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幽霊伯爵の婚約譚  作者: みづき
二章 望むもの
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<4>

 次の日の朝、リゼルは扉の前に佇んでいた。

 この奥にはヴェルミオンがいる。

 きっと、安らかな寝息を立てて眠っているのだろう。

 手を上げ、扉を叩こうとし――一瞬ためらう。しかし意を決して扉を叩き、いつかの再現のように名を呼んだ。

「ヴェルミオン様。……ヴェルミオン様、起きてください」

 少し声を大きくして呼ぶも、返ってくるのは静寂のみ。

 ここはやはり部屋の中に入り、ヴェルミオンの近くで起こす方がいいのか。あまり遅くなると、食事の用意をしてくれているラシェルに怒られてしまうだろう。

「失礼します」

 リゼルは手を伸ばし、そっと扉を開ける。

 重厚なカーテンの隙間から差し込んだ陽光が絨毯を照らし、豪奢なベッドまで伸びていた。

 足音を立てぬよう歩み寄りベッドを囲む布を掴んで支柱にくくりつけると、健やかな寝息を立てるヴェルミオンが現れる。

 汚れのない真っ白なシーツに広がるのは金糸の髪。

 わずかに身じろぐたびにさらりと揺れて、その奥には固く閉じられた宝石を思わす紫の双眸が隠されている。あまり外に出ないというヴェルミオンの肌は白く、ベッドで眠る姿はまるで一枚の絵画のようである。

 リゼルは小さく息を吸い込む。

「ヴェルミオン様。朝です、起きてください」

 控えめに肩を揺するとヴェルミオンの口から声が漏れ、もぞもぞと動いたのを見てほっと安堵した。

 瞬間、リゼルの視界が大きく揺らぐ。

 腕を強く引っ張られ、とっさに目を瞑ると温かな何かに抱きとめられる。

「おはよう。リゼル」

 耳元で聞こえるのは掠れた声。頬に触れるのは金色に輝く髪。

 目を見開くと抱き込まれる形でヴェルミオンの上に圧し掛かっていて、シーツ越しにかすかな温もりが伝わってくる。手をついた胸板は思いのほか硬い。

 どくん、と鼓動が跳ねた。

 そしてリゼルが起き上がるよりも早く、ヴェルミオンの手が伸びる。

 鳶色の髪を一房絡めた指先が、するりと頬に移動する。優しく頬を撫でた長い指がリゼルを軽く引き寄せ、眼前に整った顔が近づく。

 唇に吐息が触れ――リゼルは悲鳴を上げて飛び退いた。

「な、な……なにを、するんですか……っ!?」

「なにって、朝の挨拶」

 ベッドから十分な距離を取ったリゼルは、ばくばくと暴れる心臓を守るように手をあてる。

 耳が熱く、触れそうだった顔はもっと熱い。

 一連の動きはどれもゆるやかなもの。

 ごく自然な仕草で、ともすれば受け入れてしまいそうな――リゼルは慌てて思考を振り払う。

 ヴェルミオンは体を起こし、顔を真っ赤に染めたリゼルを見て首を傾げた。

「どうして逃げるの?」

「どうしてって、こっちが訊きたいです!」

「夫婦は毎朝口づけを交わすものだと聞く。挨拶のうちの一つだそうだ」

 さも当然のように言われ、リゼルは頭を抱えたくなる。

 ヴェルミオンの語る内容は一部の夫婦の形を表したもので、〝理想〟と呼ばれる部類に近い。妻が夫を起こすという〝理想〟を始め、なぜそんなものばかりを真に受けて実行しようとするのか。

