第3章:想い出の少女
【SIDE:井上翔太】
……。
小学2年の夏、俺は母の都合で母の親友、理沙おばさんの家に預けられた。
夏休み、まさにひと夏だけの家族体験。
『へぇ、挨拶もしっかりしてるし、可愛い子じゃない』
『よろしくおねがいしまーす。おばさん』
『おばさんじゃないわ。いい?私の事はおねーさんって呼びなさい。いいわね?』
俺にグイグイと迫る彼女の迫力に負けて俺は『お、おねーさん』と呼びなおす。
顔が怖かったよ、ホントに。
『よろしい。翔太君、遠慮しないでくつろいで。私の娘も呼んでくるわ』
理沙おばさんが連れて来たのはひとりの可愛らしい女の子。
俺の方を見るとすぐに近づいてきて笑顔を振りまく。
俺はその子につられて笑みを見せながら言うんだ。
『夏の間だけど、よろしくね。俺は翔太って言うんだ。キミは?』
彼女は長い髪をそっと揺らしながら、
『私は……私は琴乃だよ。仲良くしようね、翔太君っ!』
それが俺と彼女のひと夏の思い出の始まり。
淡い初恋の記憶――。
思い返してみれば、確かに琴乃ちゃんと俺は会っていた。
そういや、そうだったなぁ。
初対面の記憶を思い出しながら、俺はエレベーターのボタンを押す。
「先輩、わざわざ送ってくれなくてもいいですよ?」
「そうはいかないだろ。こんな時間になっちゃったし」
時計の時刻は8時過ぎ、さすがにひとりで帰すには忍びない。
俺達はやってきたエレベーターに乗りながら1階にたどり着く。
「琴乃ちゃんの家ってここからどれくらい?」
「歩いて20分ってところでしょうか?普段は自転車通学なんです……今は壊れて修理中なんですけどね」
「そうなんだ。まぁ、中学の学区違いで遠いとは思ってたけど」
ちょうど俺の家から離れた場所の居住区は中学の学区が違う。
同じ中学だったらもっと早く再会できたかもしれないな。
俺はそう思いながら自転車を出す、2人乗りの方が早い。
「自転車で送るよ。それならいいだろ?」
「……はいっ」
遠慮がちな彼女に俺はそう言うと、後ろに乗るように指示する。
ちょこんっと座る彼女を確認してから俺は自転車を漕ぎだした。
夜の街並みを自転車はゆっくりと駆けていく。
「一応、俺の後ろにでもつかまっておいて」
「……ふふっ、何か雰囲気のいいシチュエーションですね」
彼女の言葉に俺は照れくさくなる。
そー言われると、照れるじゃん。
「あのさ、琴乃ちゃん。言いそびれていたんだけど、ごめんな」
「何がですか?私を忘れていたことですか?」
「それもあるけど。覚えていないか?俺たち、約束しただろ?」
そう、俺と琴乃ちゃんは約束をかわしていたのだ。
『約束しよ?また会えるって』
そう言ったのに、俺は彼女に会えずにいた。
忙しい母さんの都合もあったんだが、毎年の夏休みは友人と過ごすことを優先してたので、次第に歳を重ねるごとに約束すら忘れてしまったのだ。
それに機会がなかったというのは言い訳だろう。
家の距離も、昔は遠いように感じたが、今なら普通に行ける距離だ。
子供だった俺が忘れてしまった約束、その罪悪感が今さらながらにわいてくる。
「……約束、ですか?」
琴乃ちゃんは思い出すように小さな声でささやく。
「覚えていないかな?」
「え、えっと……」
彼女はいいよどむと、突然、「きゃっ!?」と叫ぶ。
少し石に乗り合わせてしまい、自転車の車体が揺れたためだ。
バランスは崩さなかったが、振動は強く、背後の琴乃ちゃんに声をかける。
「あっ、大丈夫?悪い、2人乗りも慣れてなくて」
「いえ、大丈夫です。……その、約束ってなんの約束ですか」
そりゃ、そうか。
いきなり言われても、どの約束の事か分からないよな。
「琴乃ちゃんと別れる間際に『また会おうね』って約束したのを覚えていない?」
「……」
今度は彼女が黙り込んでしまった。
あれ、覚えていないか?
