第19話:氷の弁護士
アマン東京のスイートルームは、今日も異様な熱気に包まれていた。
リビングの一角、窓際に設置されたデスクでは、木村心が3台のモニターに囲まれ、凄まじい速度でキーボードを叩いている。
画面には西園寺家のサーバーから吸い上げられたデータが滝のように流れ、時折「ビンゴ」という彼女の呟きが漏れる。
ソファでは森舞永がナイフの手入れをしながら、足元の仔猫・ハイに話しかけている。
「いい? 敵が来たらこうやって喉を噛み切るのよ」
英才教育だ。ハイは分かっているのかいないのか、「ミャウ」と暢気に鳴いてナイフの柄にじゃれついている。
そして、キッチン。
井上健太郎は、まるで外科手術を行うような集中力で、まな板の上の物体と対峙していた。
『あん肝』。
海のフォアグラとも呼ばれる、アンコウの肝臓だ。
豊洲市場の馴染みの仲卸から手に入れた、重さ500グラムを超える特大の国産品。鮮やかなオレンジ色が、鮮度の良さを物語っている。
「……血管処理が命だ」
井上は極細の竹串を使い、肝の中に入り組んでいる血管を一本一本、丁寧に取り除いていく。
この作業を怠ると、生臭さが残り、味が濁る。
薄皮を剥ぎ、血合いを流水で洗い流す。
神経質すぎるほどの手順。だが、この徹底的な下処理こそが、極上の味を生むための唯一の道だ。
水気を拭き取り、たっぷりの日本酒と塩をまぶして30分置く。
臭みを抜き、旨味を凝縮させる。
その後、アルミホイルで円筒形に成形し、蒸し器へ。
弱火でじっくりと蒸し上げること40分。
キッチンに、濃厚でクリーミーな香りが漂い始めた。
「……ボス、今日は居酒屋メニュー?」
鼻を利かせた舞永がやってきた。
井上は蒸し上がったあん肝を取り出し、少し冷ましてから包丁を入れた。
刃にねっとりと吸い付くような感触。
断面は均一な淡いピンク色で、脂が光っている。
皿に盛り付ける。
通常ならポン酢ともみじおろしを添えるところだが、今日の井上の趣向は違った。
添えたのは、岩塩とブラックペッパーのみ。
そして、グラスに用意したのは日本酒ではなかった。
琥珀色の液体と、白いクリームが混ざり合った、とろりとしたリキュール。
『ベイリーズ・オリジナル・アイリッシュ・クリーム』。
アイリッシュ・ウイスキーにフレッシュクリーム、カカオ、バニラをブレンドした、濃厚な甘みを持つ酒だ。
それをロックグラスに注ぎ、大きな氷を浮かべる。
「えっ……嘘でしょ? あん肝に甘いリキュール?」
舞永が顔をしかめた。
当然の反応だ。常識的に考えれば、最悪の組み合わせに見える。
「試してみろ。……常識を疑うことから、新しい世界は開ける」
井上はあん肝を一切れ、口に運んだ。
舌の上に乗せた瞬間、体温で脂が溶け出す。
濃厚なコク。海のミルクのような深遠な旨味。
そこに、ベイリーズを流し込む。
冷たく甘いクリームが、あん肝の脂を包み込む。
ウイスキーの芳醇な香りとカカオの苦味が、あん肝の生臭さを完全に消し去り、そのクリーミーさだけを極限まで増幅させる。
口の中で、二つの濃厚な要素が溶け合い、背徳的なまでの官能的な味が完成する。
フォアグラに貴腐ワインを合わせるマリアージュに近いが、それよりももっと野性的で、暴力的だ。
「……っ! 何これ、ヤバい!」
恐る恐る口にした舞永が目を見開いた。
「甘いのに、合う! あん肝がチーズケーキみたいに感じるわ!」
「脂と糖とアルコール。……脳が拒絶できない快楽物質の塊だ」
井上はグラスを揺らした。
この歪な組み合わせこそが、今の自分たち――復讐のために集まった異端者たちの象徴のようにも思えた。
その時、インターホンが鳴った。
フロントからの来客の知らせではない。直接、部屋の前に誰かが来ている。
「……来たか」
井上はナプキンで口を拭い、表情を引き締めた。
舞永が瞬時にナイフを隠し持ち、ドアの横に張り付く。心もヘッドフォンをずらし、様子を窺う。
井上がドアを開けた。
そこに立っていたのは、見上げるような長身の女だった。
清水 南。26歳。
身長178センチ。さらに10センチはあろうかというピンヒールを履いているため、180センチ後半の井上と目線がほぼ同じ高さにある。
モデルのようなスレンダーな体躯を、仕立ての良いピンストライプのパンツスーツで包んでいる。
その顔立ちは、タムシン・エガートンを彷彿とさせる、冷ややかでゴージャスな美貌。
手にはアタッシュケース。その立ち姿からは、一切の隙も感情も感じられない。
「……井上健太郎さんですね」
声もまた、氷のように冷たかった。
抑揚がなく、事務的。だが、相手を威圧する響きがある。
「お待ちしていました、清水先生。……どうぞ」
井上が招き入れると、南は無言で部屋に入り、リビングを見渡した。
散乱したPC機材、ナイフを持つ美女、ソファの上の猫。
そしてテーブルの上のあん肝とベイリーズ。
普通の弁護士なら眉をひそめるようなカオスな空間だが、彼女は表情一つ変えなかった。
「……異様なオフィスですね。投資ファンドというよりは、犯罪組織のアジトに見えますが」
「否定はしません。……お掛けください」
井上はソファを勧めたが、南は座ろうとしなかった。
「用件を伺います。毒島さんから『面白い依頼がある』と聞きましたが、私は忙しいのです。くだらない案件なら、着手金だけ頂いて帰ります」
