第23話 幻覚のパーティー
アマン東京のスイートルームは、かつてないほどの「異臭騒ぎ」に見舞われていた。
ルームサービスが来たら間違いなく通報されるレベルの、強烈な発酵臭。
下水道の蓋を開けたような、あるいは濡れた古雑巾を煮詰めたような、鼻が曲がりそうな悪臭が充満している。
「……ボス、本気?」
森舞永が鼻をつまみ、涙目で抗議した。
足元では仔猫のハイが、空気を掻くような仕草をして、必死にソファのクッションの下に潜り込もうとしている。猫にとっても緊急事態らしい。
だが、換気扇の下に立つ井上健太郎の表情は、至って真剣だった。
目の前の中華鍋では、黒い液体に浸かった四角い物体が、ジュワジュワと音を立てて揚げられている。
『臭豆腐』。
台湾や香港の屋台で有名な、発酵豆腐料理だ。
井上は、植物性の発酵液を数ヶ月前から密かに仕込み、豆腐を漬け込んでいた。
アマンの最新鋭の換気システムを持ってしても処理しきれないその香りは、まさに「毒ガス」級だ。
「……毒を食らわば皿まで、だ」
井上は揚がった豆腐を油から引き上げた。
表面はカリッと香ばしい狐色。だが、その中心部からは、熱で活性化した発酵臭が立ち昇る。
皿に盛り付け、特製のタレ――醤油、ニンニク、酢、そして大量の豆板醤とパクチーをかける。
付け合わせは、酸味の効いた台湾風キャベツの漬物。
そして、井上が用意した酒は、ワインでもビールでもなかった。
素焼きの器に入った、無色透明な液体。
『ラクシ』。
ネパールの自家製蒸留酒だ。ヒエやアワなどの穀物を発酵させ、蒸留した強い酒。
アルコール度数は50度近い。
野性味あふれる香りと、喉を焼くような強烈な刺激。
「これより、決起集会を行う」
井上はダイニングテーブルに皿を置いた。
そこに座らされているのは、今夜の主役である林優香だ。
彼女は真っ青な顔で、目の前の臭豆腐を見つめている。
「……これを、食べるんですか?」
「そうだ。……今夜、君が飛び込む場所は、これ以上に腐った臭いのする場所だ。今のうちに鼻と胃袋を慣らしておけ」
井上はラクシを高い位置から細く注ぎ入れ、泡立たせた。こうすることで香りが開き、口当たりがまろやかになる。
「いただきます」
井上は自ら手本を示すように、熱々の臭豆腐を口に放り込んだ。
カリッ。
サクサクの皮を噛み破ると、中から熱い汁がジュワッと溢れ出す。
……美味い。
強烈な匂いは、口に入れた瞬間に芳醇な旨味へと変わる。
発酵によって分解されたタンパク質が、濃厚なチーズのようなコクを生み出し、ニンニクと唐辛子の刺激がそれを爆発させる。
そこに、度数の高いラクシを流し込む。
カッ! と喉が熱くなる。
アルコールが脂と臭みを洗い流し、強烈な陶酔感だけを残して消えていく。
「……悪魔的な味だ」
井上は息を吐いた。
腐敗と発酵は紙一重。
毒と薬も紙一重。
今夜の作戦そのものだ。
「……食べます」
優香は覚悟を決めたように箸を取り、臭豆腐を口に運んだ。
最初は顔をしかめたが、咀嚼するうちに目が見開かれる。
「……美味しい」
「だろう? 人間は、綺麗なものだけじゃ生きていけない。たまには泥を啜り、腐ったものを喰らって免疫をつける必要がある」
井上は優香にラクシを差し出した。
「飲め。……今夜の君は『復讐の女神』だ。シラフでやる必要はない」
優香はグラスを受け取り、一気に煽った。
むせ返るようなアルコール。だが、その熱さが腹の底に溜まっていた恐怖を焼き尽くしていく。
彼女の目に、強い光が宿った。
「行けます。……私、あいつを地獄に送ってきます」
六本木、会員制クラブ『バビロン』。
