第25話 演出された悲劇
アマン東京のスイートルームに、リズミカルな打撃音が響いていた。
ポク、ポク、ポク。
木魚を叩くような、しかしもっと湿り気を帯びた重い音だ。
キッチンに立つ井上健太郎の手には、木製のすりこぎのような棒が握られていた。
目の前にあるのは、素焼きの壺のような深い鉢。
中には、鮮烈な香りを放つ食材たちが押し込められている。
『ソムタム・タイ』。
タイ東北部イサーン地方発祥の、青パパイヤのサラダだ。
「サラダ」という響きからは想像もつかないほど、暴力的で刺激的な料理である。
井上はクロックの中に、ニンニクと、生の唐辛子を放り込んだ。
通常なら1、2本で十分な激辛唐辛子を、惜しげもなく5本。
サークで叩き潰すと、目に染みるようなカプサイシンの刺激臭が立ち昇る。
そこに、パームシュガー、ナンプラー、そしてライムの絞り汁を加える。
甘味、塩味、酸味。
タイ料理の真髄である「三味一体」のベースを作る。
主役の投入だ。
千切りにした青パパイヤ。
日本では入手困難な生の青パパイヤを、井上はタイ専門の輸入業者から直接買い付けた。
さらに、インゲン、ミニトマト、干しエビ、ローストピーナッツを加える。
ここからが本番だ。
井上はサークを振り下ろし、食材を叩く。
混ぜるのではない。叩くことで繊維を壊し、味を染み込ませるのだ。
ポクッ、ポクッ、ポクッ。
叩いては返し、返しては叩く。
パパイヤがしんなりと輝き、全ての調味料を吸い込んでいく。
「……完成だ」
井上は皿に盛り付けた。
見た目は涼しげなサラダだが、その実態は味覚の爆弾だ。
そして、これに合わせるのはビールではない。
ミキサーに、クラッシュアイス、ホワイトラム、ココナッツミルク、そして完熟パイナップルを入れる。
スイッチオン。
ガーッという音と共に、雪のように白く、滑らかなフローズンカクテルが出来上がる。
グラスに注ぎ、パイナップルの葉とチェリーを飾る。
『ピニャ・コラーダ』。
カリブ海生まれの、トロピカルカクテルの女王。
濃厚なココナッツの甘さと、ラムの芳醇な香り。
激辛のソムタムと、激甘のピニャ・コラーダ。
正気とは思えない組み合わせだ。
「……いただきます」
井上はダイニングテーブルに着いた。
向かいには、これからの「主役」である林優香が座っている。
彼女は真っ白なワンピースを着て、化粧っ気のない顔で緊張していた。
その顔色は蒼白で、目の下には隈がある。
……もちろん、全てはメイクによる「演出」だが。
「食べろ。……これから戦場に出るんだ。エネルギーが必要だ」
井上はソムタムを口に運んだ。
シャキシャキとした青パパイヤの食感。
その直後、プリッキーヌの突き刺すような辛さが舌を襲う。
ライムの酸味が唾液腺を刺激し、ナンプラーの濃厚な旨味が後を追う。
痛いほどに辛く、酸っぱく、そしてどうしようもなく美味い。
そこに、ピニャ・コラーダを流し込む。
冷たく甘いココナッツミルクが、火傷しそうな舌を優しく包み込む。
辛さによる痛みが、甘さによる快楽へと変換される瞬間。
その落差が、脳内麻薬をドバドバと分泌させる。
「……っ! 辛い! でも……止まらない」
優香も涙目になりながら、フォークを動かした。
刺激的な味が、彼女の中の恐怖や迷いを焼き払っていくようだ。
「人生と同じだ」
井上はグラスを揺らした。
「刺激的な真実は、人を傷つける。だから、甘い嘘でコーティングして飲み込ませるんだ。……大衆は、そういう物語を求めている」
優香はハッとして顔を上げた。
これから彼女が行う記者会見。
それはまさに、残酷な真実を、大衆が好む「悲劇のヒロイン」という甘いオブラートで包んで提供するショーなのだ。
その時、ドアが開いた。
入ってきたのは、戦闘服に身を包んだ斎藤冴子と清水南、そして白衣姿の山崎桃子だった。
「準備はいい? シンデレラ」
冴子がニヤリと笑った。
彼女の手には、分厚い台本が握られている。
「時間よ。……最高の悲劇を見せてちょうだい」
都内の貸し会議室。
そこは、数百人の報道陣とカメラの砲列で埋め尽くされていた。
昨夜のライブ配信で拡散された「西園寺猛の乱行」。
その被害者女性が会見を開くという情報は、瞬く間にメディアを駆け巡った。
帝都グループの株価はすでに暴落を始めている。
皆、血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、次なる衝撃を待ち構えていた。
