35.罠
当たり前だが、通常は晩餐会の途中で呼び出しがかかることなどない。
しかし、キーラ様は本日の晩餐会に王妃殿下付きとして部屋に控えていたし、いま姿が見えないということは、何かイレギュラーな事態が持ち上がったということなのだろう。
わたしは従僕の後について晩餐の間を出た。中庭に出る回廊に、キーラ様は立っていた。
「エステル嬢」
キーラ様はどこか緊張をはらんだ声で言った。
「急に呼び出して申し訳ありません。王妃殿下が所有されている宝飾品の一つ、ファイラスの真珠と呼ばれる首飾りを取ってこなければならないのですが、わたくしは長く殿下から離れることができません。エステル嬢に首飾りを持ってきてほしいのですが、お願いできますか?」
わたしは少し驚いてキーラ様を見上げた。
「もちろんです。しかしわたしはその首飾りを拝見したことがないので、どのようなお品か教えていただけますか?」
「いいえ」
キーラ様は首を振り、ゆっくりと言った。
「以前、ご覧になったことがあるはずです。朝食の後、肩の出るドレスを王妃殿下がお召しになった際、その首飾りを王妃殿下はつけておられました」
わたしは驚きを顔に出さぬよう、とっさに下を向いた。
肩の出るドレス。
朝食の後には着替えなければならない。しかしファイラスの王宮では、朝食後に肩の出るドレスを着てはならないという決まりがある。王宮生活の初日、キーラ様ご本人から伺った規則なのだ。そのキーラ様が間違えるわけがない。
ということは……。
「……思い出しましたか、エステル嬢?」
キーラ様の問いかけにわたしはうなずいた。
「はい、キーラ様」
「そう、良かった。……首飾りは宝物殿に納められているので、中庭を通っていくのがよろしいでしょう」
「かしこまりました」
回廊から中庭に足を踏み入れると、従僕がわたしを急かした。
「お急ぎください、早く首飾りを王妃殿下にお渡ししなければなりません」
「申し訳ありません、今夜は少し小さな靴を履いてきてしまったせいで、足が痛いのです」
わたしは足をさする振りをしながら、必死に考えた。
恐らくこれは、罠だ。
キーラ様は、精一杯の方法でわたしに危険を知らせてくださったのだ。
王妃殿下付きの侍女頭、キーラ様でさえ、正面切って逆らえない相手。たとえ一時でも、キーラ様を押さえつけて言いなりにできる相手。
……そんなの、蛇族の元王子しかいない。
それなら、少しでも時間を稼がないと。
「ハーデス男爵令嬢、早く」
しゃがみこむわたしの肩を、従僕がつかんだ。その時だった。
「その手を離せ」
ゾッとするような低い声が聞こえた。
顔を上げると、月明かりに照らされる中庭に、まるで不吉な死神のような黒い影が見えた。
黒いローブをまとったその人は、クレイン様と同じくらい背が高く、肩幅も広かった。
その人は、顔を隠すようにかぶっていたフードを払いのけ、まるで睨むようにわたしを見た。
熾火のように真っ赤に輝く瞳に、わたしは息を呑んだ。
あの人だ。クレイン様と婚約(?)した晩、わたしの部屋に不法侵入した……。ズメイ王国の元王子、ユラン殿下!
「エステル」
低い声で呼ばれ、わたしは体を震わせた。
ど、どうしよう。
キーラ様はおそらく、ユラン殿下に脅されている。クレイン様に知らせてもらえる可能性は低い。
なんとかクレイン様が気づいてくださるまで時間を稼がなきゃならないけど……。
ユラン殿下が一歩、わたしに近づいた。それに、わたしはなす術もなく、ただうずくまって震えていた。