地下にあるその空間は、重低音のビートと紫煙、そして欲望の熱気で満たされていた。
今夜は貸し切り。
主催者は、西園寺猛。
取り巻きの起業家や半グレ、そして金で集められたモデルの美女たちが、シャンパンタワーの周りで踊り狂っている。
猛はVIP席のソファに深々と座り、両脇に美女をはべらせていた。
だが、その表情は優れない。
貧乏ゆすりが止まらず、額には脂汗が浮いている。
時折、胸ポケットを探っては舌打ちをする。
「……クソッ、どこに行きやがった」
精神安定剤がない。
いつも常備しているはずの薬ケースが、どこを探しても見当たらないのだ。
昨日の朝、屋敷を出る時には確かにあったはずなのに。
――『お出かけですか、猛様。上着をお預かりしてブラッシングいたしますわ』
昨日の朝。メイドの池田茉莉が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたことを思い出す。
あの時か? いや、あんな完璧なメイドがミスをするはずがない。自分がどこかで落としたのか。
イライラが募る。
最近、何をやってもうまくいかない。
リゾート開発は頓挫し、母親からは「無能」と罵られ、謎の投資家・井上にはコケにされ、路地裏では女にボコボコにされた。
フラッシュバックする恐怖。
指の痛みが幻痛として蘇る。
「おい、酒だ! もっと強いのを持ってこい!」
猛は怒鳴り散らし、テーブルのグラスを薙ぎ払った。
美女たちが悲鳴を上げて逃げ出す。
「……久しぶりね、タケルくん」
その時、騒ぎを切り裂くように、凛とした声が響いた。
猛が顔を上げると、そこには一人の女が立っていた。
林優香。
かつて自分が飽きて捨てた玩具。
だが、今夜の彼女は違っていた。
安っぽい服ではなく、体のラインを強調するセクシーな黒いドレスを纏い、プロの手によるメイクで妖艶に彩られている。
その瞳は潤み、どこか儚げで、猛の嗜虐心を強烈に刺激する「弱さ」を演出していた。
「……優香? なんでテメェがここにいる」
「会いたかったの。……やっぱり私、タケルくんじゃないとダメみたい」
優香はゆっくりと近づき、猛の足元に跪いた。
上目遣い。涙ぐんだ瞳。
完璧な演技だ。井上が叩き込み、舞永が度胸をつけさせた、一世一代の大芝居。
「借金取りに追われて、住むところもなくて……。お願い、もう一度私を飼って」
優香は猛の膝に手を置き、すがりついた。
猛の歪んだ自尊心が、満たされていくのを感じる。
そうだ。俺は王だ。女たちは俺に跪き、慈悲を乞う存在なのだ。
井上に受けた屈辱を、この女で晴らせばいい。
「……へっ、都合のいい女だな」
猛は優香の顎を乱暴に掴み、上を向かせた。
「いいぜ。遊んでやるよ。……ただし、代償は高いぞ?」
「何でもするわ。……だから、お祝いさせて」
優香は背後に控えていたウェイターから、一杯のグラスを受け取った。
琥珀色のカクテル。
甘い香りがする。
「復縁の乾杯よ。……私の気持ち、飲んでくれる?」
優香がグラスを差し出す。
そのグラスの中には、山崎桃子が調合した「特製カクテル」が注がれていた。
アルコール度数の高いスピリタスをベースに、興奮剤と、ある種の幻覚作用を持つ成分をブレンドした劇薬。
猛は疑いもしなかった。
目の前の女は、自分に服従しきった弱い生き物だと思い込んでいるからだ。
「……いいだろう。もらい直してやるよ」
猛はグラスを受け取り、一気に煽った。
喉を焼く熱さ。
脳が痺れるような感覚。
「……うぐっ」
グラスが手から滑り落ち、カーペットに転がった。
視界がぐらりと歪む。
