第30章:愛ゆえに《前編》
翔太の母、葉月の視点です。
【SIDE:井上葉月】
母親として子供の成長を見守る。
それは親としての幸せのひとつ。
「翔太?いないの、翔太?」
病院の看護師の仕事をしている私、葉月は夜勤明けで家に帰るといつもいるはずの息子が家にいない事に気づいた。
まだ朝の8時過ぎ、ゴールデンウィーク中なので昼まで寝ていると思った。
部屋をのぞいてもいないし、どこかへ出かけてしまったんだろうか?
「あれ、本当にいないし。朝から出かけてしまったの?」
お風呂はちゃんといれてくれていたので、出かけてから間もないと分かる。
このまま寝てしまうからいなくてもいいけど、顔くらい見ておきたかった。
「ふぅ、あの子もいないならお風呂に入って、寝よう」
そう思っていたら、携帯電話にメールが来ているのに気付く。
相手は私の幼馴染である理沙。
翔太は彼女の娘である琴乃ちゃんと先月から付き合い始めている。
親友の子供同士が付き合う事になったのは良い事で、私としてもふたりの仲がうまくいく事を望んでいる。
それに、琴乃ちゃんは可愛いから将来、あの子のお嫁さんに来てほしいし。
「……えっと、暇なら電話して?」
メールにはそう書かれていたので、私は彼女に電話する。
ずっと幼馴染として仲がいい理沙は今の年齢になっても信頼できる親友。
よくふたりで会ったりしているので、メールのやり取りも普通の事なんだけど。
「理沙、どうしたの?」
『お仕事お疲れ様。葉月は知らないと思って教えてあげるわ。今日はね、琴乃と翔ちゃんはデートに行ってるの。遊園地デートだって琴乃が張り切っていたわ』
あぁ、なるほど。
それならこの朝から出ていく理由も分かる。
彼らは付き合いはじめてから何度もデートをしているようだ。
恥ずかしがってか、あまり私にはちゃんと話してくれないのが寂しい。
「そうなの。翔太も琴乃ちゃんをリードできてるかしら?」
『うちの琴乃の方が翔ちゃんに激ラブだからねぇ。琴乃も気難しい子だから愛想つかされないようにして欲しいわ』
「それはないわよ。だって、あの子は……」
『葉月の自慢の息子だから?』
「ふふっ。そうじゃなくて、あの子、ヘタレだもん。今までも女の子と付き合いなんて全然なかったんだから浮気とかの心配はしなくていい。そんな度胸もないからね」
私達はお互いに笑いあいながら、翔太のヘタレ話に盛り上がる。
『せめて、優しいって言ってあげなさいよ』
「優しいのは認めるけど、ヘタレな性格を直してほしいとも思ってるの」
あの子は昔からそうだった。
慣れない女の子相手だと緊張してしまう。
昔、仕事の都合で少しだけ理沙に彼を預けていた時期があった時は、琴乃ちゃん達とうまくやれていたようだけどね。
『琴乃も大人しい子だから、翔ちゃんとは相性的にはいいはず。いい関係を続けてくれればいい』
「そうね。でも、付き合うって事は色々と問題もあって大変なものよ。彼らも、これからたくさんいろんな経験をしていくわ」
『そういうのも恋愛のうちじゃない?あー、若いっていいわよね。青春時代が懐かしい』
お互いにずいぶん昔になってしまった高校時代を思い出す。
『……そう言えば、仕事を変えるって言っていた話はどうなったの?』
「ん?仕事を変えるんじゃなくて、仕事場が変わっただけ。隣街の私立病院で今は働いているわよ。給料面もよくなってすごくやりがいがあるわ」
『ちょっと待ちなさい?確か、あそこの今の院長って?』
やっぱりそこに反応するか、幼馴染相手には誤魔化しが効かないから辛い。
「まぁ、それはそれで……ねぇ?」
『あのねぇ。「ねぇ?」じゃないでしょ。思いっきり、葉月の元彼じゃない』
「あははっ、もう十数年も前の話だし、元彼なんて言葉は使わないわよ」
私は苦笑しながら、そっと片手で自分のバッグから手帳を取り出す。
そこに入っているのは色あせた写真が一枚。
まだ若い頃の私が男性に抱きつく形で幸せそうに笑っている写真だ。
相手の彼は佐々木信彦、まだ私が新人ナースだった時に初めて交際した男。
私より2歳ほど年上の彼も当時はまだ新米の医者でお互いに仕事を覚えるのが大変ながらも、付き合った1年間はとても楽しかったし、充実していた。
「信彦さんが院長として正式にあの病院を引き継いだらしいの。昔の縁であの病院で働いてみないかって言われたのよ」
『……あのさぁ、葉月。気を悪くしたらごめん。翔ちゃんの父親ってもしかして?』
「聞かないでよ。理沙の意地悪……」
理沙にもあの子の父親については語った事がない。
ずっと未婚だった事も気にしてくれていたと思う。
彼女の言うとおり、翔太の父親は信彦さんだ……そもそも、ひとりしか交際したこともないし。
この事実は誰にも言った事がない。
『……そうだったの。でも、それならどうして?彼と付き合っていたんじゃないの?優しくて頼れる人だって当時もすごく自慢してたじゃない』
「どうして、かな。きっと捨てられるのが怖かったら……」
『そりゃ、相手は家柄も優秀なお医者さんだったけど、付き合ってたなら話すべきだったんじゃないの?その言い方だと彼にも翔ちゃんの事を言っていないのね?』
私は「えぇ」と返事しながら、もう一度写真の方へと視線を向ける。
あの頃の私はとにかく、嫌われたくない事に必死だったんだ。
