チェーリオ8
一応は殿下を引っ張る形ではなく、案内のために手を添えているように見せかけて廊下を進んだ。
殿下も観念したのか抵抗はなさらない。
そして陽光を遮断するためにカーテンの引かれた図書室に入ると、光魔法で明るく室内を照らした。
殿下は状況もお忘れになったのか、物珍しそうに視線だけで室内を見ていた。
確かに殿下ほどの方がキョロキョロするのはみっともない。
とはいえ、警戒ではなく興味本位なのが残念だ。
よく言えば信頼してくださっているのだろうが、悪く言えば王太子としての自覚が足りない。
このままではファラーラまで危険に晒してしまうではないか。
「……殿下は、この婚約を――ファラーラとの婚約をどのようにお思いなのですか?」
「え……?」
「不躾で無礼な質問であることは承知しておりますが、以前も申しましたように殿下はファラーラにはまったくご興味をお持ちではなかったはずです。むしろ煩わしくさえ思っていらっしゃったのではないでしょうか?」
「それは……」
「失礼ながら、私の耳にまで入るほどでしたので、よほどお気持ちを表に出されていたのでしょう。そのことについて申し上げたいことも多くございましたが、今はもう過ぎたこと。ただこれからは違います。殿下のお気持ち一つ、お言葉一つでファラーラを取り巻く状況は大きく変わります。もし中途半端なお気持ちなら、ファラーラのことは政略的婚約だと割り切ったうえでお付き合いくださいませんか?」
このような質問が不敬であることは十分にわかっている。
だが今は臣下としてではなく、ファラーラの兄として答えが欲しいのだ。
婚約を機にファラーラは変わったと世間では噂されているらしいが、それくらいで簡単に殿下のお気持ちも変わるのなら、また何かの拍子に変わる可能性だってある。
世間の評判などはどうでもいい。
いくらでも私たちが守ってやれる。
それでもファラーラの心だけは私たちにだってどうにもできない。
殿下が以前のままファラーラを突き放していらっしゃったなら私たちだって不満はあれど黙っていられた。
それが今のような付き合いが続くのなら見過ごすわけにはいかないだろう。
ベル兄さんのように財産を差し押さえる――いや、慰謝料とする誓約書で縛るのも一つの手ではあるが、心が伴わないのでは虚しいだけだ。
心変わりを止めることも責めることもできないが、それでも誠実であってほしい。
殿下は私の無礼を咎める様子もなく、真剣に答えようと言葉を探されている。
それだけでも少しは評価するべきだろうか。
いやいや、今までずっとファラーラを傷つけていたんだ。
簡単に許すわけにはいかない。
「僕は……ファラーラが好きです」
「――言葉にするのは簡単ですよね?」
「確かにおっしゃる通りです。正直に言えば、ファラーラが僕との婚約を機に変わろうと努力していると聞いたときにも信じてはおりませんでした」
「ほう?」
「ですが実際に、入学してからのファラーラを見ているうちに、噂などどうでもよくなったのです。ファラーラは僕を見ていない。それは以前と変わらないのに、惹きつけられてしまうのです。友人と楽しそうに話す姿も、声を出して笑う姿も初めて見ました。僕の前ではいつも取り繕っているのに……。ファラーラは僕との婚約で変わったのではなく、友人と過ごすことによって本来の彼女が現れたのだと気付いて、情けなくなりました」
「そうでしたか……」
ファラーラは可愛い。それは昔から変わらない。
だが私たち家族の前以外ではきっと人見知りをしていたために、悪いほうへと受け取られてしまったのだろう。
ファラーラは繊細でもあるからな。
そんなことも見抜けないのは愚かでしかないが、殿下はファラーラの真の可愛さに気付かれてしまったのか。
ところで、私はまだファラーラが友人の女の子たちと楽しそうに話したり、笑ったりする姿は見たことがないぞ。
おのれ、ブルーノめ。
あいつは学院でそんなファラーラを見ているなんて、ずるいだろう。
やはり私も教師になるべきか。
「ですが、僕が見ているファラーラはまだほんの一部にしか過ぎないのでしょうね?」
「それはもちろんです。学院でのファラーラなどほんのほんの一部ですよ。何せ私はファラーラが生まれたときから知っておりますからね」
「そうですよね? 学院以外と言えば僕も以前、ファラーラと郊外にある湖に行ったのですが――」
「湖…だと……?」
「あ、その、ジェネジオ・テノンが社会見学にと準備してくれ、身分を隠して下町を抜けて行ったのです」
「ジェネジオ・テノンね……」
またあいつか。
ファラーラのキラキラうちわといい、ちょっと色々と言わねばならないな。
そもそも、殿下は未だにファラーラを呼び捨てになさっているが、私は許していないぞ。
この婚約(仮)だって認めていないのだからな。
「それで、湖でのファラーラはいかがでしたか? さぞ可愛かったのでしょうね?」
「はい、とても」
「適当なご返答だけでは失礼ながら納得できませんね。具体的におっしゃってくださらないと」
「ぐ、具体的に……ですか?」
「当然です」
「それは……その、僕も初めて下町と呼ばれる場所を車内からではありましたが目にしました。教師からも陛下やファッジン公爵の施策のお陰で貧しい者の暮らしにも少しずつ余裕ができるようになったとは学んでいたのですが、実際に目の当たりにすることでどれほどのことをなさっているのかを実感することができました。それはファラーラも同様だったようで、ジェネジオ・テノンの説明に顔を輝かせ、誇らしげにしていました。公爵の偉業を当然のように受け止めるのではなく、民の暮らしぶりを目にしたことで喜んでいるのだと……。それが僕もまた嬉しくもあり、その、か、可愛いな、と……」
「なるほど。確かに殿下と万が一にも結婚するとなると、ファラーラもまた施政者として民の暮らしにも気を配らないといけませんからね。それで他には?」
「ほ、他には……ジェネジオ・テノンの別荘に到着してから昼食をとったのですが、食卓に並んだ料理を前にしたファラーラの表情が……あ、もちろん作法は申し分なかったのですが――」
「殿下、全ておっしゃらなくても、それは存じております。お腹が空いたときに食べ物を目にしたファラーラはそれはもう言葉に表せないほどに可愛いですよね。特に、マナー違反にならないよう今すぐ食べたいのに我慢しているときや、それを表に出さないために興味のないふりをしたりする姿はもう! それなのに視線だけはちらちらと何度も目の前の料理に向けられていて!」
「そうなんです! 一見して完璧なマナーなのに、よく見るとそわそわしている気持ちが全身から溢れているというか、それなのに無理に我慢しているのか、食事を始めても素直に美味しいと言わないところとか! それでいて誰も見ていないと思ったときなど、幸せそうな表情をしているんですよね!」
「わかります、わかります。ちょっとプライドが高いところがあるので、他人に弱味を見せたがらず、それがまた誤解されるのですが。そうですか、殿下はお気づきになったのですね。ファラーラの愛で方を」
「め、愛で方というか……」
そうか、そうか。
他の鈍い者たちとは違い、殿下はファラーラの良さをちゃんと理解してくださっているようだ。
もちろんこの婚約(仮)を許すわけではないが、同士としては認めざるを得ないな。
殿下は恥ずかしがっていらっしゃるのか、お顔がとても赤くなっていらっしゃる。
それでもまだまだ湖でのファラーラの可愛さを伝えていただかなければ。
さて、次は食事の後に何をなされたのかお伺いしよう。
ご返答次第ではちょっとばかり冷静ではいられないかもしれないので、気をつけなければならないな。




