第22話 悪魔の晩餐会
アマン東京のスイートルームに、緊張した空気が漂っていた。
もっとも、緊張しているのは一人だけ――井上健太郎に連れられてきた林優香だけだったが。
「……ここが、井上さんのオフィスですか?」
優香は恐る恐る部屋に入った。
広大なリビング、煌めく東京の夜景、そして無造作に置かれた高級家具。
生活感があるような、ないような、不思議な空間だ。
「オフィス兼自宅だ。……靴は適当でいい」
井上がジャケットを脱ぎながら答える。
その時、ソファの陰から灰色の小さな影が飛び出してきた。
「ミャウ!」
仔猫のハイだ。
井上の足元にすり寄り、さらに優香の方へトテトテと近づいてくる。
見慣れない客に警戒するどころか、興味津々で鼻をひくつかせ、優香の足首の匂いを嗅ぎ始めた。
「わぁ……猫ちゃん」
優香の表情がぱっと明るくなった。
しゃがみ込んで指を差し出すと、ハイは湿った鼻先を押し付け、ペロリと舐めた。
そして、コロンと仰向けになり、ふわふわのお腹を見せて「触れ」とアピールする。
「可愛い……! この子、すごく人懐っこいですね」
「人を見る目があるだけだ。……お前が敵じゃないと分かったんだろう」
井上が苦笑する。
その背後で、リビングにいた先客たちが動き出した。
「お帰り、ボス。……へえ、それが新しい『お人形』?」
デスクから顔を上げたのは、木村心だ。
ヘッドフォンを首にかけ、生意気そうな視線で優香を値踏みする。
「初めまして。……あの、林優香です」
「知ってるよ。データ全部見たから。……借金6000万、男運最悪、でも顔だけはイイ。典型的な『転落ヒロイン』だね」
心の容赦ない言葉に、優香が言葉を詰まらせる。
だが、すぐに別の声が助け舟を出した。
「こら、心ちゃん。いじめないの。……ようこそ、地獄の一丁目へ」
バスルームから出てきた森舞永が、濡れた髪を拭きながら笑った。
レザージャケットを脱ぎ捨て、キャミソール姿になっている。その肢体は、同性の優香が見ても惚れ惚れするほど鍛え上げられている。
「私は舞永。こっちは心。……ま、仲良くやりましょ」
舞永が冷蔵庫からビールを取り出し、優香に放り投げた。
優香は慌ててキャッチする。
冷たい缶の感触が、ここが夢ではなく現実であることを教えてくれる。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「……揃ったな」
井上がドアを開ける。
そこには、さらに個性的な面々が立っていた。
冷徹な美貌の弁護士、清水南。
知的で攻撃的なジャーナリスト、斎藤冴子。
気怠げな白衣の闇医者、山崎桃子。
「遅くなりました。……道が混んでいて」
南がアタッシュケースを提げ、氷のような声で言った。
「あら、私が一番乗りかと思ったのに。……随分と賑やかね」
冴子が興味深そうに優香を見つめる。
「ふあぁ……眠い。帰っていい?」
桃子は入るなりソファへ直行し、ハイの隣に沈み込んだ。ハイは「新しいクッションが来た」とばかりに、桃子の膝の上によじ登り、喉をゴロゴロ鳴らし始めた。
男一人、女六人、そして猫一匹。
異様な集団だ。
優香は圧倒され、部屋の隅で縮こまっていた。
自分が場違いな気がしてならない。ここにいる女性たちは皆、強く、美しく、そして何かしらの「武器」を持っているように見える。
自分にあるのは、借金と汚れた過去だけだ。
「……さて、全員揃ったところで」
井上が手を叩き、全員の注目を集めた。
「今夜は歓迎会であり、決起集会だ。……だが、腹が減っては戦ができん」
井上の視線が、キッチンの方へ向けられた。
そこにはいつの間にか、もう一人の人物が立っていた。
池田茉莉。
真紅のドレスにエプロンという奇妙な出で立ちで、巨大な銀のトレイを運んできた。
「お待たせいたしました、皆様」
茉莉は優雅に一礼し、ダイニングテーブルに料理を並べ始めた。
蓋が開けられるたびに、芳醇な香りが部屋中に広がる。
「今夜のメニューは、西園寺家の晩餐を完全再現したフルコースでございます」
茉莉が悪戯っぽく微笑んだ。
「前菜は『オマール海老とキャビアのジュレ』。スープは『黒トリュフのコンソメ』。魚料理は『甘鯛の松笠焼き・ヴァンブランソース』。そしてメインは……」
茉莉が恭しく最後の蓋を開ける。
そこには、見事な焼き色のついた肉塊が鎮座していた。
「『特選黒毛和牛のローストビーフ・赤ワインソース』でございます」
歓声が上がる。
だが、茉莉は付け加えた。
「ちなみに、これらは全て、今夜西園寺家の食卓に並んだものと同じ食材、同じレシピで作っております。……いえ、私が作りましたので、味はこちらの方が上かと存じますが」
盗んできた献立。
敵が今夜、優雅に舌鼓を打ったであろう料理を、我々も食らう。
それは、「敵と同じものを食らい、敵の血肉を奪う」という、呪術的なまでの皮肉だった。
「……最高じゃない」
舞永がフォークを手に取った。
「いただきまーす! 敵の味がするかしら?」
宴が始まった。
