あの日を取り戻す旅⑧
次の日の朝、昨夜から降り続く激しい嵐は止むことはなく星祭りはやむなく中止することとなった。
そうなってしまうと予定が無くなり暇をもて余すことになったアーティアとデイモン。
二人の間に漂う空気はあの王都で過ごす日々に比べると見違えるほど柔らかくなったが、まだまだぎこちない。
二人がぎくしゃくしてしまった核心についてはお互いにまだ触れることが出来ていないので、核心部分では何一つ問題も解決しておらず揺れ動くシーソーのような危うさの中必死に取り繕っている状態だ。
アーティアとデイモンは星祭の中止を決定した後、それに伴う事務手続きや領民や使用人達への報告と指示を出し終えると、遅い朝食を二人で食べた。
しなければならないことは全て終えてしまったが、嵐のため王都に戻ることも出来ず暇をもて余した二人はお互いにどうすれば良いのか戸惑っていると、それを見かねたベスに促され共に同じ部屋で過ごすことになった。
アーティアは刺繍を、デイモンは読書をして其々が別々の事をしながら過ごす。
やはり会話がはずむことは無かったが、つい先日までの息苦しさは不思議と感じなかった。
しばらくしてベスが紅茶とケーキを持って部屋を訪れる。
「このケーキ、ベスが作ったの?」
「ええ、そうでございますよ。祭りの準備がなくなって少しお時間ができましたから作ってみました。」
「私ベスのケーキ大好きよ。ありがとう。」
綺麗にカットされたオレンジ色のケーキは、多分キャロットケーキだろうか。
ケーキを口に運ぶと口内に優しい甘さがじんわりと広がって行く。
「懐かしいですね。昔は奥様が此方に訪れた時や私が王都の邸へ使いに行く度にお小さかった奥様が私に『デイモン様の好きなお料理を教えてください』とよくねだられて」
「ふふ、そんなこともあったわね。」
幼い頃、ベスを困らせていた日々を思い出し笑みが溢れる。
アーティアが五つになった誕生日の翌日から本格的な花嫁修業と淑女教育が始まった。
家庭教師として両手では収まらない数の人々を付けられ、それこそ指先一つの動きから天文物理学なんていう普通に生きていたら「それ必要?」っていう知識まで学ばされたのも今となってはいい思い出だ。
一般的な学問の勉強とは別に、ステラ伯爵家の花嫁として欠かせないのがステラ伯爵家の歴史とその特異な一族の生態と一族の間で決められたタブーやルールを学び頭に叩き込むことだ。
ステラ家の歴史を学ぶ中で特にアーティアが酷く衝撃を受けたのは、彼等の花嫁に与えられる"恩恵"についてだった。
永遠に限りなく近い命、と聞けば大多数の人間は羨み渇望するだろう。
だが、アーティアはそうは思わなかった。
ひとりぼっちで、年老いて死にゆく友や家族を見送る人生とは一体どんなものなのだろうか。
ステラ伯爵家の花嫁に与えられる哀しい定めを知ってからと言うもの、アーティアは物思いに耽ることが多くなった。
このままデイモンの花嫁となれば、いずれアーティアは彼から"恩恵"を与えられ共に長い月日を生きることになる。
正直に言ってしまえば、アーティアは怖かったのだ。恐ろしくて堪らなくていっそ逃げ出したいと何度願ったことかわからない。
『竜の番に選ばれるだなんてとても羨ましいですわ』
『わたくしも永遠の若さと命が欲しい』
そんなことを言われる度に、じゃあ代わってよと心のなかでアーティアは何度呟いたか知れない。
そんな事を思っては自己嫌悪に苛まれる日々を一年近く送っただろうか。
そんなアーティアに転機が訪れる。
それは今日のように星祭りに参加するためにミレニオ村にデイモンと共に滞在した時のこと。
デイモンの婚約者としてステラ伯爵家の納める領地を実際に見て見識を深めるようにと言われステラ家の別邸で数日間ステラ一家に混じって一緒に過ごすことになったのだ。
ミレニオ村で過ごす間くらいはゆっくりと過ごして欲しいというアルテミスの心遣いで、アーティアはいつもは分刻みのスケジュールで朝から晩まで厳しく行われる花嫁修業を免除されていた。
時間をもて余していたアーティアが別邸を探索しているとキッチンでケーキを作っているベスに気がついた。
時計を見ると16時を回った所。
つい先程アルテミス達と共に料理人のロペスの作った美味しいクッキーでティータイムを過ごしたばかりだった。
明日の仕込みかとも思ったが、料理人のロペスならまだしもメイドのベスが何故お菓子作りをしてるのかしら?とアーティアは首を傾げた。
アーティアがそんな疑問を素直にベスに問いかけると、返ってきたのは意外な言葉だった。
「これは内緒なんですけどね、このアップルパイはデイモン坊っちゃまのなんですよ。」
秘密を打ち明けるように声を潜め、ベスはニヤリと笑った。
「え?でもデイモンは甘いものが余り得意ではなかったはずよね?」
アーティアは先程のティータイムでも出されていたクッキーに手を伸ばすことのなかったデイモンを思い浮かべ首を傾げる。
「ええ、そうですよ。表向きはね。」
ベスが言うにはデイモンは実は筋金入りの甘党、らしい。
普段は『甘いものは苦手』だと言っているが、デイモン一人の時はコーヒーや紅茶には砂糖を山盛り三杯は入れて飲んでいるのだとか。
「昔は坊っちゃまも堂々と甘いものを食べていたんですがね、ある時ご友人にそんな怖い顔してるくせに甘いものが好きなんて女々しい奴だなとからかわれたそうで……。」
