第31章:愛ゆえに《後編》
葉月視点です。
【SIDE:井上葉月】
18年前の出会い、私と信彦さんの関係。
「信彦さんはどうして医者になりたいと思ったんですか?」
医者である信彦さんと出会ってから、私達は何度か話をして、やがて、惹かれあって付き合い始めることになった。
恋人になってから数ヶ月。
まだどちらも新人なので大変だけど、お互いにいい感じに癒し合っている。
今日は彼が食事に連れてきてくれて、レストランで食事をしていた。
「……ん、僕かい?僕は親も祖父も、代々、医者の家系だからね。自然な成り行きで、なっている所はある。もちろん、人の命を救いたいと言う信念はちゃんと持っている」
「それじゃ、将来的には御実家の病院を継ぐんですか?」
「そう言う事になるかな。それまでは、いろんな場所で経験を積みたいと思っている。葉月はどうして看護婦に?」
「私は……」
思わず、そこで言葉がつまってしまう。
けれど、彼相手に隠す事もしたくないので正直に答えた。
「私、実親と仲が悪いんですよ」
「そうなのか?」
「はい……その、親は再婚していて、義父の方との折り合いが悪くて、実家には居づらくて……。就職したいと思って選んだ道が看護婦なんです。元々興味はありましたけど、長く続けられる仕事を考えてそう思いました」
「そうか。だが、大変な仕事を選んだな。夜勤も続くし、不規則で大変だろう?」
私は頷きながらも「やりがいのある仕事ですから」と言葉を返した。
実家から逃げだすように私はこの道を選んだ。
それでも、人の命にかかわる仕事の責任感とやりがいは選んでよかったと思っている。
「あっ……」
彼は私を抱きしめてくれる。
「僕達はまだまだ未熟だ。仕事を頑張らないとな」
「……はいっ」
彼を恋人として慕い、仕事の仲間としても信頼していた。
恋人でいる事に幸せを抱き続けていた。
だけど、それはタイミングが悪い時期に重なって起きてしまった。
私が妊娠の事実に気づいたのは彼と付き合い始めて1年が経った頃。
ちょうど、友人の理沙が妊娠したと話をしていたので、私も気にしていた。
いつかは私も子供ができて、家庭を持つかもしれない、と。
それが思わぬ形で私に現実を突きつける。
異変を感じて調べてもらったら案の定、私は妊娠をしていた。
この妊娠の事を彼に相談するかどうか、悩んでいた。
信彦さんはここ最近、とても忙しくほとんど会えてない。
噂では別の病院に移ると言う話もあり、私は不安だった。
彼はこれからも出世する人間で、私なんかが一緒にはなれない。
そういう意味合いの話を先日、彼の母親からされてショックを受けていたのに、この事実が判明して以来、私は夜も眠れない日が続いていた。
その時は信彦さんは気にしないでいいと慰めてくれたけど、意識する程に辛くなる。
私はどうすればいいの?
どうしたいのか、それは当然、彼と結婚して彼の子供を産み育てたい。
だけど、それは望みたくても望めない。
現実という壁が邪魔をする。
私と彼では立場が違いすぎるから。
それに信彦さんには夢もあり、ここで私が邪魔をしちゃいけないと思った。
「……久しぶりだな、葉月。今まで、中々連絡もできずにすまなかった」
久々に彼に呼び出された私は夜景の綺麗な高台の公園にきていた。
初めは綺麗だと思っていた夜景。
だけど、彼と話をしているうちに寂しさが胸に込み上げてくる。
「信彦さん。話があるって何ですか?」
「……葉月。聞いて欲しい。僕は、病院を変わることになった」
やはり、噂通りだったらしい。
この仕事で大変なのは病院を変わったりする事がよくあること。
看護師ではそれほどないけれど、医師の場合は本当によくある話。
特に彼は今年で研修医も終わり、ちゃんとした医者としての仕事が始まる。
「そ、そうなんですか」
「今度、行く病院は他県なんだ。でも、葉月との関係は続けたい。僕はキミが好きだ。その気持ちは変わらない、遠距離になるけれど付き合い続けてくれないか?」
信彦さんの言葉は嬉しい、私を想ってくれているからその想いに応えたい。
でも、ダメなの……私はもう、付き合えない。
「……ごめんなさい」
私の言葉に彼は動揺する。
「葉月……?」
「ダメですよ。その、私も信彦さんの事が好きです、大好きです。でも、これから先、信彦さんの事を考えれば私は……」
彼との交際を自分から終わらせるなんてしたくないのに。
今すぐにでも、私は彼に言いたかった。
貴方との子供ができたんだって。
「この前の母の事は忘れてくれ。あんなひどい言葉を言うなんて思っていなくて、キミを傷つけてしまった。すまない」
「仕方ないですよ。信彦さんの立場を思えば、お母さんの言う事はもっともです」