「……くだらないかどうかは、貴女が決めてください」
井上は単刀直入に切り出した。
「ある男を、法的に殺したいのです」
「法的に殺す?」
「ええ。社会的信用を失墜させ、資産を凍結し、身ぐるみ剥いで路頭に迷わせる。……そのための『完璧な契約書』を作っていただきたい」
南は鼻で笑った。
「復讐ですか。陳腐ですね。……そんな依頼なら、街の三流弁護士にでも頼めばいいでしょう。私は企業法務が専門です」
「相手は、西園寺猛です」
井上が名前を出した瞬間、南の動きが止まった。
彼女の瞳の奥で、鋭い光が明滅した。
嫌悪、侮蔑、そして微かな殺意。
「……帝都グループの、次期社長ですね」
「ええ。貴女が以前所属していた事務所で、担当していたクライアントだ」
井上は一歩踏み込んだ。
南の過去。
彼女が大手法律事務所を辞めた理由。それは表向きは「依願退職」だが、実態は違う。
クライアントである猛からセクハラを受け、その反撃として猛の指をへし折ったことで、事実上の解雇処分を受けたのだ。
「貴女は彼に因縁がある。……指一本では、気が済まなかったのでは?」
南はゆっくりと井上の方を向いた。
その美貌が、能面のような無表情から、冷酷な捕食者のそれへと変化していく。
「……どこまでご存知なのですか?」
「全てです。……私は彼を破滅させるための『材料』を持っています。過去の建設事故の隠蔽証拠、裏金、薬物……」
井上は心の方へ目配せした。心がPCの画面を操作し、猛の「黒い履歴」をモニターに映し出す。
「ですが、これらをただばら撒くだけでは面白くない。……彼自身の手で、自分の破滅にサインさせたいのです。絶対に逃れられない、悪魔の契約書に」
南はモニターの文字を追い、次にテーブルの上のあん肝に視線を落とした。
そして、ふっと小さく息を吐いた。
「……悪趣味な男」
彼女はようやくソファに腰を下ろした。
その足――長い脚が組まれる様は、それだけで一つの凶器のように美しかった。
「いいでしょう。話を聞きます。……ただし」
南はテーブルの上のグラスを指差した。
「そのお酒、私にもいただけますか? ……なんだか、妙に喉が渇く話ですので」
井上は口角を上げた。
交渉成立の合図だ。
「喜んで」
井上は新しいグラスに氷を入れ、ベイリーズを注いだ。
南はそれを受け取り、一口含むと、あん肝を一切れ口に運んだ。
目を閉じ、味わう。
そして目を開けた時、その瞳には共犯者の色が宿っていた。
「……美味しいですね。常識外れで、下品で、最高に背徳的な味がします」
「我々の計画に相応しい味でしょう?」
「ええ。……では、始めましょうか」
南はアタッシュケースを開け、ノートPCを取り出した。
その指がキーボードの上を走る。
「西園寺猛という男は、強欲ですが慎重さに欠けます。特に『自分だけが得をする』という話には、疑うことなく飛びつく習性がある。……そこを突きましょう」
南の口調は、早口で論理的で、そして残酷だった。
「リゾート開発の損失補填に見せかけた、資産譲渡契約。あるいは、架空の投資案件による債務保証。……条項の第12条と第45条に、致命的なトリガー(特約)を仕込みます。一見すると彼に有利に見えますが、ある条件――例えば『株価の暴落』や『不祥事の発覚』――を満たした瞬間、全ての資産が貴方のものになるように」
それは魔法のような手際だった。
法律という名のパズルを組み替え、絶対的な拘束力を持つ鎖を編み上げていく。
心が情報を集め、南(弁護士)が檻を作る。
「……完成しました。これを彼にサインさせれば、彼はもう貴方の奴隷も同然です」
わずか30分後。
南は完成した契約書のデータを井上に送信した。
井上はその内容を確認し、戦慄した。
完璧だ。
法的瑕疵など微塵もなく、それでいて一度サインすれば二度と這い上がれない地獄への片道切符。
「素晴らしい。……報酬は?」
「成功報酬で結構です。帝都グループから毟り取った金額の20%。……それと」
南はグラスに残ったベイリーズを飲み干し、立ち上がった。
「彼が破滅して、泣き叫ぶ顔。……それを一番近くで見せてください。それが私の最大の報酬です」
井上は南に手を差し出した。
「契約成立だ。……ようこそ、チームへ」
南はその手を握り返さず、ただ冷ややかに一礼した。
「握手は結構です。……私は貴方の仲間になったわけではありません。利害が一致した共闘関係、それだけです」
そう言い残し、彼女は踵を返した。
ピンヒールの音が、カツン、カツンと響く。
ドアが閉まる直前、彼女は一度だけ振り返り、ハイの方を見た。
「……ちなみに、猫は好きですよ」
それだけ言い残し、氷の弁護士は去っていった。
「……ふぅ。すごい威圧感」
舞永が大きく息を吐き出した。
「あんな女と喧嘩したら、口喧嘩で殺されそうね」
「ああ。だが、これ以上ないほど頼もしい武器だ」
井上はモニターに映し出された契約書を見つめた。
『投資契約書』というタイトルの下に隠された、死刑執行命令書。
舞台は整った。
証拠、武力、そして法(契約書)。
あとは、この餌を猛の目の前にぶら下げるだけだ。
「……食えよ、猛」
井上は残ったあん肝を口に放り込み、甘い酒で流し込んだ。
口の中に広がる背徳的な味が、復讐の甘美な予感を加速させる。
「骨までしゃぶり尽くしてやる」