井上がシャンパンの栓を抜く。
ポンッ! という軽快な音と共に、黄金色の液体がグラスに注がれる。
「乾杯だ。……新しい仲間と、西園寺家の破滅に」
『乾杯!』
7つのグラスが触れ合う。
優香も恐る恐るグラスを合わせた。
料理は絶品だった。
オマール海老の甘みとキャビアの塩気が口の中で溶け合い、コンソメは黄金の雫のように喉を潤す。
そしてローストビーフ。
ナイフを入れると、肉汁が溢れ出す。
口に運べば、とろけるような脂の甘みと、赤ワインソースの酸味が絶妙なハーモニーを奏でる。
「……美味しい」
優香は思わず呟いた。
こんな美味しいものを食べたのは、生まれて初めてかもしれない。
猛との食事はいつも高価だったが、味などしなかった。常に機嫌を損ねないよう、ビクビクしていたからだ。
「食べて、精をつけなさい」
隣に座った南が、優香の皿に肉を取り分けてくれた。
冷たそうに見えた彼女だが、その手つきは意外に優しい。
「これから貴女がやることは、こんな美味しい食事よりも、もっと刺激的で、もっと残酷なことなのですから」
「……はい」
優香は肉を噛み締めた。
これが、復讐の味だ。
食事が進むにつれ、話題は自然と「仕事」へと移っていった。
「……で、どうやって猛を落とすの?」
冴子がノートPCを開きながら尋ねた。
「シナリオは出来ている」
井上はグラスを揺らし、説明を始めた。
「3日後。猛が主催するプライベート・パーティーがある。……場所は六本木のクラブを貸し切りだ。そこに優香を投入する」
「潜入捜査ってわけね。……でも、猛は優香ちゃんの顔を知ってるでしょ?」
舞永が指摘する。
「だからこそ、だ」
井上は優香を見た。
「優香、君は『別れたことを後悔して、復縁を迫る女』を演じろ。……猛は、自分に縋ってくる女を見るのが何より好きな男だ。君が泣きついてくれば、必ず食いつく」
「……はい。あいつの好みは熟知しています」
優香の目に、暗い炎が宿る。
屈辱の記憶が、今は最強の武器になる。
「そこで、これを飲ませる」
桃子が懐から小さな小瓶を取り出し、テーブルに置いた。
無色透明な液体。
「……毒?」
「いいえ。ただの『理性のタガを外す薬』よ」
桃子はけだるげに説明した。
「興奮剤の一種だけど、アルコールと混ざると記憶が飛んで、本能むき出しになるの。……猛がこれを飲めば、理性を失って君に襲いかかるはずよ」
「襲いかかる……?」
優香が顔を青くする。
「安心しろ。……その瞬間、俺たちが突入する」
井上は断言した。
「舞永が現場を押さえ、心がその様子をライブ配信する。……そして、被害者として君が泣き叫ぶ姿を、世界中に晒すんだ」
「社会的な公開処刑ですね」
南が補足した。
「その映像があれば、暴行未遂の現行犯で告発できます。示談には応じず、徹底的に争う姿勢を見せれば、帝都グループの株価は大暴落。……猛は役員解任を免れないでしょう」
完璧な計画だ。
優香を囮にし、猛の獣性を引き出し、その醜態を晒し者にする。
残酷だが、確実な罠。
「……やれますか?」
茉莉が静かに尋ねた。
執事として、あるいはスパイとして、人の心の機微を知る彼女の目は優しい。
「怖いなら、降りることもできますわよ」
「……いいえ」
優香は顔を上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「やります。……あいつに、思い知らせてやりたい。私がただの着せ替え人形じゃなかったってことを」
優香はローストビーフを一切れ、力強く口に放り込んだ。
咀嚼する。
敵の肉を喰らうように。
「……いい目だ」
井上は満足げに頷いた。
この少女は化ける。
復讐という舞台で、大女優になる素質がある。
「決まりだ。……作戦決行は3日後。コードネームは『クモの巣』」
井上はグラスを掲げた。
「獲物は西園寺猛。……狩りの時間だ」
『乾杯!』
再びグラスが触れ合う音が響いた。
その時、テーブルの下から「ニャ〜ン」という甘えた声がした。
ハイだ。
桃子の膝から降りて、今度は優香の足元に擦り寄っている。
優香が抱き上げると、ハイは彼女の胸元に顔を埋め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「……ふふっ。この子、あったかい」
優香の強張っていた表情が、ふわりと緩んだ。
小さな命の温もりが、彼女の緊張を解きほぐしていく。
「あーあ、ハイったら。可愛い子には弱いのね」
舞永が笑い、桃子も「オス猫ねぇ」と呆れている。
殺伐とした作戦会議の中に流れる、一瞬の穏やかな時間。
この奇妙なアジトは、傷ついた者たちが身を寄せ合う、束の間の聖域なのかもしれない。
井上は窓の外を見た。
東京の夜景。
その光の彼方で、西園寺猛は今頃、優雅なディナーを楽しんでいることだろう。
それが「最後の晩餐」になるとも知らずに。
「……味わっておけよ、猛」
井上は最後のワインを飲み干した。
血のような赤ワインの味が、喉の奥で熱く燃え上がった。




