第21話 籠の中の女優
アマン東京の朝は、カリカリ、カリカリという小気味良い音で始まった。
リビングの床に置かれた陶器の皿。
そこに顔を突っ込んでいるのは、仔猫のハイだ。
井上が取り寄せた、最高級のプレミアムキャットフード。
新鮮なサーモンとチキンを主原料とし、合成保存料を一切使用していない、人間が食べるものより高価かもしれない代物だ。
ハイは一心不乱に食べている。
小さな口を精一杯開け、粒を噛み砕く。
そして、食べることに夢中になりながらも、その喉からは「ゴロゴロゴロ……」という重低音のエンジン音が漏れ出している。
美味しい。嬉しい。幸せだ。
全身でそう表現しながら、尻尾をピンと立てて食事を楽しんでいる。
「……いい食いっぷりだ」
井上健太郎は、コーヒーカップを片手にその姿を見下ろしていた。
拾った当時はガリガリに痩せていた体も、今ではふっくらとし、毛並みもシルバーのビロードのように艶やかだ。
ハイが満足げに顔を上げ、口の周りについた食べカスをペロリと舐める。
そして井上を見つめ、「ミャウ!」と一鳴きした。
「ごちそうさま、美味かったぞ」と言っているようだ。
「食ったら寝ろ。……俺たちは仕事だ」
井上はハイの頭をひと撫でし、デスクに向かった。
そこには、新たなチームメンバーである斎藤冴子が、すでにスタンバイしていた。
彼女はMacBookを開き、深刻な表情で画面を見つめている。
「……井上さん。例の『林 優香』だけど」
冴子が口を開いた。
その声は、ジャーナリストとしての鋭さを帯びている。
「状況は思ったより最悪よ。……彼女、もう『詰んで』るわ」
モニターに映し出されたのは、一人の女性の写真と、興信所の報告書のようなデータだった。
林 優香。21歳。
写真の中の彼女は、透き通るような白い肌と神秘的な瞳を持っていた。
だが、その表情はどこか暗く、怯えているように見える。
「以前、心ちゃんがハッキングで見つけた通り、彼女は西園寺猛の愛人だった。猛からの手切れ金で借金を返すはずだったけど……その金、全部消えてるの」
「消えた? ギャンブルか?」
「いいえ。……『搾取』よ」
冴子はキーを叩き、別の画像を表示した。
強面の男の写真だ。
「彼女が所属している芸能事務所『アッシュ・プロモーション』。社長の権藤という男、元は広域暴力団の準構成員よ。優香の借金を肩代わりする名目で彼女を縛り付け、猛からの手切れ金も『違約金』やら『レッスン料』やらで全額巻き上げているわ」
「……典型的な奴隷契約か」
井上は冷ややかに呟いた。
芸能界の闇。夢を見る少女たちを食い物にする、ありふれた地獄の構図だ。
「それだけじゃないわ」
冴子の声が低くなった。
「権藤は今、優香を『次のパトロン』に売り渡そうとしている。……今夜、六本木の会員制クラブで接待があるわ。相手は、海外の投資家を名乗る正体不明の男たち。おそらく、人身売買に近い取引になるはずよ」
井上の目が光った。
人身売買。
そこまで堕ちれば、彼女は二度と表の世界には戻れない。証言台に立つことなど不可能になる。
「……時間がないな」
井上は立ち上がった。
ソファでナイフを磨いていた森舞永が、弾かれたように顔を上げる。
「出番? ボス」
「ああ。……『商品』が出荷される前に、横取りする」
井上はジャケットを羽織り、冴子を見た。
「冴子、お前は裏で待機してろ。万が一、警察沙汰になった時のために、マスコミ対応の準備をしておけ」
「了解。……気をつけてね。相手は半グレ上がりの武闘派よ」
「問題ない。……こっちには『狂犬』がいる」
井上は舞永に視線を送った。
舞永はニヤリと笑い、舌なめずりをした。
「散歩の時間ね。……首輪、外してくれる?」
東京・世田谷区。
築40年は経とうかという、古い木造アパートの一室。
カーテンの閉め切られた薄暗い部屋で、林優香は膝を抱えて震えていた。
携帯電話が鳴り続けている。
画面に表示されているのは『社長』の文字。
出なければ、またアパートまで押しかけてくるだろう。ドアを蹴り、怒鳴り散らし、髪を掴んで引きずり回される。
「……いや……」
優香は耳を塞いだ。
もう、限界だった。
女優になりたかった。スクリーンの中で輝く誰かになりたかった。
その一心で田舎から出てきたのに、待っていたのは借金と、汚い男たちの相手をさせられる日々。
西園寺猛という金持ちに囲われていた時は、まだマシだった。彼は暴力的で変態的だったが、金払いは良かったからだ。
だが、彼に捨てられた今、優香に残されたのは膨大な借金と、骨の髄までしゃぶり尽くそうとする事務所の社長だけだった。
『……おい優香、いるんだろ? 開けろよ』
ドンドンドン!
