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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
第2章:再会と潜入

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第27話 空いた後釜

 アマン東京のスイートルームに、柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。

 戦いの合間の、束の間の休息。

 井上健太郎は、リビングのソファに浅く腰掛け、膝の上で無防備に爆睡している小さな生き物を凝視していた。


 仔猫のハイだ。

 拾われた当初の警戒心はどこへやら、今では完全に野生を忘れ、仰向けになって「ヘソ天」ポーズで熟睡している。

 その四肢はだらりと力が抜け、肉球が天井を向いている。

 まだ色素の薄い、桜貝のようなピンク色の肉球。

 柔らかく、温かく、そして弾力に満ちた、生命の神秘。


「……触るか」


 井上はゴクリと喉を鳴らした。

 数百億の金を動かし、巨大財閥を敵に回しても眉一つ動かさない男が、今はたかが猫の足の裏に指を伸ばすだけで緊張している。

 起こしてはいけない。

 だが、触れたい。


 井上は人差し指をゆっくりと近づけ、前足の肉球に触れた。

 ぷにっ。

 想像以上の柔らかさだ。マシュマロよりも弾力があり、赤ちゃんの肌よりも吸い付くような感触。

 指先が沈み込む。


「……んぅ……」


 ハイが寝言を漏らし、前足を動かした。

 井上はビクリと手を止めたが、ハイは起きる気配がない。

 それどころか、無意識に井上の指を両前足でぎゅっと抱き込み、自分の顔に押し付けた。


「ミャ……ムニャ……」


 小さな爪を出したり引っ込めたりしながら、井上の指を「おしゃぶり」代わりにして再び寝息を立て始める。

 温かい体温。トクトクと伝わる心臓の音。

 そして、指を包み込む肉球の感触。


「……反則だろう、これは」


 井上は口元を緩め、動けなくなってしまった。

 復讐のために冷徹に徹してきた心が、この小さな温もりによって強制的に溶かされていく。

 