「立場なんて関係ない。僕は葉月と一緒にいたいんだよ?考え直してくれないか?出来る限り、時間だって作るから」
信彦さんは私の手に触れて説得してくる。
私だって別れたくない。
ずっと、貴方の傍にいたい……。
「……いい機会なんだと思います。私達の関係を終えるために。信彦さんのためですよ」
頬を伝うのは冷たい涙。
私は真実を隠し続けて、彼との別れを決意する。
今の私は彼の将来を考えれば足かせになってしまう。
彼の事を思えばここで身を引いた方が良いに決まっている。
「なぜだ、葉月……?僕のためってどういうことだ。キミがいれば、僕は――」
「お願いですから、これ以上、私を苦しめないでください。私が本音で貴方を嫌っているわけがない。一緒にいたいです。それでも、私は貴方のために何もしてあげられません……」
好きなのに別れなくちゃいけない、そんな理不尽はない。
それにこのお腹にいる子を考えても、信彦さんと離れてしまう事は大きな不安だ。
それでも、どんなに考えても、悩んでも、私には彼と別れる以外の選択肢を選ぶ事なんてできなかったの……。
夢を抱く彼のために、私が出来る事はひとつしかなかった。
もしも、私が今ここで子供がいると話せば彼はどういう反応を見せるか。
彼は子供を堕ろせと言う人間ではない。
責任を持つ形で私を支えてくれるに違いない、それは分かっていた。
そこに不安はなくても、私の不安は私自身の問題だ。
「好きか嫌いか、そんな単純な理由で好きでい続けられたらどんなに幸せだったか……信彦さんは私にとっては立場が違いすぎるんです。同じ立場には絶対に立てませんから」
代々続く医者の名家のお金持ち。
次世代を担うと期待されている医者としての未来も潰せない。
「葉月……キミを僕は苦しめていたのか?」
私は涙を流しながら彼の手を離す。
言わなくちゃいけない、私は自分の口から別れの言葉を言わないといけないんだ。
「……さよなら、信彦さん。貴方と付き合えて、私は幸せでしたよ」
最後は頑張って笑おうとしたけど、やっぱり泣いてしまった。
涙ぐんだ瞳で見つめた彼は何とも言えない顔をして沈みきっていた。
ごめんなさい、信彦さん。
私は胸の痛みに耐えながら彼との別れを受け止めようとしていた。
それから数ヶ月後、彼は病院を去り、私も出産のために病院をひとまずやめた。
だから、下手な噂にならずに済んだと思う。
あのまま病院にいれば、遠くの彼にも子供の話が届くかもしれない。
その後、産まれてきた翔太を私はひとりで育て続けていた。
大切な人との子供、私にとっては彼との絆だ。
不仲だった両親はシングルマザーの道を選んだ私を責めたけれども、出産費用の資金を援助してくれたりして不安定な生活を続ける私を支えてくれた。
翔太には悪い事をし続けてきたと思う。
楽ではない暮らしを強いり、我が侭すら聞いてあげられない。
親としては最低な自分を私は責めていた。
そんな私の葛藤をよそに翔太は良い息子に育ってくれていた。
彼が3歳になった頃に、私は再び看護師の道を進んでいた。
新しい病院に採用されて忙しいながらも、翔太との二人暮らしを続けていた。
けれど、彼が8歳の小学2年の夏。
私は病院を移り変わる事になり、しばらくの間、慌ただしくなるために翔太を親友の理沙に預ける事にした。
その時、彼は初めて家族の温もりと言うモノに触れたんだろう。
理沙からもらった息子の写真は楽しそうな笑顔を浮かべていた。
彼を迎えに来た時は、私に抱きついて嬉しそうに笑ってくれた子供の顔が今でも忘れられない。
この子には普通に両親がいて、家族のいる生活をさせてあげられない。
そんな自分のふがいなさと翔太への罪悪感に胸を締め付けられた。
信彦さんとはアレ以来、何度か合う事はあったけれど翔太の事は話せずにいる。
本当の話をできるわけがなかった。
信彦さんと別れた事が正しかったのは証明されていた。
彼は身分のいい女性と結婚して、勤め先の病院でも出世しており、順調に名前も有名になり、名医として評価されていた。
今になって隠し子がいたなんて到底話せるわけもない。
時は早いモノで十数年も経ち、翔太も高校2年生になった。
少しヘタレ気味だけど、優しい子だし、最近は恋人もできた。
どこかで反抗期を迎えて、捻くれることもなく真っすぐに育ってくれたのが嬉しい。
父親の事はちゃんと話せてはいないけれど、いずれは向き合わなくちゃいけない。
信彦さんとの関係も、再び同じ病院に勤務する事になったりして私自身にも変化が起き始めている。
“過去”を受け止めなくちゃいけない時が来ているような気がしていたの――。
次回からは新展開です。琴乃のつき続けている嘘。その真実が明らかに……。




