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第24章:嘘つきの恋《前編》

【SIDE:井上翔太】


 ……それはどれほどの昔の記憶だろうか。

 暑い夏、蝉の鳴き声の響く森の中に俺はいた。

 ――カブトムシ。

 いきなり俺の目の前に突き付けられたのは黒光りする角を持つ昆虫。

 

「……カブトムシ?」

 

「そうだよ。カブトムシ。そこの木で見つけたの」

 

 角の部分を持ちながら目の前の少女はそっと俺にカブトムシを手渡す。

 

「翔ちゃん、男の子だから好きでしょ?あげる」

 

「……ありがとう。でも、俺はあんまり虫は好きじゃない」

 

「そうなの?」

 

 俺にカブトムシを手渡してきてくれたのは“琴乃ちゃん”だ。

 彼女は数日前に俺が預けられた家の娘。

 すぐに仲良くなったのは良いけれど、女の子にしては元気すぎる子だった。

 普通なら虫を嫌悪するものなのに、全然苦手ではない様子。

 

「男の子は皆、好きだと思っていた。パパと虫とりに行ったりしないの?」

 

 俺は足を動かしてモタつくカブトムシを眺める。

 

「……俺、お父さんいないし。お父さんって、会った事もないんだ。お母さんと二人でずっと暮らしてる。琴乃ちゃんはお父さんとよく出かけるの?」

 

「私のパパ、アウトドアが好きなの。だから、私もよくいろんな場所に連れて行ってもらうんだ。キャンプしたり、テント張って星空を見たりするの」

 

「アウトドア?キャンプ?テント?」

 

 小学2年の俺にとってはまだ聞きなれぬ単語ばかり。

 彼女は俺に説明しようと頭をひねる。

 

「えっとねぇ、外で遊ぶ事をアウトドアって言うんだって」

 

「そうなんだ?全然知らないや」

 

 俺にとってはそれらは縁のない言葉だった。

 休日に家族とどこかに遊びに行った。

 遊園地、山、海など、友達はよく家族で出かけたりするらしい。

 でも、俺はお母さんとはあまり出かけた事がない。

 いつもお仕事で忙しいから、言っても無理だって分かっていたから。

 片親だけの生活に慣れてはいても、寂しさくらいはある。

 俺もどこかに行ってみたい、知らない場所で楽しい思い出を作ってみたい。

 

「それなら、今度、パパに頼んでどこかに連れて言ってもらおうよ。夏休みはずっと私の家にいるんでしょう?そうしよう?」

 

 明るい笑顔で言う彼女。

 だが、俺はどこか寂しさを感じていた。

 俺にはお父さんはいない。

 お父さんっていうのが家族でどういう立場なのかは大体知っている。

 ……俺にもお父さんがいれば、お母さんと離れなくてもよかったのかな?

 

「翔ちゃん?どうしたの?」

 

「え?あっ、その……カブトムシ、可哀想だから逃がしてもいい?」

 

「可哀想?翔ちゃんって優しいんだね。いいよ、逃がしてあげて。どうせ、家では飼えないもの。“鈴音”が怖がるから」

 

 彼女が名前を呼んだ鈴音と言う女の子。

 琴乃ちゃんの“妹”、俺はまだあまり話をした事がない。

 大人しい子で俺が話しかけてもすぐに逃げられてしまう。

 

「鈴音はカブトムシが嫌いなんだ?」

 

「虫とか大嫌いだよ。足がうにょってしてるのが嫌みたい」

 

 俺はその手に持ったカブトムシを逃がそうと木に近づける。

 その時だった、俺達の背後で小さな女の子の声がする。

 

「あ、あの、お姉ちゃん。しょ、翔お兄ちゃん。ママがお昼ご飯だから帰ってきてって」

 

 控えめな声で俺達を呼ぶ少女。

 

「そう?分かった、すぐに帰る。ほら、行こう、翔ちゃん」

 

 琴乃ちゃんが俺の手を引いて歩きだす。

 俺は片手に掴んでいたカブトムシをつい手放してしまった。

 

「あっ!?」

 

 元々逃がすつもりだった、逃げる事は全然かまわない。

 だが、そのカブトムシが羽ばたいた先にいたのは……。

 

「きゃっ!?」

 

 鈴音めがけて飛んだカブトムシ、彼女の服に引っ付いてしまったのだ。

 虫嫌いの彼女は驚いて慌てふためく。

 

「い、嫌!?は、離れてよ~っ!?」

 

 その様子を琴乃ちゃんは「虫ぐらいで騒がないで」と妹に呆れる。

 虫が大丈夫な彼女は平気なのだろう。

 だが、俺もそうだが、苦手な人間には本当に嫌なものなんだ。

 

「た、助けて、うぇーん」

 