心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
ドクン、ドクン、ドクン。
「……おい、なんだこれ……熱い……」
猛は首元を掻きむしった。
体が内側から燃えているようだ。
そして、それ以上に恐ろしいことが起きていた。
精神の均衡が、音を立てて崩れていく。
普段なら、常用している精神安定剤がこの衝動を抑えてくれるはずだった。
だが、今、猛のポケットには薬がない。
茉莉が巧妙に抜き取ったことによって、猛の脳内には防波堤がなくなっていた。
桃子の薬と、薬の欠如。
二つの要因が重なり、猛の精神は暴走を開始した。
「……あ、あぁ……?」
猛の目に映る景色が変貌する。
目の前にいる優香の顔が、歪んで見える。
いや、優香ではない。泥だらけの作業服を着た男たちの顔だ。
『……お前が殺したんだ』
『コスト削減だと? ふざけるな』
『生き埋めにされた俺たちの痛みが分かるか?』
幻聴が聞こえた。
10年前。トンネル崩落事故で死なせた作業員たちの声。
猛が責任逃れのために、事故ではなく「天災」として処理し、遺族を金で黙らせた事件の亡霊たち。
心の奥底に封印していた罪悪感が、薬の作用でこじ開けられ、溢れ出していた。
「ひっ、く、来るな! お前らは事故だ! 俺は悪くない!」
猛は悲鳴を上げて飛び退いた。
だが、幻覚は消えない。
今度は、優香の背後に、冷ややかに笑う井上健太郎の顔が浮かび上がる。
『無様ですね、西園寺さん』
『貴方は裸の王様だ。誰も貴方を見ていない』
井上の声が脳内に響く。
先日、路地裏で見下ろされた時の屈辱。母親からの冷たい視線。
全てのストレスが混ざり合い、猛の中で爆発した。
「うるさい、うるさい! 俺を笑うな!」
恐怖は、やがて制御不能な攻撃衝動へと変わる。
目の前の女が、自分を嘲笑う悪魔に見えた。
「殺してやる……俺を馬鹿にする奴は全員ぶっ殺してやる!」
猛は叫び声を上げ、優香に飛びかかった。
優香は悲鳴を上げて逃げようとするが、猛の馬鹿力に押さえつけられる。
ドレスが引き裂かれる音。
「キャアァァァ! 誰か助けて!」
会場が騒然となる。
だが、誰も止めようとしない。猛の暴虐には慣れっこだからだ。
だが、今夜は違う。
バァン!!
クラブの扉が蹴破られた。
「……パーティーは終わりだ」
現れたのは、井上健太郎と森舞永。
そして、スマートフォンのカメラを構えた木村心だった。
「撮影開始。……全世界に配信中だよ、変態さん」
心がニヤリと笑う。
モニターには、目を血走らせ、涎を垂らして暴れる猛の醜態が、鮮明に映し出されていた。
同時接続数、10万人突破。
コメント欄には『何これ?』『犯罪じゃん』『警察呼べ』という文字が滝のように流れている。
「……あ、あぁ……?」
猛はカメラの光を見て、さらにパニックに陥った。
無数の目が自分を見ている。
ゴミを見るような目。蔑みの目。
それは、彼が最も恐れ、そして他人に向けてきた視線そのものだった。
「見るな! 見るなぁぁぁ!」
猛は錯乱し、近くにあったシャンパンボトルを振り回した。
破滅のダンス。
幻覚のパーティーは、クライマックスを迎えようとしていた。
井上は静かにその様子を見つめていた。
口の中にはまだ、臭豆腐の濃厚な後味が残っている。
腐りきった男が、自らの腐臭を撒き散らして自滅していく様。
それは、どんな高級料理よりも食欲をそそる、最高のメインディッシュだった。
「……舞永。仕上げだ」
「了解。……かわいそうに、楽にしてあげるわ」
舞永が前に出た。
猛獣使いの鞭が、唸りを上げてしなる時が来た。