「あら、ボス。デレデレね」


 背後から、呆れたような声が聞こえた。

 森舞永だ。ジム帰りなのか、スポーティーなウェアに身を包み、プロテインシェイカーを振っている。


「邪魔をするな。……今、世界で一番重要な任務中だ」

「はいはい。肉球の感触チェックでしょ? ……で、どうなの?」

「……極上だ。どんな高級なシルクよりも心地いい」


 井上は真顔で答えた。

 舞永は肩をすくめ、デスクに向かっていた木村心に声をかけた。


「聞いた? 心ちゃん。あの冷血漢のボスが骨抜きにされてるわよ」

「静かにしてよ。今、いいところなんだから」


 心はヘッドフォンをずらし、モニターを指差した。

 画面には、ニュースサイトの速報と、帝都グループの株価チャートが表示されている。


『帝都グループ、西園寺猛専務を解任。薬物疑惑と暴行容疑で送検』

『株価は年初来安値を更新。ストップ安気配』


「猛の失脚は確定したよ。……ネットじゃ『帝都の終わりの始まり』なんて言われてる」

「順調だな」


 井上はハイを起こさないように、慎重に指を引き抜いた。

 名残惜しい感触が指先に残っている。


「だが、これで終わりじゃない。……『王』が消えれば、次は『女王』が玉座を狙う」


 井上は立ち上がり、窓の外を見据えた。

 皇居の向こう、大手町のビル群の中に、帝都グループの本社ビルがある。

 その最上階では今頃、血で血を洗うような権力闘争の第二幕が開いているはずだ。


★★★★★★★★★★★


 帝都グループ本社、最上階の会長室。

 重厚なマホガニーのデスクの向こうに、西園寺貴子が座っていた。

 その表情は険しい。

 目の前には、数人の重役たちが青ざめた顔で立っている。


「……銀行団が、融資の引き上げを匂わせています」

「主要株主からも、経営責任を問う声が……」

「ネットでの不買運動が飛び火して、グループ全体の売り上げが激減しております」


 悲鳴のような報告が次々と上がる。

 猛のスキャンダルは、単なる個人の不祥事では済まされなかった。

 企業のコンプライアンス、ガバナンスの欠如として、グループ全体の信用を根底から揺るがしていたのだ。


「うるさい! 黙りなさい!」


 貴子がデスクを叩きつけた。

 重役たちが縮み上がる。


「たかがスキャンダル一つで大騒ぎして……。猛はもう切ったわ。トカゲの尻尾切りよ。これで幕引きにしなさい」

「し、しかし会長。……空席となった専務のポスト、および次期社長の椅子をどうするか、早急に決めなければ株主が納得しません」


 筆頭常務が恐る恐る進言した。

 貴子は深いため息をつき、部屋の隅に控えていた人物に視線を向けた。


「……麗華」


 呼ばれて進み出たのは、西園寺麗華だった。

 今日の彼女は、いつもの派手なドレスではなく、濃紺の地味なスーツに身を包んでいた。

 化粧も控えめにし、「謹慎中の身内」を装っている。

 だが、その瞳の奥には、隠しきれない野心と、不安が入り混じっていた。


「はい、お母様」

「お前がやりなさい」


 貴子は短く告げた。


「次期社長候補として、お前を推すわ。……猛がいなくなった今、西園寺家の血を引く人間はお前しかいないの」

「わ、私が……社長?」


 麗華の声が上ずった。

 喜びと同時に、戸惑いがある。

 彼女はこれまで、ショッピングとエステとパーティーに明け暮れるだけの「お飾り」だった。経営のことなど何も分からない。


「で、ですが……私に務まるでしょうか?」

「務まるわけがないでしょう」


 貴子は冷酷に言い放った。


「お前はただ座っていればいいの。実務は私がやる。……お前は『女性社長』という看板で、世間の同情と注目を集めるピエロになりなさい」


 傀儡。

 それが母親からのオーダーだった。

 麗華は唇を噛んだ。悔しいが、言い返す言葉も能力もない。


「ですが会長! 麗華様には経営の実績がありません。今のこの危機的状況で、神輿を据えるだけでは株主は納得しませんぞ!」


 重役の一人が反論した。

 他の者たちも頷く。

 泥舟に、素人の船長を乗せるようなものだ。


「……なら、どうすればいいのよ」


 貴子が苛立ちを隠さずに問う。


「強力な『後ろ盾』が必要です。……資金力があり、市場から信頼されている外部のパートナー。それを連れてこない限り、今回の人事は承認されません」


 後ろ盾。

 金。

 貴子は舌打ちをした。

 今の帝都グループに火中の栗を拾いに来るような投資家など、いるはずがない。


 その時。

 麗華の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。

 数日前のパーティーで出会った、映画スターのような美貌の投資家。


 『K.I.ホールディングス』代表、井上健太郎。


 『貴女からの電話なら、たとえ地球の裏側にいても取ります』


 あの言葉は、嘘だったのか、真実だったのか。

 もし、彼が本当に自分に惚れているなら。