それからデイモンは表向き『菓子は苦手』だと言うようになったのだとか。
だが、やはり甘いものはやめられなかったようで気心の知れているベスや本宅の料理長に時々こっそりと頼んで糖分を補給しているのだそうだ。
そんな話を聞いて、アーティアは思わずデイモンを可愛いと思ってしまった。
八つも年上で、いつもムスっとしている顔の怖いあの大きくて無愛想なデイモンのことを、だ。
「この事は内緒ですよ?アーティア様。母君であるアルテミス様ですらこの事はご存知ないんですから。」
「そんな大切な秘密を何故私には教えてくれたの?」
アーティアが問いかけると、ベスはふわりと微笑んだ。
それは貴方が坊っちゃまの番だからですよ、と。
それは嫌というほど聞かされてきた言葉だった。
番と言われる度にアーティアは恐ろしくて堪らなくて、耳を塞ぎたくなった。
だけど、なぜだかその日はベスの柔らかな声のせいか素直にその言葉を受け入れることが出来た。そして今までとは違う感情がアーティアに芽生える。
オーブンからふわりと漂う林檎の甘酸っぱい生地の焼けた香ばしい香りがアーティアの鼻孔をくすぐる。
「……デイモン様はアップルパイが好きなの?」
「ええ、お菓子の中でもアップルパイが一番お好きみたいです。私の作るアップルパイは世界一だと今のアーティア様くらいの時はよくお褒めくださったのですよ。」
ベスはそう言って心から嬉しそうに微笑んだ。
そんなベスを瞳に写して、アーティアは心のなかでポツリと呟く。
(だけど、貴方はいつかデイモンを残して死んでしまうのでしょう?)と
あと何年ベスは世界一のアップルパイをデイモンに作ってあげられるのだろか?
今はまだ四十台のベスだけど、すごく長生きしたとしてもあと四十年位?
四十年、人の時間では十分過ぎるかもしれない。
だけど永遠に限りなく近い存在の竜の一族にとっては?
(あっという間じゃない……。)
デイモンはベスが死んでしまえばもう大好物のアップルパイを食べることが出来なくなってしまうのだ。
ベスだけじゃない。青春時代を共に過ごした友達も、子どもの頃から世話をしてもらった使用人達も、いずれみんなデイモンをたった一人残していなくなってしまうのだ。
アーティアはまだいい。選択する自由が残されているのだから。
だけどデイモンは産まれたその瞬間から永遠の命を勝手に与えられた。本人が望むと望まざるとお構いなしに。
『竜の花嫁に一番必要なものは何だと思いますか?』
家庭教師の言葉が不意にアーティアの脳裏に浮かんできた。
アーティアは自分のことしか考えていなかった己を酷く恥じる。
正直な所、まだ竜の花嫁として、デイモンの片割れの番として"恩恵"を受ける覚悟は出来ていなかった。
だって怖いものは怖いのだから仕方がない。
それでもアーティアは、ちょっと怖くて見栄っ張りでそしてほんの少し可愛い所もある婚約者の側にいたいと思った。
彼が寂しくないように、ずっと。
「ベス、私にアップルパイの作り方を教えてくれませんか?」
アーティアがそう問いかけるとベスは少し驚いた顔をして、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
何度も何度も失敗を繰り返し、その度に失敗したアップルパイを食べ続けてようやくベスから合格をもらう頃にはちょっとアップルパイが嫌いになってしまったのはもう遠い過去の出来事。
アーティアとベスがありし日々の思い出を語っていると、不意にデイモンが口を開いた。
「……邸で時々出てくるアップルパイはお前が作っていたのか?」
「はい。ベスのアップルパイには到底かないませんけど。」
アーティアがそう言えば、ベスがとんでもないと大きく手をふる。
「奥様の作るアップルパイは私の作るアップルパイと全く同じ味です!!何年も何年も試行錯誤して繰り返しお作りになるので最後の方は私のアップルパイなんて目じゃないプロ級のお味が出せるようになったのに、奥様は頑なに私のレシピを一ミリのズレもなく再現することに拘られてそして成し遂げられました。」
それが何を意味しているのか分かりますか?
口には出さなかったがベスの全身がデイモンにそう問いかけていた。
「ベスは私を買いかぶりすぎよ。お料理だってベスと料理長と一緒に作るのが楽しかったから続けられただけだし、それにやっぱり何度作ったってベスのアップルパイには敵わないもの。そうだわ、折角だし明日は久しぶりにベスのアップルパイが食べたいわ。」
旦那様も食べたいですよね、と同意を求めデイモンに視線をやる。
「…いや、俺はお前の作るアップルパイが、たべ、たい……。」
「えっ?」
思いもよらなかったデイモンの言葉にアーティアは目を見開く。
歯切れ悪く言うデイモンの顔をまじまじと見ればやっぱり不機嫌そうな顔をしている。
でも髪から覗くデイモンの耳はピクピクと動き林檎のように真っ赤に染まっていた。
そんなデイモンを見ればアーティアも何だか居たたまれないようなくすぐったいような気持ちになってしまう。
「ダメ、か?」
「い、いえっ!!……旦那様が望むのならば、いつでもお作りいたします。」
そうアーティアが言うと顔を背けたまま「頼む」とデイモンが呟いた。
そんな二人の姿を見て、ベスは満足げに微笑んだ。




