第14話 二つの顔を持つメイド
帝都ホテルのバックヤード。
表の華やかなパーティー会場とは打って変わり、そこは無機質なコンクリートと搬入用の段ボールが積まれた、冷たい空間だった。
井上健太郎と森舞永は、物陰に身を潜めていた。
視線の先には、重厚な扉がある。VIP専用の控え室だ。
先ほど、西園寺猛が裏社会の人間と思しき男たちを連れて入っていった部屋だ。
「……ボス、どうする? 突入して暴れる?」
舞永が嬉々としてナイフを弄んでいる。
井上は首を横に振った。
「いや。今の目的は証拠の確保だ。……だが、セキュリティが堅いな」
扉の前には、屈強なSPが二人立っている。
さらに廊下の天井には監視カメラ。
近づけば即座に見つかる。
その時だった。
カツ、カツ、カツ。
静かな廊下に、リズムの良いヒールの音が響いた。
現れたのは、一人のメイドだった。
帝都ホテルの制服ではない。クラシカルな黒のロングスカートに、純白のエプロン。
髪は一分の隙もなくシニヨンにまとめられ、背筋はピアノ線で吊られているかのように伸びている。
手には、銀色のトレイに乗ったクリスタルボトルのミネラルウォーターを持っていた。
SPたちが彼女を止める。
「おい、何だお前は」
「西園寺猛様より、お水のご要望を承りました」
メイドは深く頭を下げた。その所作は、芸術的なまでに洗練されていた。
声は鈴を転がすように美しく、しかし徹底的に感情が削ぎ落とされている。
「聞いてないぞ」
「急なご用命でしたので。……中のお客様もお待ちです」
彼女は顔を上げた。
時代劇画から抜け出してきたようなクラシックな美貌。
その瞳が、SPの一人を射抜くように見つめた。
慈愛に満ちているようで、どこか背筋が寒くなるような冷たさを秘めた眼差し。
「……チッ、通れ。さっさと出てこいよ」
SPは気圧されたように道を空けた。
メイドは「失礼いたします」と一礼し、部屋の中へと消えていった。
数分後。
部屋の中から、ガシャン! というガラスの割れる音と、猛の怒号が聞こえた。
「何やってんだこの役立たずが!」
SPたちが慌てて中を覗き込む。
その隙だった。
井上と舞永は音もなく移動し、死角となっていた通気口の隙間に、超小型の集音マイクを滑り込ませた。
設置完了。撤収。
再び廊下の陰に戻った時、メイドが部屋から出てきた。
足元には水の染みがあり、少し乱暴に追い出されたようだった。
だが、彼女は表情一つ変えていなかった。
SPたちに一礼し、廊下を歩き去る。
すれ違いざま。
彼女は井上たちが潜んでいる物陰の方へ、一瞬だけ視線を流した。
そして、誰にも気づかれないほどの微かな動作で、ウインクをした。
冷徹な能面に、一瞬だけ浮かんだ悪戯な笑み。
「……今の女、何?」
舞永が目を丸くする。
井上は口元を歪めた。
「俺の『目』だ」
深夜2時。アマン東京。
パーティーから戻った井上は、タキシードを脱ぎ捨て、リラックスウェアに着替えてソファに座っていた。
その手には、天然鳥の羽を使った高級な猫じゃらしが握られている。
「……行くぞ、ハイ」
井上が軽く手首を返すと、先端についた鮮やかな青い羽根が、生き物のように空を舞った。
ソファの陰から、灰色の小さな影が飛び出した。
仔猫のハイだ。
拾った時の弱々しさはどこへやら、今の彼は立派なハンターの目をしていた。
黒目がまん丸に拡大し、獲物をロックオンしている。
「ミャッ!」
ハイは低い姿勢で身構え、お尻をプリプリと小刻みに振った。
発射準備完了の合図だ。
井上が羽根を床スレスレに滑らせると、ハイは銀色の弾丸となって突っ込んだ。
短い手足を目一杯伸ばしてのスライディング。
だが、井上は寸前で羽根を跳ね上げる。
「甘い」
ハイは勢い余ってクッションに激突し、コロンと一回転した。
だが、すぐに起き上がり、「ニャー!」と悔しそうに抗議の声を上げる。
その姿は、あまりにも勇猛で、そして致命的に愛らしかった。
「プッ……あはは! 何よこいつ、可愛いすぎでしょ」
バスローブ姿で髪を拭きながら出てきた舞永が、その光景を見て吹き出した。
彼女は冷蔵庫からビールを取り出し、ソファの背もたれに腰掛けた。
「ほら、頑張れチビちゃん! 捕まえないと晩飯抜きよ!」
「煽るな。こいつは真剣だ」
井上は真顔で言いながら、今度は羽根を宙高く舞い上げた。
ハイは後ろ足二本で立ち上がり、必死に前足をバタつかせる。
空中の獲物を掴もうとするその必死な表情に、井上の口元が緩む。
