脂は美味しい
「う、美味い!」
それが数十年ぶりに川魚の煮汁を飲んだ長耳族の感想だ。
樹上の住居では危ないので地面に簡易的な竈を作り、採ってきた魚を焼き、鍋で煮炊きをした。
最初は遠巻きに見ていた長耳族や、匂いに釣られて集まってきた避難民たちが人垣を作るのにさして時間はかからない。
「さぁ、魚が焼けたよ。遠慮せず食べるといい。ああ、長耳族の諸兄はこちらの煮汁からにしてくれ。固形物を食べてはいけない」
振舞い、口に入れれば表情が変わる。
当然だ、あんなマズイ植物の加工品とはまるで違う。
少し前、秘書からのお小言でもあったが、人間の舌は我が身が必要とするものを旨いと感じるようできているらしい。つまり、魚は彼らの体に必要だったことになる。
「あの川にまだムイックがいたなんて。それもこんなに大きい……」
長耳族たちは驚いた様子で顔を見合わせている。
川に魚がいることは知っている、のは当然か。だが、あれだけ魚影が濃かったのに取らなかったことはいささか疑問でもあった。
「君たちは魚を食べれるのかね?」
「勿論です。しかし、一〇〇年ほど前に採り尽くしてしまって、いなくなったと思っていました」
「採り尽くした? それはまた、どうして」
「ムナコイソという植物の根を細かく砕いて川に流すと魚が動けなくなって浮いてくるのです。一時期、カラムスが不作で魚ばかりを採っていたら、全くいなくなってしまって……」
「それからは川に近づかなかったわけか。それにしても、その植物とやらで採った魚を食べて大丈夫だったのかね?」
「ムナコイソは火を通せば大丈夫です。それにしても、久しぶりのムイックの味は格別です!」
「それは良かった。だが、まだ身は食べない方が良い。受け付けないことも考えられる」
「はい。ありがとうございます!」
落ち着いて食べるよう勧めれば、素直に応じてくれる。
疲れた体にタンパク質とアミノ酸という選択肢は正しかった。秘書の言うことも聞いておいてよかったと今なら思える。
「それにしても、だ」
ちらり、と後ろを見る。
そこには大鍋で麦粥を煮て、皆に配るサーシャの姿がある。
彼女の周りでは蕩けんばかりの顔で、口に運び、皿まで舐めるものがいる。
避難民ばかりではなく、長耳族まで、彼らが最も喜んだのはあの豚の脂だった。
「サーシャさん、これ凄く美味しいです!」
「こんな味があるなんて……!」
「私も喜んでいただけて私も嬉しいです!」
魚を手に入れ、麦を買い付け、施しを提案したのは私だ。
それなのに、一番喜んだのが豚の脂だというのが釈然としない。
「聖母さまもどうぞ!」
麦粥の入った椀を手渡され、サービスといわんばかりに脂を一すくい入れてくれる。立ち昇る湯気に混じるのは獣臭、ではない。
「どうぞ!」
「う、うん……」
一啜りする。
「!!」
甘い、それに旨い!
麦粥だけだとあんなに不味かったはずなのに、あんなに臭かったはずなのに、脂を入れただけで香ばしくも甘い極上品に変貌している。
「か、革命的だ!」
「美味しいですか?」
「み、認めたくはないが……旨いと言わざるを得ない……」
「良かったです!」
つまり、私の体も脂を欲していたことになる。
たかが豚の脂などがこのように美味いとは、人体とは不思議なものだ。
一口、また一口と粥を噛みしめていると、家の中にいた避難民たちを引き入れた勝ち組も家々から顔を覗かせ、匂いにつられて下りてくる。
「すまないが、残りが少ないんだ。分け合って食べてもらえるかね」
煮汁や粥の残りを差し出せば、長耳族は恐る恐る、元避難民たちは嬉しそうに食べ始めた。
匂いにつられて下りてきた中にウォルナットとマトカもみえ、二人を手招きする。
「聖母様、これは……どうしたのですか?」
「彼らは肉体労働をしているからね。魚とお粥の差し入れだよ。少ないが君たちもどうかね?」
焚火の縁から串に刺さった焼魚をウォルナットではなく、マトカに差し出す。
彼女は元々こうしたものを食べていたはずだ。それがウォルナットと一緒になったことでカラムスというマズイ主食を食べている。幸せという調味料が食事の不味さを補ったとしても限度がある。
「い、いいのかい?」
マトカは喉を鳴らす。
「勿論だよ」
ウォルナットを気にしながらもこんがりと焼けた魚を口にすれば目が見開いた。
一口、二口とする間に食欲は止まらなくなる。
「うまい、久しぶりの味だよ」
「よかった。ウォルナット君もどうかな? 君には最初はこっちがいいと思うんだ」
煮汁を飲ませるとこちらも目の色を変え、二人は顔を見合わせる。
「お、美味しいです」
「うんうん、お盛んなのいいが、これからを考えると母体には栄養が必要だと思うよ」
「うっ!?」「えっ?」
二人は驚く。
まぁ、二人の首周りにある無数の赤い斑を見れば一目瞭然なのだが、そこは口にしないくらいの慎み深さはある。
まぁ、若いのが二人いればこうなって然るべきだろう。
そして、私にとっては歓迎すべき事実でもあった。
「カラムスも悪くはないが、やはりこちらの方がいいだろう?」
ここで重要なのは長耳族を尊重することにある。
彼らの協力なくして、これからの生活は立ち行かない。臍を曲げられても困る。
生活感の違いのなかで食事の苦言は指摘が難しいが、愛妻の要望とあらば聞いてくれるはず、そう思っての仕掛けだった。
「そう……だね。今まで逃げ回ってきたから、火はあまり使えないし、市にだって行けなかった。だから食べられるだけでいい、って思っていたんだけど……」
ここまで言葉を引き出せればこちらのものだ。
ウォルナットも神妙な顔をする。
意外だったのはマトカがチラリ、と夫であるウォルナットの顔を伺ったこと。
ここに彼女なりの気遣いがある。男勝りに見えて、意外と尽くすタイプかもしれない。
「だが、これからはよりたくさんの栄養が必要になる。元気な子供を産むのならなおさらだ」
「こ、子供なんて、まだ早いよ。長耳族と人だし、アタシもけっこういい歳だし……」
「そんなことはありません!」
「と、突然大きな声を出さないでくれないかね」
ウォルナットがマトカを抱きしめ、吠えた。
あまりの唐突さに声が出る。
「ボクは、責任を取るって言いました! マトカさんとの子供のために頑張ります!」
「い、いいよ、まだできるかどうかもわからないんだし。それに、アタシ、若くないんだよ?」
「マトカさんとボクなら大丈夫です! 生まれてくる子供も一緒に幸せにします!」
「ば、バカ、気が早いよ」
そう口にはしても、マトカもまんざらではない。
見ているこっちが恥ずかしくなるやり取りだが、演出としては最高だ。
「聖母さま、妻と子供のためにボクができることはなんですか? どうすればいいですか?」
「良い心掛けだ。だが、そのためには君たちも変わらなければいけない。その覚悟はあるかね?」
「勿論です!」
ウォルナットの決意を、皆が見ている。
まぁ、いかに彼が代表ヤヤンと並ぶリーダー格であるとはいえ、強行すれば反発も出てくる。まぁ、十分に仕込みはしたのだから、私としてもあとはやるだけだ。私にも目的がある以上、これは譲れない。
「これからのことを皆で話そう。ただし、少しばかり長くなるよ」
見渡し、様子を探る。
不安と期待が入り混じる雰囲気の中で、サーシャだけが輝く笑顔で私を見ていた。




