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第36章:夏の思い出《前編》

【SIDE:井上翔太】


 それは俺にとって10年も昔の話だ。

 まだ7歳の小学2年生だった夏のこと。

 俺は母さんの仕事の都合で夏休みの間、彼女の友人の家に預けられる事になった。

 琴乃ちゃんや鈴音との出会い。

 あの日々は俺にとってかけがえのない思い出になった。

 俺は思い出す、その日々を……思いだなければいけない事がある。

 俺と琴乃ちゃん、本当の思い出とは一体何なのか?

 

 

 

 

 ……。

 小学2年の夏休み、また暑い夏がやってきた。

 夏は暑いからあまり好きじゃない。

 

「それじゃ、翔太。お利口にしてるのよ?」

 

「うんっ。母さんも早くむかえにきて」

 

「……えぇ、そうするわ。電話とかはするからね」

 

 母さんのお仕事の都合で俺はあった事もない人の家に預けられる事になったのだ。

 そこには歳が近い女の子がふたりいると聞かされていた。

 仲良くして遊びなさい、と母さんに言われたけれど、幼稚園からあまり女の子とは付き合いがない俺はどうすればいいのか実際に会うまで微妙に分からなかった。

 母さんの友達で俺を預かってくれる理沙おばさん。

 彼女に家に連れてかれてリビングで俺は自己紹介をする。

 

「はじめまして、翔太です。お世話になりますっ」

 

「へぇ、挨拶もしっかりしてるし、可愛い子じゃない。赤ちゃんの頃にあった事はあったけど、それ以来だからね」

 

「よろしくおねがいしまーす。おばさん」

 

 俺がそう言うと彼女は不満そうに訂正をさせる。

 

「おばさんじゃないわ。いい?私の事はおねーさんって呼びなさい。いいわね?」

 

「お、おねーさん」

 

 言わなければ怒られる、怖い、と幼心に俺は悟った。

 

「よろしい。翔太君、遠慮しないでくつろいで。私の娘も呼んでくるわ」

 

 理沙おねーさんはそう言ってすぐに一人の女の子を連れてくる。

 一目見れば分かる明るい女の子がそこにいた。

 

「夏の間だけど、よろしくね。俺は翔太って言うんだ。キミは?」

 

「私は……私は“鈴音”だよ。仲良くしようね、“翔ちゃん”っ!」

 

 鈴音、それが俺にとって初めて親しくなる女の子。

 同い年でもあり、気さくな性格の彼女とすぐに意気投合して俺達は仲良くなる。

 案内されたのは布団の敷かれた畳の部屋だった。

 

「ここが翔太君のお部屋よ」

 

「私の部屋は隣なのよ。翔ちゃん」

 

「鈴音、彼と遊んであげて。あら、琴乃はどうしたのかしら?」

 

「あー、琴乃なら一人で部屋でぬいぐるみと遊んでる。翔ちゃんは男の子だから恥ずかしいのかな?」

 

 琴乃、と言うのは鈴音の妹らしい。

 俺よりもひとつ下、小学1年生だって聞いた。

 理沙おねーさんが夕食の準備をしている間に俺は部屋に荷物をおく。

 段ボール箱に入っているのは自分の着替えの服などだ。

 

「どーして、翔ちゃんはここに来たの?」

 

「お母さんがお仕事なんだって。一緒にはついていけないから1ヶ月間、預けられる事になったんだ。こんなに長い間、離れて暮らすのは初めてだからちょっと不安なのはあるよ」

 

「そうなんだ。ママがお仕事でいなくなっちゃたの?寂しくない?」

 

「うーん。寂しいかもしれないけど、今は大丈夫だよ」

 

 まだ実感がない。

 いつも仕事で夜にいない日もあるから特別な寂しさはなかった。

 

「私なら無理。ママがいないとダメだよ。翔ちゃんはすごいね?」

 

「鈴音は理沙おねーさんが大好きなんだ?」

 

「うんっ。大好きだよ。パパも大好きっ!翔ちゃんのパパは?」

 

 パパ、お父さんは俺にはいない。

 俺が生まれてからずっといない。

 普通の家にはお父さんとお母さんがいるんだって……。

 学校の皆にはいるからどういう存在なのか想像するしかない。

 

「ずっと前からお父さんはいない、あった事もないからお父さんってよく分からない。ねぇ、お父さんってどういう人なの?」

 

「パパ?えっとねぇ、パパはね……」

 

 俺が鈴音の家に来て、初めて触れた本当の家族と言うもの。

 お母さんがいて、お父さんがいる、そんな普通の家族と言うものを初めて感じた。

 家族、その言葉の意味を俺は知る。

 ……どーして、俺にはお父さんがいないんだろう?

 お母さんが迎えに来てくれたら、聞いてみようかな?

