第209話 「アクアレッド」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※
「ぶはあッ! はあ、はあ……」
水中から、トラが浮かび上がってきた。はげしく息を乱し、ゲボゲボと水を吐き出す。よく生きてたものだ。
「はあ、はあ……」
湖。
広大な湖。トラは水面に立ち、あたりを見渡した。ひろい……岸まで数百メートルはありそうだ。しかし圧巻なのは上だ。
ものすごい断崖。いや石垣だ。40メートルもあろう石垣のうえに魔王城が見える。あ、あんなところから落ちたのか。いまごろゾッとしてきた。
……いや。
いや、ちょっと待て。どこに立ってるだと?
「ふう……あ?」
ため息をつくトラだったが、なにかおかしいことに気づく。いや戦慄する。
「な、な、なんじゃこりゃ……?」
水面に立っている。
なんとトラは、水の上に立っているではないか。2本の足で……ウソだろ!?
「お、お、俺は……死んだんか?」
固まる。
湖面に立ったまま、トラは固まる。
「ヘイ、死んでねえよ。アタシもお前もな……ゲホッ!」
おなじく水面に顔を出すフォックス。
よかった、生きてた。
トラとちがい、胸から下は水中だ。浮き輪につかまった状態とでも言おうか、焼き籠手は発泡スチロールくらいの浮力を得たらしい。フォックスを浮き上がらせてなお、籠手は半分以上、水から浮き出ている。
「足首見てみろよトラ。お前の長靴、そんなの無かったハズだぜ。ゴホッ、ゴホッ!」
「……え? あ! あ、あ、ああ……なんてこった」
水の上でうずくまるトラ。
長靴の足首に、なにか見慣れぬものを発見した。突起状の部品になにかがある。キーホルダーのように、分銅みたいなのが垂れ下がっている。両長靴に1個ずつだ。
「……いらねー、こんなの」
「アタシのも見ろよ。邪魔くせえなぁ、コレ」
ちゃぷ。
フォックスが傾けて見せた籠手。2本の筒のような部品が、新たに加わっているではないか。
「これ……水な義肢、だよなあ」
複雑な心境だった。
マリィのアイテムに呪われるのは、なんだか形見を受け取ったような気分だ。フォックスにとっては。
トラはちがう。
まさか、まさか2つのアイテムに呪われるなんて……!
「あ、あああ、ああああああ!! 来るんじゃなかったぜえええええ!」
叫ぶ。
「ホント! なんで! なんでこうなるんだよ!」
「シー! 黙れ!」
怒るフォックス。
「俺の旅の目的は! 長靴を脱ぐことだボケ! 最初っから、ずっとずーっとだ! 一度もそっから脱線したことなんかなかったぞ!」
バンバンと水をたたくトラ。
もう泣いてるのか水浴びをしているのかわからない。
「みんなが俺の邪魔をしやがる! なんで邪魔すんだよ! フォックスは呪いが解けなくなってもいいとか言い出すし! やっと見つけたアモロでも呪いは解けねえ! もう俺の呪いは解けねえんだ! おおおおおお!」
じゃぶじゃぶ。
「落ちつけっての。犬じゃねえんだ、水を掘ってもなんにも出てこねえぞ」
「こ、こ、これが落ちついてられるか! いったい俺は、なにと戦ってんだよ! なんだって魔王の軍団なんぞを敵にまわすハメになってんだわあ―――!」
湖に、大の男は泣く。
ズブズブ……なんかちょっと沈んできた。
「ヘイヘイ! 沈んでる!」
あわてて止めるフォックス。止めるっていうか……止められない。トラはどんどん沈んでいく。
「いや解けるだろ、呪い。シーカにパクられたパーツは、お前の長靴に戻ったんだぜ。今のお前なら、1億歩だって歩けるだろ」
「ウソだウソだウソだ! もうこのパターンわかったわ! どうせ水な義肢の部品をそろえてからでなきゃ、長靴のカウントも始まらねえに決まってる! 俺はもうおしまいだうわあ―――!」
泣きじゃくる。
トラはもう、ヒザまで水につかってしまった。緊張の糸が切れたためだろう、わんわん泣きじゃくる。補足しておくが21歳の男です。
「悪いほうにばっか考えるんじゃねえよ。おしまいかどうか、いま占ってやる。籠手よ籠手よ、籠手さん。魔王はどーこだ」
『あっち』
じゃば……ビシ!
焼き籠手は勢いよく、湖の向こうを指さした。城とはまったく見当違いの方向。フォックスが満面の笑みを浮かべた。
邪悪な笑み……ガッツポーズ!
