第20話 嗅ぎ回る女豹
アマン東京のスイートルームは、今日もまた、常軌を逸した香りに支配されていた。
それは、森の奥深くで精霊が醸造した秘薬のような、濃厚で野性的な甘い香りだった。
井上健太郎は、キッチンで寸胴鍋を見つめ続けていた。
鍋の中で静かに沸騰しているのは、無色透明に近い液体だ。
だが、煮詰まるにつれて、徐々に琥珀色へと色づき始めている。
『メープルシロップ』。
市販品ではない。
井上がカナダ・ケベック州の知人から空輸させた、サトウカエデの樹液、20リットル。
これをひたすら煮詰め、水分を飛ばし、わずか500ミリリットルのシロップへと精製する。
40分の1にまで凝縮された、純度100%の森の血液。
「……温度管理が全てだ」
井上はデジタル温度計を鍋に差し込んだ。
104度。
この温度帯をキープし続けなければ、独特の香ばしい風味は生まれない。高すぎれば焦げ、低すぎれば水っぽい。
数時間の間、片時も目を離さず、アクを取り続け、糖度計でブリックス値を監視する。
狂気じみた忍耐力。
「ボス……部屋中が甘ったるくて、私まで砂糖漬けになりそうなんだけど」
リビングのソファで、森舞永が気だるげに雑誌をめくっていた。
足元では仔猫のハイが、甘い空気に酔ったのか、腹を出して爆睡している。
デスクでは木村心が、甘い匂いを糖分補給代わりにしながらキーボードを叩いている。
「文句を言うな。……完成だ」
井上は火を止めた。
鍋底に残ったのは、輝くような黄金色の液体。
熱いうちに濾過し、クリスタルのデキャンタに移す。
とろりとした粘度。光にかざすと、琥珀の中に森の景色が見えるようだ。
井上はそれを冷ますことなく、熱々のままスプーンに掬った。
そして、傍らに用意したグラスに手を伸ばす。
注がれているのは、立ち昇る泡が美しいシャンパン。
『クリュッグ・グランド・キュヴェ』。
シャンパンの帝王と呼ばれる、複雑で力強い味わいの逸品だ。
熱いシロップと、冷たいシャンパン。
極上の甘みと、辛口の酸味。
「……いただきます」
井上はシロップを口に含んだ。
瞬間、脳髄が痺れるような強烈な甘みが広がる。
ただ甘いだけではない。カラメルのようなほろ苦さ、木の香り、そして大地が吸い上げたミネラルの旨味。
40倍に濃縮された生命の味が、舌の上で爆発する。
そこに、冷えたクリュッグを流し込む。
シュワワ……と弾ける泡が、口の中に張り付いた糖分を洗い流し、香ばしい余韻だけを残して喉を駆け下りる。
熟成されたシャンパンの酸味が、シロップの野性味と絡み合い、エレガントなハーモニーを奏でる。
(……悪くない)
井上は息をついた。
甘い蜜と、刺激的な泡。
それはまるで、これから会う女との駆け引きを予感させる味だった。
ピンポーン。
タイミングを計ったように、インターホンが鳴った。
「……お出ましだ」
井上はナプキンで口を拭い、舞永に目配せした。
舞永は雑誌を置き、瞬時に臨戦態勢に入る。
心もモニターの画面を切り替え、監視カメラの映像を映し出した。
モニターに映っていたのは、一人の女性だった。
年齢は20代半ば。
意志の強さを感じさせる太い眉と、大きな瞳。知的でクラシカルな美貌。
深紅のルージュを引き、モノトーンのパンツスーツに身を包んだ姿は、都会のジャングルを闊歩する女豹そのものだ。
斎藤 冴子。25歳。
フリージャーナリスト。
先日のパーティー会場で、遠巻きに井上を観察していた視線に、井上は気づいていた。
「……開けろ」
舞永がドアを開ける。
冴子は躊躇することなく、カツカツとヒールを鳴らして入ってきた。
その手にはボイスレコーダーと、一冊のファイルが握られている。
「ごきげんよう、井上健太郎さん。……いえ、『名無し』さんと言った方がいいかしら?」
開口一番、挑発的な言葉が飛んできた。
冴子はリビングを見渡し、舞永と心、そして眠るハイを一瞥すると、最後に井上を射抜くように見据えた。
「随分と甘い匂いがしますね。……悪い事をして稼いだ金で舐める蜜の味は、さぞかし格別でしょう?」
「……ただの料理だよ。君も舐めるか?」
井上は動じることなく、スプーンに残ったシロップを指差した。
「遠慮しておくわ。毒が入ってそうだから」
冴子はソファの対面に座り、ファイルをテーブルに叩きつけた。
「単刀直入に聞くわ。……あなた、何者?」
「投資家だ。名刺も渡したはずだが」
「調べたわよ。K.I.ホールディングス。登記はタックスヘイブンのケイマン諸島。代表者の経歴は不明。……そしてあなた自身も」
冴子はファイルをめくった。
そこには、井上の現在の写真と、空欄だらけの経歴書があった。