 泣き出してしまう鈴音を俺は見てられずにすぐにカブトムシを引き離す。

 

「翔お兄ちゃん……?」

 

「もう大丈夫だから。変な場所に逃がしてごめんな」

 

 俺は今度こそ、カブトムシを空へと放った。

 涙に濡れた瞳で俺の顔を見つめてくる彼女。

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

 

 鈴音は俺にそう言うと、涙をぬぐった。

 それまで俺を避けていた彼女。

 初めて、彼女が俺の顔を見て話をしてくれた。

 可愛らしい顔つきをしている女の子だと思った。

 

「……翔お兄ちゃん」

 

 もう一度、俺をそう呼んだ彼女は俺に手を差し出してくる。

 鈴音の小さな手を握り返すと微笑を浮かべる。

 

「あっ、ずるい~っ。鈴音、翔ちゃんとは私も仲良くしたいのに」

 

 琴乃ちゃんの声に俺達は笑い合う。

 夏の日差し、少しだけ俺達の距離が縮まった瞬間だった――。

 

 

 

 

 ……。

 夏はまだ遠い、4月下旬のある日。

 俺は母さんからの電話で目が覚めた。

 最近、新しく働き始めた隣街の私立病院。

 昨日も泊りの仕事で留守にしていたのだが。

 

「……はい?」

 

『だから、机の上にある資料を持ってきてって言ってるの。今すぐに持ってきて』

 

「今すぐにって今、何時だと思ってるんだよ」

 

 時計はまだ6時半、俺はまだ寝ていたい気持ちだ。

 

『朝から会議があるの。その資料を忘れちゃったからすぐに欲しいの。これでも朝になるのを待ってあげたのよ?夜中の3時に連絡したわけじゃないんでしょ』

 

 そりゃ、そうだろうが、俺にとってはどちらも同じだ。

 

「分かった。すぐに持っていく。どこに行けばいい?」

 

『私の勤める病院は分かるでしょ?そこの内科のナースステーションに来て』

 

「はいはい。すぐに行くよ」

  

『私がいなかったら誰か他の人に渡しておいてね。それじゃ、任せるわ。30分以内に来て。なるべく急いで、いい?』

 

 おい、30分ってここから自転車でも時間はかかる。

 だが、相手はそのような事など気にせず、電話を切りやがった。

 

「仕方ない。さっさと行ってくるか」

 

 俺はベッドから起き上がり、さっさと着替えて出かける準備をする。

 資料も見つけて、俺は母の命令通りに急いで病院へと向かった。

 

 

 

 

 自転車をこぎ続けて20分、目的の私立病院が見える。

 場所は知っていたが、実際に来るのは初めてだ。

 立派な建物、病院自体もかなり広い。

 

「ここか。ナースステーションってどこだ?」

 

 俺は中に入るとまだ時間も早いためか、人の気配がない。

  

「あれ~っ?お姉さん、ここだって言ったんだけどな?」

 

 受付もまだ時間外だったので誰もおらず、通りがかった看護師に道を尋ねたのだが……。

 

『外科、ナースステーション』

 

「……外科じゃん!?」

 

 母さんが言った内科とは違う。

 単純ミスだが、時間的には厳しくなってきた。

 母さんは時間に厳しいお人だ、ここは早く届けなければいけない。

 だが、普通ならどこかにありそうな地図も見当たらず、俺は困り果てていた。

 

「おや、キミ、こんな時間にどうしたんだ……?」

 

 医師だろうか、白衣を着た男性が俺に気づいて声をかけてくる。

 よかった、誰でもいいから人がいてくれて助かる。

 

「……すみません、内科のナースステーションはどこですか?」

 

「内科?あぁ、それならここから先に行ったところだよ。私もこれから向かう所だ。何か用事でもあるのかい?」

 

「母がナースなんですけど、忘れた資料を届けに」

 

「……そうか。それなら、案内しよう。こちらだ」

 

 ここでこの先生に渡してもいいような気がしたが、この手の資料は出来る限りは手渡しておいた方がいいだろう。

 

「そう言えば、キミのお母さんの名前は?」

 

「葉月です、井上葉月。看護師長をしていると聞いてますが……?」

 

「……葉月の息子?まさか、キミは?」

 

 彼は俺の顔をマジマジと見つめてくる。

 口髭をはやした40代前半くらいのおじさんだ。

 驚いた顔を見せる彼に俺も驚く。

 

「……あ、あの?何ですか?」

 

 初対面のおじさんに見つめられても困るだけだ。

 

「いや、何でもない。そうか、彼女の息子か……」

 

 彼はそう呟いて、俺から視線を外す。

 何だろう、この人は……どこかで会ったような?

 不思議な感覚を俺は抱き、彼の横を歩きながらナースステーションへと向かった。

 

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