これだけ覚えていた俺の記憶違いということもあるまい。
「……約束、思い出しました。そういう約束もしてましたよね?」
「あぁ。10年も前だけどさ、ホントにごめんな。俺、あの後、会いにいけなくてさ」
会いに行くと言ったのに、約束を破ってしまった。
彼女に実際に会うまで思い出せもいたのだから仕方ない。
素直に謝ると彼女は「……約束」と小さくつぶやく。
「約束は気にしてません。また会えただけでいいです」
「琴乃ちゃんはいつ俺に気づいたんだ?」
「入学式の後ぐらいでしょうか。どことなく面影があるなって……それで、知り合いの先輩に名前を聞いたら本当に井上先輩だったんです。その、今日の告白、変な風になってごめんなさい。変に興奮して焦っちゃったんです」
なぜかいきなり謝られた。
そりゃ、出会って10秒の告白には驚いたが……。
今は事情も大体分かってるのでそれ程、変とは思わない。
「私もびっくりしたんですよ。いつか機会をみて挨拶をしようとは思ってましたけど、あんな風に会うとは思っていませんでした。先輩の事、好きだったんでつい口から出ちゃったんですよね。強引に迫ったりしてびっくりしたでしょ?普段はあんなことしないんですけど、勢いって怖いです」
「……俺の事をねぇ?」
「先輩は覚えていないみたいでしたけど、私はずっと先輩に会いたかったんです。……ずっと、好きでしたから」
それだけ愛されていると俺も嬉しくなる。
でも、10年か……長いよなぁ?
あの小さかった子|(俺も同じくらいの年齢だが)がこれだけ美少女に成長するくらいの年月。
俺達の人生では、10年と一言で言うには長すぎる時間だ。
「……ありがとう」
「え?」
俺は自転車を止めて、振り返ってもう一度彼女言った。
「――ありがとう。好きでいてくれて」
俺の言葉に彼女は少しだけ瞳を潤ませる。
「きっと、俺は琴乃ちゃんの事を好きになる。そう思えるんだ」
……こういう形で始まる恋愛があってもいい。
俺はそう思いながら、「嬉しいです」と喜ぶ彼女に微笑んだ。
「あっ、先輩。ここでいいです」
彼女が俺を止めたのは住宅街のど真ん中、その家の外見に見覚えがある。
俺の家から自転車で15分程度、あまり来ない地域だがこれほど近かったとは……。
「送ってくれてありがとうございます」
「いいよ、これくらい」
「家に寄っていきますか?母もいると思いますけど?」
「いや、今日は遅いからもうやめておくよ。また別の日にでも挨拶にくるから」
というより、理沙おばさんに会うのは心の準備がいりそうだ。
あの人もうちの母さんの親友ってだけあってすごい人だからなぁ。
顔を合わせるのは日を改めることにしよう。
「あの、先輩。携帯電話の番号を教えてもらってもいいですか?」
「携帯?いいよ」
俺は携帯電話を取り出して、赤外線で番号を交換し合う。
「先輩の番号……メールとかしても?」
「全然いいけど。そういうのって、何か恋人らしいな」
そう言うやり取り自体に憧れたりする。
琴乃ちゃんは玄関の前で俺に向き合った。
「井上先輩。今日は本当にありがとうございました。先輩と恋人になれたこと、本当に夢みたいで……。私、変なところもあるかもしれませんけど、よろしくお願いします。先輩のために頑張りますからっ」
女の子にそう言われて、断る奴、一回手をあげてみてくれ。
そいつは男じゃないね、俺は男だからもちろん受け止める。
「俺の方こそ、琴乃ちゃんに会えて嬉しい。俺も恋愛経験ないんで不慣れだけどな。お互いに、楽しくやっていけたらいいな」
「はいっ」
俺達は玄関先で別れて、再び俺は自転車に乗る。
しばらくしてから俺の携帯電話に一通のメールが届いた。
相手は琴乃ちゃんから、さっそく送ってきてくれたようだ。
中身を見て俺はふっと顔をにやけさせる。
『――先輩。大好きです。よろしくお願いしますねっ』
その一言だけで十分だった。
俺の中にも彼女を想う気持ちが芽生え始める。
俺はきっと彼女を好きになる。
そう確信できるだけの気持ちが溢れて来る。
こういう恋の仕方もあるのだ、と俺は感じていた。
「人生、何が起こるか分からない。本当にそうだな」
数時間前の俺とは人生が変わったとはっきり実感できる。
初めて女の子に告白されて、恋人ができた。
その子は過去に一緒に遊んだことのある淡い初恋の相手。
また再び出会っただけでなく、恋人になれるなんて……。
「……恋愛か。俺も本気でやってみるか」
爽快な気分で、春の夜の道路を自転車で走る俺は期待に満ち溢れていた。