「井上健太郎、30歳。……パスポートの発行日は先月。それ以前の記録が一切ない。戸籍も、住民票も、卒業アルバムも。まるで先月、突然この世に湧いて出た幽霊みたいね」
優秀だ。
毒島の工作は完璧に近いが、それでも「痕跡がなさすぎる」こと自体が、鋭い記者にとっては最大の違和感となる。
「……それで?」
「帝都グループの株を買い集めているわね。しかも、かなり強引な手口で。……何が狙い? マネーゲーム? それとも個人的な恨み?」
冴子は身を乗り出した。
その瞳には、真実を暴こうとするジャーナリストの熱と、権力に対する激しい敵意が宿っていた。
「私はね、帝都グループが大嫌いなの。あいつらは表向きはクリーンな顔をして、裏では下請けを叩き、労働者を使い捨てにし、メディアを買収して真実を握りつぶしている」
彼女の言葉に、私怨に近い響きがあった。
かつて大手新聞社にいた彼女は、帝都の不正を暴こうとして圧力をかけられ、記事を握りつぶされた過去がある。
「あなたが帝都を食い物にしようとしているなら、それはそれで構わない。……でも、もしあなたが帝都と組んで、また何か汚いことをしようとしているなら」
冴子はボイスレコーダーを突きつけた。
「私がその化けの皮を剥いでやる。……この『正体不明の投資家』の不審な点を記事にして、世界中にばら撒いてあげるわ」
脅迫だ。
だが、井上は口角を上げた。
待っていたのは、その言葉だ。
「……面白い」
井上は立ち上がり、キッチンへ向かった。
新しいグラスを取り出し、クリュッグを注ぐ。
そして、デキャンタから黄金色のメープルシロップをたっぷりと垂らした。
即席のカクテル。
「飲め。毒は入っていない」
井上はグラスを冴子の前に置いた。
冴子は怪訝そうに眉をひそめたが、井上の圧力に負けたのか、一口だけ口をつけた。
「……っ! 甘っ……」
「甘いだろう。……だが、その奥に苦味がある」
井上は自分のグラスを揺らした。
「君は優秀な記者だ。だが、ターゲットを間違えている」
「……どういう意味?」
「俺は帝都と組むつもりはない。……燃やすつもりだ」
井上は心に合図を送った。
心がキーボードを叩くと、リビングの大型モニターに映像が映し出された。
それは、昨日手に入れた猛の「裏帳簿」と、過去の建設事故の隠蔽を示す「誓約書」のデータだった。
「な……これ、は……!」
冴子が絶句した。
彼女がかつて追いかけ、握りつぶされたネタの、さらに深い核心部分だ。
「俺はこれを使って、帝都グループを解体する。西園寺家を社会的に抹殺し、路頭に迷わせる。……それが俺の目的だ」
井上の声から、演技の色が消えた。
そこに在るのは、純粋で、冷徹な復讐者の魂。
「君が求めているのはスクープか? それとも正義か?」
「……両方よ」
「なら、俺と組め」
井上は手を差し出した。
「ネタは俺が提供する。資金も出す。君のペンで、世論を煽り、奴らを追い詰めろ。……俺が用意した薪に、君が火をつけるんだ」
悪魔の誘い。
だが、冴子にとってそれは、長年待ち望んだ復讐のチャンスでもあった。
彼女はモニターのデータと、井上の顔を交互に見た。
そして、グラスに残った甘いシャンパンを一気に飲み干した。
「……いいわ」
冴子は不敵に笑った。
その笑顔は、正義の記者のものではなく、獲物を見つけた女豹のものだった。
「乗ってあげる。……ただし、私のペンは誰にも媚びないわよ? あなたが道を誤ったら、その時はあなたごと燃やしてあげる」
「望むところだ」
井上と冴子の視線がぶつかり合い、火花を散らした。
契約成立。
最強の広報参謀を手に入れた。
「さて、仕事の話をしようか。……まずはこの記事を、一番効果的なタイミングでリークしてほしい」
井上はモニターを指差した。
そこには、義兄・猛の顔写真と、『薬物疑惑』の見出しが踊っていた。
「お安い御用よ。……見出しは『財閥の没落』じゃ弱いですね。『強欲な御曹司、その醜悪な晩餐』……これくらい煽らないと、大衆はクリックしませんよ」
冴子はすでにPCを取り出し、記事の構成を練り始めていた。
その横顔は生き生きとしていて、美しい。
井上はデキャンタのメープルシロップを見つめた。
長い時間をかけて煮詰め、不純物を取り除き、純粋な甘みだけを抽出した液体。
復讐も同じだ。
余計な感情を捨て、時間をかけ、純度を高めた殺意だけが、相手を確実に殺す毒になる。
「……楽しみだな」
井上は呟き、シャンパンを煽った。
甘美な復讐の味。
それは、最高級のメープルシロップよりも、さらに濃厚で、中毒性のある味がした。