ドアを叩く音。心臓が止まりそうになる。
来てしまった。
「ひっ……」
『今夜の仕事、分かってるよな? 逃げたらどうなるか、田舎の親に電話してもいいんだぞ?』
親。
その言葉が、優香の心を縛り付ける鎖だった。
貧しい実家に迷惑をかけるわけにはいかない。
優香はふらつく足で立ち上がり、ドアへと向かった。
もう、逃げ場はない。
言われるがままに体を売り、魂を削り、ボロボロになって死んでいくしかないのだ。
ガチャリ。
鍵を開けると、ドアが乱暴に開かれた。
そこに立っていたのは、脂ぎった顔の社長・権藤と、その手下の男たちだった。
「チッ、手間かけさせやがって。……さっさと支度しろ。お客様がお待ちだ」
権藤は優香の腕を掴み、無理やり外へと引きずり出した。
アパートの廊下には、黒いワンボックスカーが待機している。
地獄への護送車だ。
「……離して! 自分で歩くわよ!」
優香は必死に抵抗したが、男たちの力には敵わない。
車に押し込まれそうになった、その時だった。
キキーッ!
鋭いスキール音と共に、一台の銀色の高級車が路地に滑り込んできた。
マイバッハ S680。
場違いなほどの威圧感を放つ車体が、ワンボックスカーの進路を塞ぐように停車した。
「あぁ? なんだテメェら」
権藤が睨みつける。
運転席のドアが開き、金髪の美女が降りてきた。
森舞永だ。
黒のレザージャケットにサングラス。手にはバールのような鉄の棒を持っている。
「ここ、一方通行よ? ……どいてくれる?」
舞永は挑発的に笑い、鉄棒でマイバッハのボンネットを軽く叩いた(井上が見たら悲鳴を上げそうな行為だが)。
「ふざけんな! どくのはそっちだ! 殺すぞアマ!」
権藤の手下たちが色めき立つ。
その隙に、マイバッハの後部座席から、一人の男が降り立った。
井上健太郎。
ダークネイビーのスーツを完璧に着こなし、その美貌は夕暮れの路地裏を一瞬で映画のセットに変えてしまうほどのオーラを放っている。
「……騒々しいな」
井上は懐からタバコを取り出し、火をつけた。
その視線は、権藤たちではなく、車に押し込まれそうになっている優香に向けられていた。
「そこの彼女。……少し、話があるんだが」
優香は呆然と井上を見つめた。
まるで王子様のような登場。
だが、その目は優しくなかった。
冷たく、計算高く、そしてどこか悲しい色をした瞳。
「な、なんだお前は! 邪魔すんじゃねえ!」
権藤が怒鳴り、井上に掴みかかろうとした。
だが、その手は空を切った。
舞永が間に割って入り、権藤の腕を掴んで捻り上げたからだ。
「おっと。……私のボスに触らないでくれる? その脂、スーツに付くと落ちないのよ」
ボキッ。
嫌な音がした。
権藤が悲鳴を上げる。
「ぎゃあぁぁぁ! お、折れた!?」
「社長!」
手下たちが一斉に舞永に襲いかかる。
だが、それは自殺行為だった。
舞永は鉄棒を一閃させ、先頭の男の膝を砕いた。
返す刀で次の男の顎をカチ上げ、回し蹴りで三人目を車に叩きつける。
舞うような暴力。
圧倒的な戦闘力の差。
わずか十数秒。
路地裏には、呻き声を上げて転がる男たちの山が出来上がっていた。
立っているのは、井上と舞永、そして震える優香だけだ。
「……さて」
井上はタバコを捨て、革靴で踏み消した。
そして、優香の前に歩み寄った。
「林 優香さんだな」
「……は、はい」
「君を買いに来た」