「今は向こうも結婚している身よ。妻も子供もいるみたいだし、それにもう何年も経ってる。そちらの関係の方は今さらよ」
『葉月は今でも彼の事は好きなの?』
「……好きよ。好きな男の人の子供だから、私は翔太が大好きなんだもの。大切な息子として可愛いと思えるの。憎しみなんてあの人に抱いた事はないわ」
そして、自分が選んだ選択肢は間違いではなかったと今も信じている。
あの時、こうして身を引くことが一番正しかったんだって。
『葉月はバカね』
「うわっ、あっさり言ってくれるじゃない。親友なのに冷たい」
『バカよ、本当に……。今まで事情を相談してくれなかった事も含めてね』
理沙は親友だから話せない、そう言う事もある。
「葉月は幸せになるべきよ。いつまでも独り身でいるつもり?翔ちゃんだって独立する歳もそう遠くないんだから」
「それと同じセリフを翔太に言われたわ」
あの子も私の幸せを願ってくれている。
私のエゴイストな考えで、翔太には片親と言う苦労の生活を強いり、普通の子供が体験するような家族としての温もりも、人並みの幸せも与えてあげられなかった。
それなのに、あの子は責めることなく、私の幸せを考えてくれた。
母親として間違っていないって、思わせてくれた事が何よりも嬉しかった。
『さすが翔ちゃん。ちゃんと葉月の息子として見てきているのよ。さすが琴乃が見込んだ彼氏だけのことはあるわ。……佐々木さんの事はダメだとしても、相手くらいそろそろ見つけなさいよ』
「考えておくわ。私もまだ若いうちに相手くらい出会わないと後悔しそうだもの」
翔太が私を許してくれた事で、私も自分の事を考えられるようになってきた。
自分の人生はまだまだ長くてやり直せる。
彼がそう私に思わせてくれたんだ。
私が翔太を身籠ったのは21歳の時だ。
ちょうど1年前に私はある人に出会った。
憧れていた看護師の仕事を目指して、専門学校を卒業し、新米ナースとして仕事に追われる日々を過ごしていた。
ある日、私は仕事である経験をして、休憩室でお茶を飲んでいた。
缶の紅茶を手に持ちながら私はうなだれていたんだ。
「どうかしたのか?」
私に声をかけてきたのは若い男の医者。
「こんな場所で泣いて……何かあったのかい?」
泣いている、と彼に言われて初めて気づいた。
私の頬をゆっくりと伝う涙に。
白衣に身を包んだ彼は私にハンカチを差し出す。
私はそれを受け取って溢れ出る涙をぬぐう。
「すみません……ぅっ……」
泣いているところを人に見られた事は恥ずかしいけど、それ以上に辛かった。
「よければ話をしてくれ。僕も研修医で新人だけど話くらいなら聞いてあげられる」
私は先ほど、起きたばかりの話を彼にしていた。
つい先日まで私はひとりの少女の看護の世話を担当していた。
その子は5日ほど前に交通事故で運ばれてきたまだ幼い少女。
彼女は最初こそ、足を骨折していただけで命の別状はないと判断されていた。
早く退院して、友達とお話がしたい、遊びたいと楽しそうに私に笑顔を見せていた。
だけど、昨日になって容体が急変、意識不明になり、今朝方、急死してしまったのだ。
交通事故に会った時に頭を打っており、後からになって命を落とす事態の悪化を招いた。
「私も早く異変に気付けていればあの子を救えたかもしれない。そう思ったら、私はすごく悔しくて、悲しくて、無力でした」
あの子の笑顔が忘れられない。
笑顔を救えなかった事の後悔が私を苛んでいた。
「人の生き死に関わるのがこの仕事です。分かってはいるんですよ。ひとつひとつの事に落ち込み続けてはいけない事くらい。それでも、私は……救ってあげたかった。私、この仕事を続けていけるか、自信をなくしてしまって……」
「キミは看護師だ。救えなかった事を悔やむ気持ちは分かる。綺麗事や理想、安易な奇跡はこの病院という世界にはない。現実にあるのは理不尽な辛い物も多い」
夢を見てきた看護師という職業はあまりにも辛くて、大変なのだと思い知らされている。
「けれど、キミや僕らは多くの患者を救う事もできる。それを忘れてはいけないよ。キミは無力だと言ったが、これから先、キミも多くの人を救う事になる。もちろん、救えない人もいるだろう。だからと言って、諦めてしまえばそれで終わりだ」
彼はそっと私の頭を撫でる。
その手の温もりに私は心を動かされていた。
「……救えなかった命は確かに辛い。全ての人を救う事はできない。この職業は人の命と関わる大変仕事だ。それでも、僕らには僕らの出来る事があるはずなんだ。心に整理をつけて、キミは前を向いてくれ」
私は頷くと彼は「今は辛いだろうけど、いい看護師になれるように頑張ってくれ」と、彼は私を励ましてくれた。
私がしなくちゃいけないのは落ち込み続ける事じゃない。
あの子のような子供を二度と出さないように、私もしっかりと仕事をしなくちゃいけないんだ。
そのまま立ち去ろうとする彼、私は彼のハンカチを握りしめていた。
「あ、あの、このハンカチ。洗ってお返しします。お名前を教えてもらえますか?」
「佐々木信彦。この病院で今は外科の研修医をしている」
「私は井上葉月です。また近いうちに届けますから」
彼は微笑を浮かべて頷いてくれた。
私と彼の出会いはここから始まったんだ。