「よぉおおし、よしよしよし! 籠手さん籠手さん、ニニコはどーこだ。ついでにシーカも」
ビシ。
籠手は動かない。さっきと同じ方向を指さしたままだ。
いや、動いた。
ゆっくりと城から遠ざかるように移動しているらしい。
「グッド、グッドグッドグッド!! どうやら魔王の誘拐に成功したみてえだぜ。やっぱ神様は見ておいでだな」
「神なんかいない! ああああ、いないあああああああ!」
泣き叫ぶトラ。
「咲き銛が聞いたら怒るぜ。あ、そうだ。あいつにゃ700万ナラーの貸しがあったんだっけ。やっぱ教会に戻るっきゃねえな」
笑う。
にひにひとフォックスは笑う。
「ああ……こんな開放的な気分は初めてだな。生きてるってのは最高だ。きっとダウナー系のヤクでもこうはいかねえぜ。ふう……」
きらきら。
湖面がまぶしくきらめく。まぶしい―――
「こりゃゴキゲンな展開だ。魔王を人質になんでもできるぜ。まずはハムハムの無事を保証させるだろ。でもって、アタシの犯罪歴を抹消させる。いっそ死んだことにして、新しい戸籍を用意させるとかできねえかな」
ぷかぷか。
「そうだよ、それいいな! 死んじまえば、もうサツに追われずにすむわけだ。生まれ変わった気分で放火屋やれるってわけだ。トラとニニコと3人でよ」
「もう死にたい! 俺も死にたい、わあ~!」
ぱちゃぱちゃ。
「くそったれ、焼き籠手はアタシのもんだ。絶対、連中になんか渡さねえぞ。アタシが死んだら魔王の好きにすりゃいいさ。それまではアタシのものだ。アタシの……」
じゃぶ。
うっとり、籠手に頬ずりするフォックス。
「トラももう、死ぬような思いする必要ねえぞ。あとはアタシがうまく魔王軍と交渉してやるからよ。ああクソ、要求リストを作んなきゃ始まらねえよ」
「なんなんだよ俺の人生は! こんなマンガみてえな人生もうたくさんだ! 最悪のマンガだ、打ち切りマンガみてえな人生だわあー!」
ぱっちゃぱっちゃ。
「もうなに言ってんだか……マンガがどうしたってんだよ」
ちゃぷちゃぷ。
「俺の人生は敵ばっかだった! なのに、なのに……ラスボスがなんなのかわからねえ! 最終的になにを倒せばいいんだよ! ゴールラインがわかんねえから、なにを目的に生きりゃいいのかわかんねえんだようわあ―――!!」
ぱっちゃぱっちゃ。
「もしほんとに神がいるってんなら! ラスボスがなんなのかはっきりさせてくれ! どうすりゃハッピーエンドになんのか教えてくれうわあ―――!!」
ちゃぷちゃぷ。
「あのなあトラ……マンガじゃねえんだぞ?」
ためいき。
「マンガみたく、倒して終わりのラスボスなんぞいるわきゃねえだろ。大人になれよ、いいかげん」
「頼むからもうこんな人生、打ちきってくれ! 俺はもう死ぬ! 溺死する! さようなら……ああ…………いや、なんで沈まねえんだよ!」
今度はまったく沈まないトラ。
どうやらコントロールの効かない浮力らしい。水面で地団太を踏む。バッチャバッチャ。
「俺の敵はいったいなんなんだよォ―――! どこにいやがるんだ、出て来やがれおあああああああ―――!!」
「しょうがねえな、これが終わったらいいことしてやるから。ホラおいで、逃げるぞ。歩けるな? ついて来い」
スイ、スイ。
フォックスは泳ぎ始めた。トラのズボンを引っぱって、岸まで連れて行ってあげる。声の限り、励まし続ける。
「がんばれ、ハムハムは城の中でひとり耐えてんだぞ! アタシ達は魔王をつれて逃げなきゃなんねえんだ。なあに、ニニコがきっと上手くやってるさ」
驚くべきことにトラは歩く。水の上を……幼児のように泣きながら。まさに水な義肢の能力そのものではないか。おそろしい能力を得てしまった。
ノルマの1億歩は、いまどのくらい消化しているのだろうか。あるいはトラが言うように、水な義肢の呪いを解くまでカウントは始まらないのだろうか。大丈夫だと信じたい。
「はあ、はあ。もうダメだ……ちょっと休憩」
15メートルくらい泳いで、フォックスは力尽きた。ぷかぷかと浮く姿は、まるでラッコではないか。
籠手は " 水な義肢 " を得て、どう変わったのだろうか。恐ろしいことにならねばいいが。
「もうこのまま死ぬ―――!」
ずぶずぶ。
トラは首まで沈んでしまった。
天空にそびえる魔王城からは、まだ黒煙が立ちのぼっている。
あ、いま……ウウウウウウ!!
サイレンが聞こえてきた。どうやら消防車と救急車が到着したらしい。これでもう大丈夫。火は消えるだろう。
魔王なき魔王城は、はたしてこのあとどうなってしまう?
魔王なき魔王軍は、はたしてこのあとどうなってしまう?
……魔王をさらった愚か者たちは、はたしてこのあとどうなってしまう?
その愚か者を逃がすため、魔王城に残った者はどうなってしまう?
恐ろしく長い半日だった。
呪いが解けなかった者たちよ、新たな呪いを得た者たちよ。お疲れさま、そして聞いてくれ。
ようやく本編がはじまるぞ。




