第38章:夏の思い出《後編》
【SIDE:井上翔太】
琴乃ちゃんの誘いを受けて訪れたのは教会だった。
いつもより人の数が多くてびっくりする。
「人がいっぱいいるけど、何かあるの?」
「あのね。結婚式があるんだって」
「結婚式?へぇ、そうなんだ」
よく見れば中には花嫁姿の女の人がいた。
「キレイ~っ。花嫁さん、可愛い」
「本当に綺麗だ。花もたくさん舞ってるね」
紙吹雪のように花が宙を舞う。
そして、花嫁と新郎が互いに見合ってキスを交わす。
「キスってあんなのなんだ?はじめて見た」
話では聞いたことがある。
キスっていうのは好きな人同士が唇を触れ合わせる行為だ、と。
「私も……見たのは初めて」
ほんのりと顔を赤める琴乃ちゃん。
「ああいうのって楽しそうだね」
「楽しい……?」
彼女は何か考えるような顔をしている。
そして、普段の彼女からは想像もできな一言を告げる。
「翔お兄ちゃん。あのね……私とキスしてみない?」
「え?き、キス?」
「ママが言っていたの。キスは特別な人とするものだって」
琴乃ちゃんの瞳が俺だけを見つめている。
「……ちゅっ」
俺は見よう見まねで彼女に唇を押しつけた。
小さな水音をたてる唇同士の接触。
「これがキス……?」
初めてのキスは何だかこそばゆい感じがした。
「お兄ちゃんとしたかった。すごく嬉しいよ?」
琴乃ちゃんが顔を真っ赤にさせている。
それが可愛いと素直に思った。
照れくさくなって俺は笑顔で誤魔化す。
「あのね、翔お兄ちゃん。いつもお姉ちゃんと仲いいよね?」
「そうだな。鈴音とはもう1ヶ月近く一緒にいるからな……」
「私もお兄ちゃんと仲良くしたい」
いつも控えめな彼女が自己主張するのは珍しい。
「俺も琴乃ちゃんと仲良くしたいよ」
「ホント!?それじゃ、こっちに来てよ。もうひとつ、来て欲しい所があるの」
俺に繋がれたのは小さな手だった。
俺よりもずっと小さくて、でも、温かくて。
それが琴乃ちゃんの温もり何だと思いながら彼女の後をついて行く。
いつも遊んでいる森林公園の近く、そこには古い神社があった。
その境内の中にある一本の大木。
「ここは?」
「ここはね、“えんむすび”の木なんだってママが言ってたの」
「えんむすび?って何?」
「私もよく分からないけど、大切な人と一緒に来ると幸せになれるんだって」
琴乃ちゃんは俺に笑いかけながら、
「この紙をここに結ぶのっ」
「へぇ、そうなんだ」
神社には他の人もいない。
俺は琴乃ちゃんに言われるがままに一緒に紙きれを木の枝に結びつける。
「……これでいいの?」
「うん。そうだよ、あとは……大人になったらまた一緒にここに来てくれる?」
“えんむすび”のために、俺達は再会をする約束をする。
「大人になったらまた来よう」
「えへへっ。約束だよ、翔お兄ちゃんっ!」
それが琴乃ちゃんとの唯一の約束。
俺が彼女とした大事な約束なんだ。
……。
あの約束から数週間後、俺は母さんが戻って来たので再び家に戻ることになった。
たった1ヶ月程度、幼い頃に預けられてただけの関係。
それ以来、会う事もなく、俺達は10年以上も離れ離れになっていた。
鈴音との記憶ばかりが思い出されていて、俺は琴乃ちゃんの記憶を忘れていた。
これが俺と琴乃ちゃんの過去、大事な俺達だけの思い出――。
「思い出した、俺は……琴乃ちゃんと約束をしていたんだ」
過去を思い出した俺は小雨の降る中、あの神社へと向かう。
再会してからずっと行っていなかった場所。
だけど、キスをした教会よりも大事な場所があの場所だ。
「確か、この道をのぼった気がする」
何度か迷いながらも俺はその場所へとたどり着いた。
いつしか降り続いてた雨が大ぶりの雨へと変わっていた。
すっかりと濡れた服の気持ち悪さを我慢しながらも俺はゆっくりと階段を上る。
その先にある神社は管理者もいないような古い小さな神社だった。
実際、誰かが手入れをしているようには見えない。
鳥居をくぐった先、朽ち果てた建物だけがある。
夜に来るには少し雰囲気があって嫌だな。
だけど、この先に琴乃ちゃんがいるはずなんだ。
「約束したんだ。大人になったらもう一度ここにこようって」
彼女との約束は“えんむすび”、あの頃は意味が分からなかった。
だが、今なら理解できる。
“縁結び”、琴乃ちゃんは俺とのつながりを求めていた。
人生の中でたった1ヶ月の間の出来事だったはずなのに。
彼女は10年間も俺の事を想い続け、約束を覚えてくれていた。
「俺って奴は琴乃ちゃんの存在を覚えていなくて、挙句の果てに鈴音を琴乃ちゃんだと勘違いしていたのか。最悪だな」
まったく麻由美の言うとおり、俺は薄情者以外の何物でもなかった。
「鈴音は確かに俺の淡い初恋ではあったが、ちゃんと琴乃ちゃんも妹みたいで可愛かった記憶があったはずなのに何で忘れてたんだろ。10年前の事なんて覚えてないのが普通だってのはただの言い訳だよな」
人の記憶はそれほど脆いものなのか。
長いと思える時間の積み重ねも、過ぎ去れば短かったと感じる時間の流れ。
あの頃、俺の中に琴乃ちゃんはただの鈴音の妹でしかなかった。
だが、10年の時を経て、俺達の関係は変わったんだ。
今の俺達は恋人なのだと強く意識する。
彼女は俺が思いだすのを待ち続けていたんだ。
嘘をついてまで俺の傍にようとしてくれていた。
その嘘は彼女にとってどれだけ辛い思いをさせたのか。
「俺は本当のバカだ。けれど、バカだけども、俺の気持ちは……」
鳥居を抜けた先、雨に打たれながらも木に背をもたれながら俺を待ち続けていた。
「……翔太、先輩?」
あの頃と変わらない、同じ瞳をして琴乃ちゃんはそこにいた。
「10年ぶりだ。やっと会えたね、琴乃ちゃん」
本当の意味で俺と琴乃ちゃんは再会を果たした――。