 仲の良かった両親を思い出すも、朝の口づけを交わしているところなど見たことがなかった。リゼルはヴェルミオンの考えていることがわからず、赤くなった頬を押さえる。

「リゼル」

「しません!」

「どうして?」

「あ、挨拶は言葉だけで結構です!! おはようございます、ヴェルミオン様!」

 そう叫んで言い捨てたリゼルは、ぽかんとしつつ律儀に挨拶を返すヴェルミオンから視線を外し、脱兎のごとく部屋から逃げ出した。

 鳶色の髪を翻して食堂に駆け込み、ラシェルにヴェルミオンが起床したことを告げる。

 そして準備を手伝いつつヴェルミオンを待ち、やってきた彼とともに三人で食卓を囲んだ。

 ヴェルミオンの顔をまともに見れず俯いたまま食事を進めたリゼルは、ラシェルに後片付けを手伝うと申し出てそそくさと食堂を後にする。

 厨房に足を踏み入れ、銀食器を台の上に置くと深いため息が漏れた。

「もしかして、ヴェルミオン様のご両親は毎朝あんなことをしておられたの?」

 だから、ヴェルミオンはそのような考えを持っていたのだろうか。

 ならばそれは理想ではなく、彼にとっての日常になる。

「でもまだ婚約で、正式な夫婦じゃないのに。あんな……」

 唇に触れた吐息を思い出し、リゼルの頬が赤く染まる。

 まだそこに熱があるような気がして身じろぐと、積み重なった銀食器が腕にぶつかり派手な音を立てて床に崩れ落ちた。

「何してるんだ」

 慌ててしゃがみこみ、傷がないことを確認して拾い上げると頭上から声が降ってくる。

 わずかに怒気を含んだそれに顔を上げると、ラシェルが眉を寄せて膝を折った。

「ご、ごめん」

 食器を拾い上げていくラシェルに肩をすぼめたリゼルは、皿を一枚掴む。すると手の中から滑り、再び床に音を立てて落ちた。

「あっ」

「もういい、あっち行ってろ。注意力が散漫な時に手伝われても、逆に迷惑だ」

 とっさに手を伸ばしたリゼルにぴしゃりと告げ、ラシェルは素早く銀食器を片付けると台の上に乗せた。

「……ごめん」

「洗濯場はわかるな。すでに洗ってある、後は干すだけだ」

 背を向けてしまったラシェルに小さく謝ると、告げられた言葉にリゼルは目を瞬く。

 そして言わんとしていることがわかったリゼルは頷き、並ぶ調理器具らに当たらないよう気をつけながら厨房を出た。

 洗濯場へ向かい、衣服の入った籠を抱え外へ出る。

 空を見上げれば清々しいほどの青色に眩しく光る太陽が佇んでいて、これならすぐに乾くだろうと、リゼルは順番に衣服を干していく。

 爽やかな風に、ほのかに春の香りが混ざる。

 まだ少し火照った頬にはそれが心地よく、乱れた心が落ち着きを取り戻した。

「せっかく手伝わせてくれるようになったのに。……しっかりしなきゃ」

 風にはためく衣服を眺め、リゼルは空になった籠を持って屋敷に戻ろうと踵を返した。

 その時、何かが落ちる音が聞こえる。

 かすかなそれに顔を上げ辺りを見回すも、音の元になるものは見当たらない。

「なに?」

 やけに耳につく音だった。

 金属のような、陶器のような――何かが壊れてしまいそうな音。

 ふいに目に映ったのは、地下室へと続く場所だった。石に囲まれた入口を見つめ、そろりと歩み寄る。

「……誰かいるの?」

 中を覗くも、見えるのは底なしの闇だ。

 ヴェルミオンがいるのかと思ったけれど、彼は朝食を済ませた後外出すると言っていた。

「まさか、強盗?」

 屋敷の主人が不在の時を狙って現れる輩。金品を盗み出し、平気で売りさばく彼らは時として貴族をも狙う。

 リゼルはとっさに辺りを見、武器になるものを探す。そして近くに立て掛けてあった一本のほうきを掴むと、こくりと唾を飲み込んで階段に足を降ろした。

 一歩踏み出すごとに鼓動が速くなる。

 ほうきを握りしめる手に力を込め、リゼルは闇の奥を見据えた。

 人様のものを盗み、金に換えようなど許されることではない。さらに、この地下室に並ぶものはすべて大切な遺品である。

 故人の温もりを感じられる、たった一つのもの。

 それを知らないとはいえ盗もうなどと――リゼルは扉を音が立たないように開く。

 部屋の中に灯りはなく、どろりとした闇に足が竦む。

 呑み込まれそうなそれに震える足を叱咤し、ほうきを構えて部屋の中に入った。目を凝らして見回すが人の気配はなく、荒らされた形跡もないように思える。

 杞憂だったのかと肩の力を抜くと、靴のつま先にこつん、と何かが当たった。かがんで手探りで拾い上げ、扉の近くにあったランプに灯りをともす。

 傍に寄せると小さな白い駒だった。

 白馬の頭の形をしたそれはチェスの駒で、こんなものまであるのかと驚いてしまう。

 棚に戻そうと立ち上がった時、手の中にある駒の異変に気づく。

「なに……?」

 黒い〝もや〟が、リゼルの手から――否、駒から溢れ出す。

 徐々に大きくなっていくそれに目を見開き、リゼルはとっさに駒を投げ捨てた。

 けれどランプに照らし出されたそれは肥大し、リゼルを覆うように伸びてくる。

 悲鳴が喉の奥に詰まる。

 走って逃げ出そうにも足が動かず、引きずるように後退ることしかできない。得体の知れない黒い影に視線が囚われ、リゼルは小さく喘ぐ。

 底の見えない闇にすべてが覆われる――そう思った瞬間、リゼルの意識がぷつりと途絶えた。

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