無数のフラッシュが焚かれる中、林優香が現れた。
車椅子に乗っている。
右足にはギプス。首にはコルセット。
真っ白な服に包まれたその姿は、痛々しく、そして守ってあげたくなるほど可憐だった。
もちろん、怪我はフェイクだ。
桃子が作った石膏のギプスと、プロのメイクによる青痣。
だが、その「絵」のインパクトは絶大だった。
「……本日は、お集まりいただき、ありがとうございます」
優香がマイクに向かって、消え入りそうな声で言った。
震える手。伏し目がちな視線。
会場の空気が、一瞬で「同情」一色に染まる。
冴子の演出通りだ。
「私は……西園寺猛さんに、以前から交際を強要されていました」
優香は語り始めた。
借金をカタに脅されていたこと。
昨夜、パーティーに呼び出され、薬物を飲まされそうになったこと。
そして、拒絶したら暴行を受けたこと。
事実に、少しだけ嘘を混ぜる。
自分から近づいたことは伏せ、「一方的な被害者」としての側面を強調する。
「怖くて……逃げ出したかったけど、家族に危害を加えると言われて……」
優香の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
演技ではない。
かつて味わった本当の恐怖と絶望が、涙となって溢れ出したのだ。
その真実の涙が、カメラの向こうにいる何百万人の視聴者の心を鷲掴みにする。
「証拠はあるのか!」
帝都グループ側から送り込まれたと思われる記者が、野次を飛ばした。
空気が凍りつく。
優香が怯えて身を縮める。
その時だった。
優香の隣に座っていた清水南が、マイクを引き寄せた。
「証拠なら、ここにあります」
南はアタッシュケースを開き、一枚の書類を掲げた。
「これは本日付けの医師の診断書です。……全治3ヶ月の打撲、および頸椎捻挫。さらに、血液からは睡眠導入剤の成分が検出されました」
会場がざわめく。
それは山崎桃子が作成した、完璧な偽造診断書だ。
だが、元監察医の彼女が書いたそれは、どんな専門家が見ても本物にしか見えない。
「さらに」
南はもう一枚の書類を取り出した。
それは、エコー写真のコピーだった。
「彼女は現在、妊娠2ヶ月です。……度重なるストレスと昨夜の暴行により、切迫流産の危険性があります」
ドッッ!!
会場が爆発したような騒ぎになる。
妊娠。
もちろん、これも桃子が用意した偽造写真だ。
だが、このカードは強力すぎる。
「妊婦への暴行」。
それは、猛を単なる暴行犯から、人道に外れた「悪魔」へと格下げする決定打だった。
「な、なんだって!?」
「鬼畜かよ!」
「帝都グループの説明責任を問うべきだ!」
怒号が飛び交う。
カメラのフラッシュが、雷光のように明滅し続ける。
南は冷徹な表情を崩さず、カメラを見据えた。
「我々は本日、西園寺猛氏に対し、傷害、強要、および胎児への加害行為に対する損害賠償請求と、刑事告訴を行いました。……示談には一切応じません。徹底的に戦います」
宣戦布告。
南の言葉は、法廷での勝利宣言のように響き渡った。
優香は、ハンカチで顔を覆い、泣き崩れた。
その陰で、彼女は微かに口元を緩めた。
見たか、猛。
これが私の演技よ。
アンタが踏みにじった「女優の卵」の、デビュー戦よ。
アマン東京のスイートルーム。
井上健太郎は、大型モニターに映し出される会見の中継を見ていた。
隣では、舞永がポップコーンを食べている。
心はネットの反応をモニタリングし、満足げに鼻歌を歌っている。
『帝都グループ株、ストップ安!』
『#西園寺猛を許すな がトレンド入り』
『不買運動開始のお知らせ』
世界が燃えている。
井上が点けたマッチの火を、冴子と優香がガソリンに変え、南が爆風で広げた。
「……完璧なショーだ」
井上はグラスに残ったピニャ・コラーダを飲み干した。
甘い。
脳が溶けるほど甘い、復讐の味。
画面の中で、優香が深々と頭を下げている。
その姿は、あまりにも弱々しく、美しかった。
大衆は彼女を愛し、猛を憎むだろう。
感情という怪物は、一度暴れ出せば誰にも止められない。
「これで、猛は終わった。……次は母親の番だ」
井上は仔猫のハイを抱き上げた。
ハイは「ミャウ」と鳴き、井上の指を舐めた。
猛という防波堤を失った女帝。
彼女が溺れる泥沼は、もうすぐそこまで迫っていた。




