独り言
「貴様が……!」
「おいおい、怖い顔するなよ。せっかくの色男が台無しだぜ?」
すぐ目と鼻の先。喫茶店のテラス席に座っていた眼帯男は、この期に及んでもなお余裕の態度を崩しません。ゆったりとした動作で立ち上がると、十mほどの距離を開けてシモンと向き合いました。
「武器とその本を捨て降伏しろ。そうすれば」
「命だけは助けてくれる、ってか? くく、お優しいねぇ」
降伏の勧告にも応じる素振りはなし。
それに、たとえ抵抗されようともシモンには相手を殺せない事情がありました。
「いや、それとも殺せないのか。この本のことは知ってるみたいだしな?」
「……!」
『歪心の書』には、シモンが把握しているだけでもいくつもの性質があります。
その一つが、術者が死んだ場合は、操られている者が心を壊して廃人になってしまうというもの。
現在広場に倒れている術の被害者たちは、気絶しているだけで術が解除されたわけではありません。もし、この状況で術者が死ねば彼らも道連れになってしまいます。
それを避けるには、術者自身の意思で術を解除させるしかありません。
「ま、どっちにしろ、おとなしく捕まってやる気はないがね」
眼帯男は左手に本を持ったまま、懐からナイフを抜きました。
特に業物という風でもない、大量生産の安物です。
構え一つ見ても戦いの素人なのは明白。先程のシモンの動きを見ていれば、勝ち目など万に一つもないことは誰の目にも明らかでしたが。
「ここから逃げられるつもりか?」
「ん? いやいや、俺は戦いなんて野蛮なマネはしないさ」
それでもシモンは愛剣を正眼に構え、油断なく男の一挙一動に気を配っていました。
相手の言う通り殺す気はありませんが、武器と本を取り上げて無力化し、拘束してしまえば事件はひとまず解決します。
それとは対照的に、眼帯男の姿からは戦意らしきものはまるで感じられません。
……それもそのはず。
「このナイフはな……こうするためのモンさ!」
男は強く握り締めたナイフを、あろうことか自分の首に突き立てようとしたのです。
絶体絶命の状況で自暴自棄になり、せめて大勢の人生を道連れに死んでやろう……などという雰囲気ではありません。
そこにあったのは明確な意思。
強い悪意が感じられました。
「ぐっ!?」
幸い、瞬時に反応して距離を詰めたシモンが喉に突き刺さる前に刃を掴み止め、辛うじて未遂に終わりました。咄嗟のことで身体強化が不十分だったのか、シモンの掌からは血が滴っています。
「馬鹿な!? 自害だ……と?」
しかし、この自殺未遂。相手にとっては成功しようが失敗しようが、そんなことはどちらでも良かったのです。
「……はズれ……」
途端に男の声が抑揚を失い、邪悪な光に満ち満ちていた瞳もいつの間にか、彼が人形と呼ぶ者達と同様の曇ったものに変貌していました。
そもそも、何故ここまで隠れ潜んでいた相手が易々と姿を現したのか?
否、最初から姿を現してなどいなかった!