井上は単刀直入に言った。
その言葉に、優香の顔から血の気が引いた。
買いに来た。
結局、この男も権藤と同じなのか。
金で自分を買い、好きにするつもりなのか。
「……いくらですか?」
優香は自嘲気味に笑った。
絶望が、彼女の心を塗り潰していく。
「私の値段。……安くないですよ? 借金も、事務所の違約金もありますから」
「全部で5000万といったところか」
井上は懐から小切手帳を取り出し、サラサラとペンを走らせた。
そして、それを優香ではなく、倒れて呻いている権藤の顔面に放り投げた。
「6000万だ。……これで彼女の借金と契約、全てをチャラにしろ。釣りはいらん」
権藤は震える手で小切手を拾い上げ、金額を見て目を見開いた。
本物だ。銀行の保証小切手。
「……も、持ってけ! こんな疫病神!」
権藤は捨て台詞を吐き、手下たちに肩を貸させて逃げるように去っていった。
路地裏に、静寂が戻る。
「……これで、君は自由だ」
井上は優香に向き直った。
「自由……?」
優香は信じられないという顔で井上を見た。
6000万もの大金を、見ず知らずの男が払ってくれた。
なぜ? 何の目的で?
「タダじゃないぞ」
井上は冷たく告げた。
「君には働いてもらう。……俺のために」
「……やっぱり。身体ですか?」
優香は諦めたように服のボタンに手をかけた。
どうせ、逃げられない。
この美貌の男になら、権藤の客よりはマシかもしれない。
「違う」
井上は優香の手を止めた。
その指先は冷たかったが、乱暴ではなかった。
「俺が欲しいのは、君の身体じゃない。……君の『演技力』だ」
「え……?」
「君は女優になりたかったんだろう? なら、俺が最高の舞台を用意してやる」
井上は一歩近づき、優香の耳元で囁いた。
「主演女優賞モノの演技で、ある男を地獄に落としてほしい。……西園寺猛を」
猛。
その名前を聞いた瞬間、優香の目に憎悪の火が灯った。
自分を玩具にし、捨てた男。
今の悲惨な状況を作った元凶。
「……復讐、ですか?」
「そうだ。奴に復讐したいか?」
優香は拳を握りしめた。
したい。殺してやりたいほど憎い。
でも、自分には力がない。
「私に……できるんですか?」
「できる。俺たちが全力でサポートする」
井上は舞永を示した。
舞永はサングラスをずらし、ウインクをして見せた。
「シナリオは俺が書く。演出はプロがやる。……君はただ、悲劇のヒロインを演じきればいい」
井上は手を差し出した。
それは、地獄への誘いか、それとも天国への階段か。
「乗るか、そるか。……決めるのは君だ」
優香は井上の瞳を見つめた。
そこには、底知れない闇と、同じ種類の「傷」が見えた気がした。
この人は、私と同じだ。
誰かに踏みにじられ、それでも立ち上がろうとしている。
「……やります」
優香はその手を取った。
冷たい手。でも、力強い手。
「私の演技で、あの男を地獄に落とせるなら……魂だって売ります」
「交渉成立だ」
井上は口角を上げた。
これで、最後のカードが手に入った。
「行くぞ。……まずはその汚れた服を着替えろ。これからは、君は俺の秘蔵の『女優』だ」
井上はエスコートするように優香を車へと促した。
籠の中から解き放たれた小鳥は、今、猛禽類の翼を手に入れたのだ。
マイバッハが走り去る。
その車内で、井上の復讐劇の第二幕が、静かに幕を開けようとしていた。




