蝶子9
「――すみません。十一時に予約した者ですけど……」
インターフォンもなければ、ノックをしても応答がないとかってどういうこと?
仕方なくドアノブを回せば普通に開くし不用心じゃないかしら。
おそるおそるドアを開けて中を覗き込む。
外観から予想できる通りに雑然とした室内で、人の気配はまったくしない。
予約したわよね?
今日よね? 時間も間違っていないわよね?
握りしめたままだったスマホでメール内容を確認する。
うん。間違っていないわ。
今度は雄大の連絡先画面を出してから、部屋の中へ声をかける。
「すみません!」
「はい、お待たせしました」
「ぎゃっ――!?」
「大きい声は出さない。このビル、古いから響くんだよ」
大きい声じゃなきゃ、悲鳴は意味ないでしょう?
だけど口を塞がれて声さえ出せない。
いきなり背後から現れるなんて卑怯よ。
スマホを手探りで操作しようと思ったのに、慌てたせいか落としてしまった。
「おっ、ちゃんといつでも通報できるようにしてたのは偉いじゃん。それにしたって警戒心なさすぎだけどな」
突然現れた男は私の口を塞いだまま、部屋へと押し込んだ。
あまりの出来事に抵抗することもできない。
口を解放されたと思った瞬間、男はさっと私の落としたスマホを拾ってドアを閉めた。
やばい。マジでヤバいのはわかるのに、何もできない。
「ふーん。雄大って弟か……。他に頼る相手はいないわけ?」
男はスマホの画面を見てからパタリとケースを閉じてポケットにしまった。
私のスマホ!
ドアは男の向こう側で簡単に逃げられそうにない。
何か武器になるものはないかとこっそり周囲を見回して、傘を見つけた。
「傘はまあまあの武器になるが、奪われやすくもあるから気をつけたほうがいいぞ。というわけでビビらせてしまったな。俺、相上誠人。ここの所長な」
そう言って男は名刺を差し出してきたけれど、信用していいのかしら。
いえ、ダメね。
初対面がどうこうより名前が信用できないもの。誠人って。
絶対に誠の人じゃないわ。
「ここの探偵事務所は相上だわ。そもそもこんな暴漢相手に紙きれ一枚で信用なんてできるわけがないわよ」
「正解。ただ、判断が遅い。名刺なんてものはいくらでも好きなように刷れるんだから、信用するものではねえな。こんな時代ではあるが、やっぱり紹介が一番信用できるんだよ。だがお嬢様には信用できる探偵を紹介してくれるような友達もいないんだよな?」
カッとなると手が出るんだって、咲良のときに気付いたわ。
今までそこまで急激に腹が立つことなんてなかったから。
だけど、どうして初対面の男相手にこんなことを言われないといけないの?
怒りのままに振り上げた手は、結局摑まれてしまって身動きが取れなくなったんだけど。
絶体絶命のピンチってこういうことを言うのかしら?
まあ、もうどうでもいいわ。
「おいおい、諦めるなよ。ほんと、危ねえな」
「はあ? 意味がわからないんですけど! 危ないのはあなたでしょ!?」
「お? 少しは元気が出てきたか? まあ、立ち話も何だし、とにかく座れよ」
男は――所長と名乗った男は私の腕を放すと、すたすた歩いて事務所内のソファにどっかり座った。
それからポケットに入れていた私のスマホを目の前のテーブルに置く。
仕方なく私はソファに近づき、スマホをさっと手に取った。
だけど、所長は動く様子もなく私が座るのを待っているみたい。
何なの?
ここは走って逃げるべき?
でもそれじゃあ、負けを認めるみたいで悔しいわ。
そう思って向かいのソファ――少し破れている箇所を避けて腰を下ろすと、所長は笑いだした。
「あんたってほんと、その負けず嫌いの性格で人生損してるよな」
「……あんた?」
「引っかかったのはそこかよ」
そう言って、所長は――相上はまたさらに笑う。
本当に何なの、この失礼な男。
「あなたに私の何がわかるのよ」
「まあ、全部はわからねえけど、依頼人のことは前もって調べるようにしてるからな。大体把握してるよ。蝶子様」
「やめてくれる? その呼び方。お客様に対しては苗字に様付けするものでしょう?」
「さあ、依頼を受けるかどうかはまだ決めてねえから、お客様かどうかは決まっていねえし、俺は好きな呼び方をするつもりだよ」
「……この探偵事務所も好きな呼び方にしたわけ?」
「昔は口コミよりも星の数よりも電話帳で調べるほうが多かったからな。あ行から始まるほうが目に留まりやすいから、〝あいうえ〟と読ませていたんだよ」
「ずいぶん古い探偵事務所なのね」
「見ればわかるだろ? 爺さんの代から続いているからな」
たぶんこの人は私に害をなすようなタイプじゃない。
私の本能なんて当てにならないこともわかっているけれど、半ば自棄も手伝って、しばらく時間を潰すことにするわ。
どうせ暇だし。
きっとあのネットの評価は先代がされていた頃のものなのよ。
ステマをするようにも思えないもの。
「それじゃあ、何でも見抜ける探偵さんに訊くわ。私は何の依頼でここに来たのかわかる?」
「そうだな……。婚約者を奪った相手へ復讐するために弱味を探るとか、あとは顧問弁護士への復讐もあるか?」
この答えにはちょっとびっくりしたわ。
咲良のことは当然でしょうけど、関藤さんのことまで調べているってことよね?
まだ何も始まってもいなかったのに。
ふーん。
ただの失礼な男ってだけではないのかしらね。