「……いい目だ。獲物を逃さない執着心がある」
「ボスの英才教育ってわけ? ま、飼い主に似てしつこそうだわ」
舞永がビールを煽った時、インターホンが鳴った。
「……来たか」
井上が羽根を置くと、ハイが素早くそれに飛びつき、ガシガシと噛みつき始めた。仕留めた獲物は離さないらしい。
舞永が警戒しつつドアを開ける。
入ってきたのは、先ほどのメイド――ではなかった。
背中の大きく開いた真紅のドレス。
髪を下ろし、豊かなウェーブヘアにしている。
メイクも華やかで、唇には鮮烈なルージュ。
先ほどの禁欲的なメイド姿とは正反対の、夜の蝶のような妖艶な美女がそこにいた。
池田茉莉。29歳。
井上が雇った、潜入工作員だ。
「お疲れ様です、旦那様。……あら」
茉莉はハイヒールを脱ぎ捨て、リビングに入ってくると、床で羽根と格闘しているハイに目を留めた。
「新しい同居人ですか? 随分と凶暴で愛らしいこと」
「……拾ったんだ。名前はハイ」
「ハイ様、ですか。初めまして」
茉莉はその場にしゃがみ込み、ドレスの裾も気にせずにハイに指を差し出した。
ハイは羽根を離し、クンクンと茉莉の指の匂いを嗅ぐと、ペロリと舐めた。
「あら、ご挨拶ができるいい子ですね。……西園寺家のバカ犬よりよほど賢そうですわ」
茉莉は妖艶に微笑み、立ち上がった。
その手にはいつの間にか、小さなUSBメモリが握られていた。
「着替えが早かったな」
「メイド服のままでは、ここのフロントを通してもらえませんから。……それに、オフの時間は私自身の皮を被りたいんです」
茉莉はカウンターにUSBメモリを滑らせた。
「猛様の部屋にあったPCからデータを抜きました。裏帳簿、愛人リスト、そして……例の『お薬』の取引ルートも」
「上出来だ」
「それと、奥様の薬の服用状況も確認しました。……かなり強い睡眠導入剤と、安定剤を常用されていますね。付け入る隙は十分にあります」
茉莉は微笑んだ。
それは、有能なメイドの顔でも、ハイを愛でる優しい女性の顔でもない。
他人の不幸を蜜の味とする、冷酷なスパイの顔だった。
「あんた、イイ性格してるわね」
舞永が感心したように言った。
「西園寺家って、使用人の給料いいんでしょ? 裏切っていいの?」
「給料? あら、私はお金のために働いているのではありませんのよ」
茉莉は冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、グラスに注いだ。
「私は『嘘』が好きなのです。完璧な嘘で塗り固められたあの家が、内側から腐り落ちていく様を……特等席で見たいだけ」
「……変態ね」
「最高の褒め言葉ですわ」
茉莉と舞永がグラスを合わせた。
武力と知略。ベクトルは違うが、どちらも井上の復讐劇を楽しむ共犯者たちだ。
井上はソファに座り直し、ハイを膝に乗せた。
ハイは遊び疲れたのか、井上の腿の上で丸くなり、喉を鳴らし始めている。
その小さな背中を撫でながら、井上は言った。
「……これで、外堀と内堀は埋まった」
猛の裏取引の証拠と、茉莉が持ち帰った内部データ。
これらを組み合わせれば、まずは猛を社会的に抹殺することができる。
「次のターゲットは猛だ。……茉莉、お前は引き続き邸内で猛の精神状態を監視しろ。追い詰められた人間は、必ずボロを出す」
「承知いたしました、旦那様。……あの方、最近少し情緒不安定ですから、背中を一押しすれば簡単に壊れますわよ」
「舞永、お前は猛が雇っているゴロツキ共をマークしろ。俺たちに手を出そうとした瞬間、指の一本でもへし折ってやれ」
「了解。……楽しみにしてるわ」
三人は乾杯した。
窓の外には、眠らない街・東京の夜景が広がっている。
その光の一つ一つが、西園寺家の燃え上がる炎のように見えた。
「……それにしても」
茉莉が膝の上のハイを見つめ、クスリと笑った。
「旦那様がこんなに可愛らしい猫じゃらし使いだとは思いませんでしたわ」
「……うるさい。教育だ」
「ふふ、そういうことにしておきましょう。……でも、狩りの本能を持っているのは、この子だけではないようですわね」
茉莉の視線が、井上の瞳に向けられた。
そこには、ハイが羽根を見つめる時と同じ、いや、それ以上に昏く、鋭い捕食者の光が宿っていた。
夜は更けていく。
二つの顔を持つメイドと、狂犬のようなボディーガード、そして顔を変えた復讐鬼。
足元には小さな猛獣。
奇妙な一味は、夜明けまで静かに爪を研ぎ続けた。