 そして、彼が噂通りの莫大な資産を持っているなら。


「……心当たりが、ありますわ」


 麗華は顔を上げた。


「私を……いえ、帝都グループを救ってくれるかもしれない『ナイト』に、心当たりがあります」


★★★★★★★★★★★


 その夜。

 西麻布にある会員制フレンチ『エピキュア』の個室。

 薄暗い照明の下、井上健太郎と西園寺麗華は対峙していた。


 麗華は必死に「落ち着いた大人の女性」を演じようとしていたが、グラスを持つ指先が微かに震えているのを、井上は見逃さなかった。

 彼女は追い詰められている。

 兄の失脚。母親からの圧力。そして自身の無力さ。

 今、彼女が求めているのは、愛ではなく「救済」だ。


「……急なお誘いで申し訳ありません、麗華さん」


 井上は優しく微笑み、ワインを注いだ。

 ロマネ・コンティ。一本数百万は下らない最高級ワインだ。

 その香りが、麗華の虚栄心をくすぐり、警戒心を解いていく。


「い、いえ。……私も、健太郎さんにお会いしたかったの」


 麗華は上目遣いで井上を見た。


「あの……ニュース、ご覧になりました?」

「ええ。お兄様の件……心中お察しします」


 井上は痛ましげな表情を作った。

 実際には、そのニュースの仕掛け人は自分なのだが。


「実は……私、次期社長の候補に挙がっているの」

「それは素晴らしい。……貴女なら、きっと素晴らしいリーダーになれる」

「でも……自信がないの」


 麗華は弱々しく首を振った。


「誰も私を認めてくれない。母も、役員たちも、私をただのお飾りだとしか思っていない。……私には、味方がいないの」


 涙ぐむ演技。

 いや、半分は本音だろう。

 彼女はずっと、孤独だった。金と権力はあるが、誰からも愛されず、必要とされていないという欠落感。

 10年前、灰谷守をペットにしたのも、その空虚さを埋めるためだったのかもしれない。


「……僕がいる」


 井上はテーブル越しに手を伸ばし、麗華の手を包み込んだ。

 その手は温かく、力強い。


「貴女が一人で戦う必要はない。……僕が、貴女の剣となり、盾となります」

「健太郎さん……」

「単刀直入に言いましょう。K.I.ホールディングスは、帝都グループへの資本参加を希望します。……貴女を社長にするための、強力な『後ろ盾』として」


 井上の言葉に、麗華の瞳が輝いた。

 求めていた言葉。

 白馬の王子様が、黄金の馬車に乗って助けに来てくれたような錯覚。


「で、でも……今の帝都は火の車よ? 株価も暴落しているし……貴方に損をさせてしまうかも」

「金など、どうでもいい」


 井上は断言した。

 その瞳が、青い炎のように揺らめき、麗華を射抜く。


「僕が投資するのは、帝都グループではない。……『西園寺麗華』という一人の女性だ」


 殺し文句。

 麗華の理性が、音を立てて崩れ落ちた。

 彼女は席を立ち、井上の隣に座り直すと、その胸に飛び込んだ。


「……嬉しい。私、こんなに愛されたの、初めて……」


 麗華は井上の胸に顔を埋めた。

 甘い香水の匂い。

 井上は彼女の背中に手を回し、優しく抱きしめた。

 その顔は、慈愛に満ちた聖母のような表情を作っていたが、麗華に見えない角度で、口元だけが冷酷に歪んでいた。


(……チョロいな)


 堕ちた。

 これで、麗華は井上の傀儡となった。

 彼女を通じて、帝都グループの中枢に入り込むことができる。


 「後ろ盾」とは、すなわち「背後から首を絞める者」のことだとも知らずに。


「ありがとう、健太郎さん。……貴方だけが、私の味方よ」

「ああ。……僕に全てを任せてくれ」


 井上は麗華の耳元で囁いた。

 悪魔の契約。

 麗華は今、自らの意思で、その魂を井上に差し出したのだ。


 ホテルに戻った井上は、すぐにシャワーを浴びた。

 麗華の香水の匂いを、一刻も早く洗い流したかったからだ。

 バスルームから出ると、リビングでは舞永と心が、ピザを囲んで盛り上がっていた。


「お帰り、ボス。……魔女狩りは順調?」

「ああ。……魔女は今、王子様の夢を見て眠っている頃だ」


 井上はバスローブを羽織り、ソファに座った。

 すると、すぐにハイが寄ってきて、膝の上に飛び乗った。


 「ミャウ」と鳴き、井上の濡れた髪にじゃれついてくる。


「……ただいま、ハイ」


 井上はハイの小さな肉球を、再び指先でつんつんと突いた。

 プニプニとした感触。

 麗華の手を握った時の不快感が、嘘のように浄化されていく。


「……ボス、顔が緩んでるわよ」


 舞永が冷やかしたが、井上は気にしなかった。

 この温もりがあるからこそ、また明日、冷酷な仮面を被ることができる。


 空いた後釜には、操り人形が座る。

 そしてその糸を引くのは、かつてその家でゴミのように扱われていた男。

 復讐のシナリオは、いよいよ最終章へと向かっていた。

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