43.王宮生活終了
「やあ、エステル。久しぶりだねえ。王宮に侵入した蛇の王子を退治したんだって? そんな面白そうな騒動を見逃したなんて、実に残念だ。僕も晩餐会に出席すればよかったよ」
ハハハと明るく笑うアンセリニ侯爵に、わたしは引き攣り笑いで答えた。
「いえ、退治とかそういう訳では……、それに、実際に戦ったのはクレイン様ですし」
わたしが蛇族の王子様を退治って、何がどうしてそういう噂が広まるのか……。ほんと宮廷って怖い。
本日、王宮に上がったアンセリニ侯爵が王妃殿下のご機嫌伺いにいらっしゃったので、その帰りにわたしにもお声をかけてくださったのだ。
王妃殿下はこの時間、王とその側近たちとともにいて不在のため、侍女たちも心なしかリラックスしている。
しかし王妃殿下の目がないということは、普段の鬱屈をここぞとばかりに晴らす者もいるということだ。
「まあ、婚約者のいる身で侯爵閣下にまで色目を使って、はしたないこと」
「婚約者の陰に隠れて王妃殿下に告げ口をするようなお方ですもの。また何をたくらんでおいでなのか、恐ろしいですわ」
ナタリー様とケイト様がこちらを見ながら、聞こえよがしに悪口を言っている。
アンセリニ侯爵は眉を上げ、わたしにささやきかけた。
「あれは何なんだい? 君、ひょっとしてここにいる間中、あんなのに絡まれていたの?」
由緒正しい侯爵および伯爵令嬢をあんなの呼ばわりするアンセリニ侯爵に、わたしは思わず吹き出した。
「エステル、笑いごとではないよ。君はアヴェス王国の王子であるクレインの婚約者なんだ。君は、それに相応しい扱いを受ける権利がある。あのような侮蔑を受けるいわれはない」
「わかっておりますわ、アンセリニ侯爵」
わたしは振り返り、ナタリー様とケイト様にひと言物申そうとした。すると、
「ナタリー様、ケイト様も。エステル嬢はアヴェス王国王子たるグルィディ公爵閣下の婚約者でいらっしゃるのですよ。……それに、エステル嬢が高潔なお人柄であることは、皆さまもとうにご存じのはず。そのように侮辱して、後悔なさるのはお二方のほうです」
驚いたことに、キーラ様がお二方を諫めてくださった。
「エステル嬢」
キーラ様はくるりとわたしを振り返ると、深々と頭を下げた。
「王妃殿下付き侍女頭として、またわたくし個人として、エステル嬢に謝罪いたします。王宮における生活で不快な思いをさせてしまったこと、その身の安全を守るどころか危険にさらしてしまったこと……、心から申し訳なく思っております」
「キーラ様」
わたしは慌ててキーラ様の謝罪を止めようとし、それから気づいた。
キーラ様は、アヴェス王国大使であるアンセリニ侯爵の前でナタリー様たちを咎め、わたしに謝罪することによって、非公式にアヴェス王国に対して謝意を示しているんだ。
しかし、ナタリー様とケイト様の嫌がらせはともかく、ユラン殿下による誘拐未遂はキーラ様のせいじゃないと思うんだけど。
あの事件の後、ユラン殿下がどのように王宮に侵入したか調査されたのだが、ユラン殿下はズメイ王国大使ザルティス様の手引きを受けていたことがわかった。キーラ様はたまたまそこに居合わせただけで、脅されて言いなりになっただけなのだから、謝罪の必要はまったくないと思う。わたしだって逆の立場なら、蛇の王子様に立ち向かうなんてできないだろうし。
「キーラ様、謝罪を受け入れますわ。そのようにおっしゃっていただき、嬉しく思います」
わたしの言葉にキーラ様は顔を上げ、ホッとしたように微笑んだ。
アンセリニ侯爵も肩をすくめ、「エステルが納得しているなら僕はかまわないけど」と言い、その場を後にした。
キーラ様はわたしを見つめ、しみじみと言った。
「……王妃殿下のおっしゃる通り、エステル嬢は素晴らしい領主におなりでしょうが、わたくしとしては有能な侍女を失うことを残念に思っております」
「キーラ様、そこまでお褒めいただかなくとも……、自分が役立たずだったことは承知しておりますので」
さすがに気恥ずかしくなってそう言うと、キーラ様は静かに首を横に振った。
「いいえ。王妃殿下付き侍女頭として申し上げますが、あなたは王妃殿下へ献策しうる識見と善良な心根をあわせもつ、誠に得難い人材でした。あなたが王宮を去り、本来の生活に戻れることを心から嬉しく思いますが、しかし侍女頭として残念に思っているのも本当です」
いつもはちょっと冷たく見えるキーラ様の表情が、柔らかくほどけている。
わたしは何だか胸がいっぱいになって、キーラ様に頭を下げた。
「そのようにおっしゃっていただいて、なんと申し上げればよいのか。身に過ぎたお言葉ですけど……、嬉しいです」
王宮にきてすぐ、家に帰りたくて泣きたくなったけど、今はキーラ様や仲良くなった侍女たちと離れることを思って泣きそうになっているとは。
変われば変わるものだ。王宮を去ることを寂しく思う日がくるなんて。
まあ、悔しそうにこちらを睨みつけるナタリー様とケイト様とお別れするのは、ぜんぜん寂しくありませんが。




