む。
「ムカつくぜ……アタシに死体を焼かせやがって」
ゴゴンッ!!
車輪を失ったバスは、とてつもない火花を散らしながら路面を滑る。巨大な車体を削りながら、左へ左へとスピンし、ついにフェンスに激突した。
ドガァアアアアアアアア!!
スチールの防護柵を破壊しながらも、バスは止まらない。遠心力、慣性、もはや衝突実験!
『しまああああああああああああ!』
穢卑面が飛ぶ。
バスから振り落とされた……だけで済むはずがない。壁に激突した勢いで、10トンはあろうバスが跳ねる。
穢卑面はフェンスを飛びこえ、高速道路から投げ出された。燃える左手を天に伸ばし、穢卑面は絶叫しながら落下する。
『人間め! 人間めぇエエエエエエエエエエ!!』
雄叫び。
おそろしい雄叫びをあげて、悪魔は転落していった。高速道路の下はどうなっているのだろう。
……そんなの人間の知ったことか。
「アタシ達のそばで死なれたら困るんだよ。地獄に行って燃えちまいな」
吐き捨てるフォックス。
横転したバスを遠目に、やれやれと髪をかきあげる。
「ハッ! バスガス爆発にならずにすんでラッキーだな。いいかげん最悪の1日だぜ」
と―――ギィイイ!
フォックスの乗ったトラックがゆっくりと停車した。道路の左いっぱいに寄せて停まるや、運転席から女が降りてくる。彼女がドライバーのようだ。
なになに!?
ちょっと何!?
叫びながら、運転手は高速の端を駆けていく。
今の今まで、デスレースをしていたことに気づいていなかったらしい。じつに呑気なものだ。だがさすがにバスの異変には気づき、運転手を救助に行ったのだろう。
善き人。
会社のトラックを放り出して、救助に向かったのだろう。
すとん。
道路に飛び降りたフォックスは、無人になった運転席に乗りこんだ。ほとんど当たり前のように。
今日、2度目の自動車窃盗。とんでもない女だ。
ブルンッ。
エンジンをかけるや、せまい2車線の道をいっぱいに使って車体を反転する。
キュル。
キュル、ギュルン!
ブロロロロロロォォォォオオオ!!
急発進……ぎゃ、逆走!
「どけコラ! はじき飛ばしちまうぞ!」
パパー!
ブァパパパパパー!
クラクション連打。
もはや正気の行動とは思えない。フォックスは盗んだトラックで、高速道路を逆走し始めた。
「どいてくれ、アタシは正気じゃねえぞ!」
パッパッパー!
「もしもし、バスが炎上し……ア―――ッ! わ、私のトラック……!」
持ち主だった運転手が叫ぶ。
彼女は割れた窓からバス内の様子を探りつつ、警察に通報していた。勇敢な行動、それをなんと気の毒に……車を盗まれてしまった。
「か、返せ―――! もしもし!? ト、トラック盗まれました!」
スマホを手に、彼女は叫びまくる。
気の毒に。
1車線をまるまる塞いで横たわるバスを、逆走するトラックは慎重に避ける。避けるなり、グオンと猛スピードで走り去っていった。




