蝶子?18
「――蝶子? 蝶子、大丈夫か?」
「え? あ……あぁあ! 浮気男!」
今日の夢はかなりリアルだわ。
まるで本当に目の前に不誠実な誠実がいるみたいで、三年前に見た悪夢みたい。
「なっ、蝶子、そんな大きな声を出すなよ」
「いやっ! 触らないで!」
気持ち悪い!
何なの、この元婚約者。
いきなり女性の腕を掴むなんて失礼にもほどがあるわ!
殿下でもこんなに乱暴に私に触れたことなんて――って、ええ?
「蝶子、いい加減に――」
「あれ? こんなところで会うなんて偶然だね」
「……蝶子だわ」
「は?」
ガラスに反射して映った自分にびっくり。
私は今、蝶子になっているわ。
今までのような夢とは違うみたい。
ガラスをまじまじと私が見ているからか、みんなもガラスに目を向けた。
私は私の意思で蝶子の体を動かしてガラスに映った蝶子を指さしてみる。
「私は蝶子、あなたは浮気男」
「何を――」
「そしてあなたは相上?」
「正解」
それぞれ指をさして確認したら、浮気男は驚いたみたいだけれど、相上はにっこり笑って答えてくれた。
いつもと雰囲気が違うからちょっと自信がなかったのよね。
あと後ろにいる方は知らないわ。
「桜井さん、知り合いですか? ――おや、誠実君じゃないか」
「あ……堂本会長。ご無沙汰しております」
「うむ。最近、結婚話が白紙になったと聞いたが……ご両親に心配かけないようにほどほどになさい。では桜井さん、私はこれで失礼させていただきます」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、実に有意義な時間でしたよ。またこれからもよろしくお願いします」
ちょっと!
私に挨拶もなければ紹介を求めることもせず、無視して去っていくなんて見かけによらず無礼な人ね。
何様なのかしら。
「――で、君は元婚約者とよりでも戻したのか?」
「あなた馬鹿なの? この私がそんなに愚かなわけないじゃない」
「それはどうかな?」
あの無礼な人がある程度離れてから相上が質問してきたけれど、この私のどこに愚かだって疑う余地があるのよ。
あら、でも今の私は蝶子なわけよね。
それなら仕方ないわ。
「おい、君。いきなり割り込んできて何なんだ?」
「ん? ああ、名乗るのが遅くなって申し訳ない。私は桜井――桜井誠人。名刺は切らしているんだ。重ね重ね申し訳ないね」
浮気男こそ私たちの会話に割り込んできたけれど、相上は気を悪くしたふうもなく答えた。
だけど名前が違うんじゃないかしら。
「桜井誠人ってまさか――」
「元服名なの?」
「は?」
「相上・桜井・誠人ってこと?」
浮気男は相上の名前を聞いて驚いたみたいだけれど、この世界ではそんなに珍しいわけではなかったわよね?
織田三郎信長とか伊達藤次郎政宗とか。
「蝶子、まさか桜井誠人を――彼のことを知らないのか?」
「知っているわ」
だからこうしてお話しているのに。
そしてずうずうしい浮気男よりは頼りになりそうだってこと。
だって、これからどうすればいいのかわからないんだもの。
「というわけで、私は相上と一緒にこれから過ごすから、失礼するわ」
「蝶子――」
「さようなら」
相上の腕に手を添えて強引に回れ右。
確か出口はこっちだったはず。
不思議だわ。
浮気男に触られたときには気持ち悪かったのに、相上だと触っていても平気みたい。
「おい、勝手に決めるなよ。しかも何をさらっと言ってるんだ」
「紳士なら困っている淑女を放ってはおかないはずよ」
「誰が紳士で誰が淑女だって?」
「私は申し分のない淑女だし、あなたは……あとで蝶子がお金を払うから、従僕よ」
無事に出口を見つけてレストランから出るときには給仕長をはじめとして給仕の者たちが頭を下げていた。
相上は私に腕を引っ張られながらも片手を上げて挨拶をする。
本当なら私もちゃんと挨拶をするのがマナーなんだけど、今はそれどころじゃないから許してほしいわ。
「お前は俺に金を払って下僕になれって言ってるのか?」
「下僕じゃなくて従僕よ。それにお金を払ってあなたが奉仕するなんて、今までと何が違うの?」
「大違いだよ。ここはホテルで今すれ違った従業員も含めてみんなが俺の顔を知っているはずだからな」
「ただの使用人がお客様に姿を見せるなんて、教育がなっていないわね」
「相変わらず女王様だな」
「違うわ。私はファラーラ・ファッジンよ」
「はあ? さっきから変だぞ。酔ってるのか?」
「酔ってはいないわ。ただ困っているだけ」
「へえ? ところで、どこへ行くんだ?」
「それがわからないから困っているんじゃない。とにかく私は帰りたいの」
「じゃあエレベーターはあっちだぞ。ホテルの前にはタクシーが待機してるんだから。いなかったらフロントで呼んでもらえ」
相上が急に立ち止まるから、転びそうになったじゃない。
この世界の男性って本当に乱暴ね。
それに優しくない。
「タクシーのことは知っているわ。でも乗り方がわからないし、そもそもどこへ行けばいいのかわからないの」
「運転手に住所を教えれば自宅に連れて帰ってくれるだろ」
「無理よ。いつも御者が勝手に連れて帰ってくれていたから住所もわからないし、そもそも空を飛べたって帰ることはできないわ。世界が違うんだもの」
「お前、本当に大丈夫か? まさかあいつに変な薬でも飲まされたんじゃないだろうな?」
「たぶん、大丈夫よ。一晩眠ればきっと元通り」
「じゃあ、帰って寝ろよ」
「だから帰れないのよ。何度言えばわかるの?」
「……わかった。じゃあ、ここに部屋を取ってやるから、さっさと寝ろ」
本当にわかったのかしら。
だけど自分で言って気付いたけれど、これもきっと眠れば元の世界に戻れる夢よね?
ちょっと不安だけど、またまた不思議なことに相上と一緒だと大丈夫な気がするわ。
今度は相上が私を引っ張るようにして、エレベーターに乗せた。
相上は何かカードみたいなものをかざしてボタンを押す。
うわあ。夢では見ていたけれど、不思議な感覚。
まるで空船に乗っているみたいね。
だけどそれもあっという間に終わり。
「ここはどこなの?」
「黙ってついて来いよ」
ええ? でも誰もいないわよ、このフロア。
そう思ったけれど、よく見たらポツンと小さいカウンターがあって女性が一人立っていた。
「こんばんは、桜井様。ご入用のものはございますか?」
「一部屋取ってくれるかな? 私の名前でかまわないから」
「かしこまりました」
何なの? 私と――蝶子相手のときと話し方が違うんですけど。
給仕の者たちとは違う制服を着た女性は相上にカードを差し出した。
挨拶のときには私にも頭を下げたのに、今は徹底してこちらを見ないようにしているのはなぜかしら。
「ほら、これで寝る場所は確保できただろ。明日フロントにこのカードを返して帰れよ」
「ええ? 一人でなんて無理に決まっているわ。ちゃんと部屋まで連れて行ってくれないと。お金は払うって――」
「わかったからそれ以上は何も言うな」
そんなに腕を引っ張られると痛いんですけど。
もう。本当に何なの、この世界。