 

 

  

 

 俺が鈴音の家に預けられて数日が経過した。

 他人の家での生活には慣れ始めてきた。

 理沙おねーさんは優しいし、料理も美味しい。

 いつもお仕事で忙しいおじさんもキャッチボールを俺としてくれる。

 鈴音は可愛くて、いつも楽しく俺と遊んでくれていた。

 毎日が楽しかったけれど、俺はまだ挨拶しかしたことのない女の子がいた。

 ……鈴音の妹、琴乃ちゃん。

 控えめな性格の女の子らしく、中々会話もできない。

 俺が話そうとするとすぐに逃げてしまうから。

 

「えーっ。琴乃と仲良くなりたいの?」

 

「だって、いつも逃げられちゃうから気になって」

 

「うーん。あの子、男の子が基本的に苦手だもの。幼稚園の頃からお話だってしないし」

 

 黒髪がよく似合う人形のように整った顔。

 お人形のようという表現はよく合っていた。

 俺が話しかけてもビクッとするだけで何も話をしてくれない。

 だけど、それは思わぬ形で仲良くなれるきっかけができた。

 琴乃ちゃんが苦手なのは昆虫。

 偶然にも彼女の服についた虫を払ってあげた事が彼女との和解のきっかけになる。

 

 

 

 

 それは夏のある日、カブトムシを捕まえた鈴音に俺は逃がすように言った。

 

「翔ちゃん?どうしたの?」

 

「え?あっ、その……カブトムシ、可哀想だから逃がしてもいい?」

 

「可哀想?翔ちゃんって優しいんだね。いいよ、逃がしてあげて。どうせ、家では飼えないもの。“琴乃”が怖がるから」

 

「琴乃ちゃんはカブトムシが嫌いなんだ?」

 

 実の所、俺も虫はあまり好きではない。

 

「虫とか大嫌いだよ。足がうにょってしてるのが嫌みたい」

 

 俺と同じ理由だった、あの無意味に多い足がすごく嫌いだ。

 そんな時、大人しい声で俺達を呼ぶ声に気づく。

 

「あ、あの、お姉ちゃん。しょ、翔お兄ちゃん。ママがお昼ご飯だから帰ってきてって」

 

「そう?分かった、すぐに帰る。ほら、行こう、翔ちゃん」

 

 琴乃ちゃんが呼びに来てくれて、鈴音は俺の手を引いて歩きだす。

 

「あっ!?」

 

 捕まえていたカブトムシをつい手放してしまったのだ。

 逃げ出すカブトムシが向かった先は琴乃ちゃん。

 

「い、嫌!?は、離れてよ~っ!?」

 

 服にへばりついたカブトムシに大声で叫び出す。

 誰だって苦手なものがあって、俺も直に触れるのはすごく複雑な気持ちだ。

 

「た、助けて、うぇーん」

 

 泣きだしてしまった彼女を放っておけずに俺はすぐにカブトムシを引き離す。

 

「翔お兄ちゃん……?」

 

 涙に濡れた瞳で俺の顔を見つめてくる琴乃ちゃん。

 

「もう、大丈夫だよ、琴乃ちゃん」

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

 

 安心した琴乃ちゃんの顔を見て俺も少し照れくさくなった。

 こんな笑みを見せる子なんだ。

 それが素直な本音で、俺も微笑みを返す。

 その事件をきっかけに俺達は急激に仲良くなり始めた。

 と言っても、いつも鈴音と遊びに行く時に後ろについてくるだけだけど。

 琴乃ちゃんはあまり構って欲しいとは言わない。

 だから、俺の方から積極的に絡むようになっていた。

 可愛い年下の彼女に慕われるのは俺としても妹ができたようで嬉しかったんだ。

 

 

 

 

 ある程度仲良くなった8月の上旬、俺は琴乃ちゃんの幼馴染を紹介される。

 古びた教会に連れて行かれた中には何人かの子供が遊んでいた。

 

「ふーん。この子がこっちゃんがお兄ちゃんって呼ぶ男の子なんだ」

  

「……えっと、キミは誰?」

 

「私は麻由美だよ。この教会の神父様はお祖父ちゃんなんだ」

 

 そう言った彼女は中を案内してくれる。

 教会で目を惹かれたのは大きなステンドグラスだった。

 一目で俺はそのステンドグラスに釘つけにされてしまった。

 なんて綺麗な光景なんだろう?

 キラキラと輝くガラスがあまりにも綺麗で俺はずっとそれを見続けていた。

 初めて見た立派なステンドグラス。

 別に俺は男だし、綺麗な物に興味があったわけじゃない。

 それなのに、俺はその幻想的な光景に身動きできずにいた。

 天使が女の子を優しく包み込む絵が描かれている。

 

「……本当に綺麗だ」

 

 それは親と引き離された俺の寂しさを癒してくれた。

 

「翔太クン、どうしたの?そろそろ、行くよーっ」

 

「あ、うんっ。分かったよ」

 

 麻由美に呼ばれたので俺はその場を離れようとする。

 もう一度だけ、俺はステンドグラスを眺めた。

 教会のステンドグラスは俺にとって安心できる場所だった。

 やっぱり、お母さんに会えない事は俺にとって不安だったから――。

 

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