そう、この男は操られていただけの被害者。
シモンが眼帯を剥ぎ取ると、そこには生身の目がありました。
「違う! こいつは彼らを操っていた奴じゃない!」
隻眼ではない、風貌が似ていただけの人物に眼帯を付けさせ、影武者として利用していたのでしょう。先程の襲撃にも参加させずに近くで待機させ、いざという時に囮として使うために。
「本も……普通の本に色を塗ってあるだけか」
当然、本のほうも偽物でした。
魔道書でもなんでもない普通の本に、紫色の顔料で塗ってそれらしく見せているだけ。
手に取って確認してみれば判別は容易ですが、遠目には見分けることなどできません。演出のための小道具といったところでしょう
そして、偽者も偽物も、一つだけで終わりではなかったようです。
「……ソう、本物はオれダ……」
「……イいや、おレダって……」
「……もシかしタラ、オレかモしれナイぜ?……」
「……いヤ、オれダ……」
「……マあ、ダれデモいイか……」
広場のあちこちに眼帯を付けた背格好の似た男達が何人も現れました。
ご丁寧に全員が紫色に塗った本を手にしています。
そして次の瞬間、全員が一斉に別方向に向けて走り出しました。
『あっ、逃げられちゃうの!』
「おのれ……!」
恐らくは姿を見せた全員が偽者。
しかし、シモンの立場では無視はできません。
たとえ、相手の思惑が分かっていようとも。
◆◆◆
「くくっ、追わないワケにはいかないよな?」
黒幕は、眼前で繰り広げられる追いかけっこを楽しそうに眺めていました。
元々は一般人でしかない人形たちは、こうしている今も身体能力の差でどんどんと捕らえられ無力化されていっていますが、時間稼ぎとしての役目は充分に果たしています。
馬鹿正直に大通りを逃げるのではなく、建物の中に入り込ませたり、民間人を人質に取らせたり、見付けにくい場所に隠れたり。
それでも稼げる時間は五分もないでしょうが、広場から離れて身を隠すには充分。
相手が目にも留まらぬ速さで動けるからといって、逃げるのにそれ以上の速さが必要とは限りません。ただ、こうして普通に歩けば事足ります。
普段から目立つ眼帯を身に着けているのも、今しがたこれ見よがしに騒動の元凶が「眼帯をした男」だと周囲にアピールしたのも、こういう時に逃げやすくするための策。眼帯を外して義眼を入れれば誰かに見咎められることもありません。
「予定は狂ったが……まあ、いい」
客観的に判断すれば、逃走にこそ成功したとはいえ今回のモトレドの作戦は大失敗。
本を持っていると踏んだ少女達も、結果的に狙い通りの場所に追い込めたとはいえ予想以上に粘られましたし、それに時間を取られたせいで鷲獅子やシモンといった想定外の障害に阻まれる結果になりました。
苦労して作った人形も九割以上を失っています。
今回の事件で街の警備は一層強化されるでしょうし、ここから先、この街で大々的に手駒を増やすのは難しいでしょう。
「くくっ、ははは」
しかし、彼はその失敗すらも楽しむかのように笑いました。
少なくとも、惨めな敗残兵という雰囲気ではありません。それはまるで、いつしか目的を取り違え、大金ではなく勝負の機微やスリルそのものを求めるようになった賭博中毒者のようで……。
広場から歩いて離れたモトレドは、空いている辻馬車に乗り込みました。
「駅のあたりまで適当に走らせてくれ」
「へい。そういやお客さん、広場のほうが騒がしいですけど、何かあったんですかね?」
「……。さあな」
彼が操っている御者は何人かいましたが、先程の作戦で全員失っています。
操作されている者は自分から雑談を持ちかけてなどきません。質問をすれば偽りなく答えますし、話しかければ返事はします。ですが、こんな風に自分の意図しない話題が御者から出てくることに奇妙な新鮮さを覚えていました。
座席に腰掛けたモトレドは、懐に隠し持っていた『転心の章』を取り出すと、その表紙を優しく撫でながら囁きました。
「……悪い悪い。そう機嫌を悪くするなよ」
「ん? お客さん、何か言いましたかい?」
「いや、独り言さ。癖でね。気にしないでくれ」
職業柄変な客には慣れているのか、御者もそれ以上の追及はしてきませんでした。
まあ、広い世の中、本とお喋りするのが趣味の人がいても不思議はありません。
「遊びすぎだって? ……まあ、うん、そうだな。悪かった、次は真面目にやるさ」
「……たしかに、あの騎士のニイさんは厄介だな」
「そうだな、こういう作戦はどうだ?」
「ああ、約束するとも。もうすぐお前を姉さんに会わせてやる」
まるで機嫌を損ねた恋人を宥めるような声音で、モトレドの「独り言」は辻馬車が止まるまで延々と続きました。




